文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

戦後の日本人はいつまでも”戦争を知らない子供たち”の心情であり続けるべきだというのが、朝日の企画の趣旨

2021年05月21日 22時26分45秒 | 全般

以下は月刊誌Hanada6月号に、楊潔篪、泥棒・強盗・人殺しの論理、と題して掲載された、堤堯氏と久保紘之氏の連載対談「蒟蒻問答」からの抜粋である。
堤堯氏が私の母校の大先輩である事は既述の通り。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
P126
敵の存在を見失った日本
堤 
仄聞すれば、厚労相の加藤勝信がファイザーの日本支社と口約束をしただけで、正式な契約を交わさなかったというじゃないか。
本社といついつまでに何千万回分、といった具合に契約しなきやダメよ。
アマチュアみたいなミスを避けるためにも、専門の防疫庁を作れと言ってるんだよ。
久保ちゃんがいま言ったことを俺なりに言い換えれば、戦後の日本は敵の存在を見失っているんだね。
なにしろ憲法前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という一文がある。
「平和を愛する諸国民」に中国も入っているのかね。
久保 
日本さえ何もしなければ戦争は起きず、平和でいられるという発想ですね。
堤 
だいたい戦争には仕掛ける戦争だけでなく、仕掛けられる戦争もある。
実際、先の戦争は、日本がフランクリン・ルーズベルトから仕掛けられた戦争だった。
当時の軍需大臣を務めた岸信介に五時間半のインタビューをした際、「何であんな戦争をやったんですか」と訊いたら、こう言った。「戦わざるを得ないところまで追い込まれたんだよ」とね。
久保 
朝日新聞(二月十九日)なんか、オピニオン面で「『戦争』という、たとえ 新型コロナ」というタイトルで、新型コロナとの闘いを「戦争」にたとえることの是非を識者たちに聞いていました。
要するに「戦争」という言葉を使うのがケシカランというわけです。
かつて「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがあったけど、戦後の日本人はいつまでも”戦争を知らない子供たち”の心情であり続けるべきだというのが、朝日の企画の趣旨なのですよ。
楊潔篪にも「三分の理」
堤 
戦争を考えず、敵を見失い、ついには「戦争」という言葉も使うなと言葉狩りを始めたわけか。
考えたくないことは「ない」ことにしたいんだな。
かつてギリシヤ哲学の泰斗・田中美知太郎は『文藝春秋』の巻頭随筆にこう書いた。
「憲法九条を唱えてさえいれば、戦争が来ないというのなら、地震や台風も来ないでくれと憲法に書けばよろしい」。
言い得て妙じゃないか。
ウイルスも来ないでくれと憲法に書くか(笑)。
いま人権や人種差別反対というのは、ポリコレのキーワードとなっている。
実は、これを正面切って国際社会で初めて唱えたのは、他ならぬ日本なんだよ。
一九一九年のパリ講和会議で人種差別撤廃法案を日本は提案した。
これを潰したのが、アメリカ大統領ウィルソンだ。
賛成多数で決まった議決を、「こんな大事な法案は全会一致でなければならない」とひっくり返した。
自国の黒人奴隷の扱いに困るからだ。
この一連の経緯を、いま学校できちんと教えているのかね。
『昭和天皇独白録』は冒頭、先の大戦の遠因を論じて、こう書き出されている。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認するところとならず、黄白の差別感は依然残存し、加州移民拒否(註・カリフォルニア州の排日移民法案)のごときは日本国民を憤慨させるに充分なものである。 また青島還付を強いられたこと、また然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、これを抑えることは容易な業ではない」云々。
久保 
アラスカのアンカレッジで開催された米中外交トップによる会談で、ウイグル問題で突っ込まれた楊潔篪がアフリカ系米国人の殺害や「ブラック・ライブズ・マター」(BLM)に言及し、「多くの米国民は自国の民主主義をほとんど信頼していない」「人権問題に関してもアメリカが抱えている人種差別問題はここ数年の話ではない」「自国内の人権問題をごまかすために中国の人権問題に対して目を向けさせ、四の五の言うのはお門違いだ」と言い返しました。
このレトリックは、戦前日本が欧米列強に対して言っていたのと同じものです。
それが国際世論の場で説得力を持てなかったのは、日本独自の言い分はあるにせよ、やはり朝鮮併合や対華二十一ヵ条要求などの悪印象があったからでしょう。
かつて竹内好(よしみ)は「戦前の日本は欧米列強に対して七分の理があるが、アジアに対しては三分もない」と言ったことがあります。
僕個人としては、アジアに対しても五分五分くらいはあるんじゃないかと思うけど、たしかに楊潔鏡の言うようにアメリカ合衆国のインディアン虐殺やフィリピン制圧はえげつないし、イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争などを考えると、どの面下げて中国を批判できるのか、という言い分にも「三分の理」くらいはある。
しかし一方で「泥棒にも三分の理」という言葉もあるように、この楊潔篪の反論をもってウイグルの人権侵害や香港弾圧が正当化されると考えたとすれば、それはまさに”泥棒・強盗・人殺しの論理”と言うべきなのです。
バイデンはこの米中間の熾烈な体制間の争いを「民主主義と専制(全体)主義との戦い」と表現しています。
でも、いまアメリカで巻き起こっているアジア人ヘイト、アジア人への犯罪行為などを見ていると、西欧vsアジアという対立概念があったことを否が応でも思い起こさせます。
それが崩れて、本当にバイデンの言う「民主主義心専制(全体)主義」に基づく体制間の争いに塗り替えられるのか。
経済的利益や安全保障に絡む理念以上の日本とアメリカとの共有する価値観があるのか。
その普遍的理念でもって、中国と対峙し続けることができるのか。
菅とバイデンの日米首脳会談でそれらの問題にどういう答えを出せるのか……。
僕は二人の器量から推して、あまり期待はしていませんけどね(笑)。

 


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