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文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

Seeking Belleville's Sex Workers It is a sequel.

2013年09月10日 22時07分32秒 | 日記
Seeking Belleville's Sex Workers
Anne Mary Pisada (the journalist) to have entitled is from the news week magazine 2013/9/3 number, the article which was written at the Japanese edition.
It is a sequel.
Aaron (the tentative name) who sat in front of the writer put on the T-shirt to feel easy to the beige Capri pants and the corsage wore a stuck sandal.

She explained the reason why all aims to be French from her.
Saying the work at the street cleaner and the clothing factory heard” that it seemed that were simply found out in Paris “by the grapevine of the friend ".

At the end of the passage which arrived at France in spite of being, a dream was shattered.
“The staying visa cannot get a starting working visa even if it comes to an end.”
“It is refused even if it tries to work in the Chinese society.
As much as the baby-sitting work of being found out”
Baby-sitting however, it says that much exploited example occurs in the illegal working.
Aaron's employer was a good family but almost, she is said to be fagged at a few wages.
The harlot large majority hometown is Chinese northeast area but it is the people come from the provinces in the south that mainly constitute Chinese society in Belleville.
Then, discrimination of north and south in China and a prejudice are reproduced here in the warped form.

Most of the economically in the former days according to Tim Lester who manages a lotus bus abundant northern habitants get education in 16 - 18 years old.
They with the higher education degree made a human being in the district in the south a rustic plainly.

However, in Paris, the situation reverses.
Habitants who come from the district in the south don't sympathize with the women of the emigrant who came newly from the northern part and secretly employ the woman who doesn't have a starting working visa and there are not they in the chopsticks.
They have no choice but to sell a body if there is not support of the Chinese society and there is a slave in the baby-sitting work, too, with the same.
Because it doesn't lack the shame to return to the hometown by the empty-handed to clear off the debts, only it is.

The pinprick to receive from the police

Aaron did a baby-sitting for 7 months.
“It was blessed with the good employer and the treatment was good ".
However, because it came from China for the grandmother of the employer to take care of the grandchild, it lost work.
Aaron that it isn't possible to take regular work and that the debt was one which swells up entered a field as the last means.
The entrance to the prostitution is information from the companion.

According to Lester, because it is near nothing, it is never exploited in all sales by the swindler.
It was possible to crawl and in the investigation of “the medical party in the world ", 86 % of the answering woman encountered the damage of some thuggee.

Also, it says that the health which twines to the sex and the knowledge of the sexually transmitted disease prevention lack the large majority.

There are a lot of women by whom the rape was done by the man of the visitor or they were ravished by and there is an abuse by the police station, too.

Lester was doing work and to be worst said that it does “make a lot of unreasonable handling which depends on the French government eyes ".

The invitation (the spieler) of the sex act the reward of which was reward by the law which was established in 03 became illegal but prostitution itself isn't illegal still.

However, a lot of women are thought of as “inviting passively " and receive the harassing of the police.

The authority watches over the harlot and in broad daylight however, it inspects the things by stopping.

When discovered, it is often in the condom arrested in the suspicion of the spieler.

Hereinafter, it continues.

去年の今日。

2013年09月10日 11時27分14秒 | 日記

グラミー賞受賞 …。ウィキペディアから。

2012-09-09 
グラミー賞受賞  

グラミー賞へのノミネートは当然との見方はもとより、何部門でノミネートされるかが関心の的となりつつ、2003年1月7日に8部門でノミネート。

1月25日、アジア・オセアニアのツアーの最中、ビルボードのアルバム・チャートで首位に躍り出し、発売から1年も経たず、全米で270万枚のヒットとなった。

第45回グラミー賞(2003年2月24日、現地時間は2月23日)でノミネートされていた八部門中、アルバム『Come Away With Me』に対し、
最優秀アルバム賞(Album of the Year)
最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞(Best Pop Vocal Album)
最優秀録音賞、ノン・クラシカル(Best Engineered Recording, Non-Classical)

ノラ・ジョーンズ本人に対し、
最優秀新人賞(Best New Artist)

曲目『Don't Know Why』に対し、
最優秀レコード賞(Record of the Year)
最優秀楽曲賞(Song of the Year (songwriter)、作者:ジェシー・ハリス)
最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞(Best Female Pop Vocal Performance)

プロデューサーのアリフ・マーディンに対し、
最優秀プロデューサー賞(Producer of the Year)
と、ノミネート全部門での受賞となり、この年のグラミー賞の話題をさらうことになった、このときノラは、まだ23歳であった。

 


去年の今日。

2013年09月10日 11時25分40秒 | 日記

ロバータ・フラック、アレサ・フランクリン、ダスティ・スプリングフィールドを手がけたアリフ・マーディン

2012-09-09 
デビュー 黒字化は芥川。

結成したバンドのデモを、2000年10月にブルーノートでレコーディング。

これは、後にブルーノート・レーベルから『ファースト・セッションズ』(First Sessions)としてリリースされたが、現在は廃盤になっている。

ブルーノート社長、ブルース・ランドヴァル(Bruce Lundvall)が、このデモ・テープを聴いてノラの素質を見抜き、2001年1月、ノラはブルーノートと契約することとなった。

ノラは、2001年5月からクレイグ・ストリート(Craig Street)によるプロデュースで、デビュー・アルバム『カム・アウェイ・ウイズ・ミー』("Come Away With Me" - 邦題: 『ノラ・ジョーンズ』)のレコーディングを開始。

同年8月には、ロバータ・フラック、アレサ・フランクリン、ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)を手がけたアリフ・マーディン(Arif Mardin)によるプロデュースとなる。

あまりにも高名なプロデューサーがついたので、最初ノラは口を利くのもはばかるほど怖い思いだったが、思いのほか気さくで、たくさんのアイデアを出してくれた、と語っている。

しかし、まさか記録的ヒットになるとは、ノラ本人すら思いもよらぬことであった。

2002年2月26日、22歳でデビューアルバム "Come Away With Me" をブルーノートからリリース(日本では『ノラ・ジョーンズ』のタイトルで同年4月11日リリース)。

3月28日にローリングストーン誌が取り上げ早くも5月にはトップチャートの兆候が現われる。

6月、全米ツアーを開始。

日本へも同年4月にはプロモーションでライヴコンサートを行っており、9月再来日の際には全国5都市のコンサートを成功させ、さらに欧州12都市でのコンサートを行った。

11月にはヴァニティ・フェア(Vanity Fair)誌の表紙に著名なアーティストとともに掲載された。

ウィキペディアから。以下続く。


去年の今日。

2013年09月10日 11時24分04秒 | 日記

大学3年生の夏、友人に誘われニューヨークのマンハッタンに旅行。

2012-09-09
高校卒業後、北テキサス大学でジャズ・ピアノを専攻。

また、ラズロ(Laszlo)という名のバンドで、本人いうところの「ダークで、ジャジーなロック("dark, jazzy rock")」の曲を歌っていた。

大学3年生の夏、友人に誘われニューヨークのマンハッタンに旅行。

「音楽がわたしを引き留めたの。音楽業界はあまりにも巨大でとても刺激的。

特に『ザ・リヴィング・ルーム』(The Living Room)みたいなところで凄いソングライターの曲を聴くのは楽しかったから、あらゆるものが私の能力を広げてくれるように思えて、帰る気にはなれなかったの」
と後に語ったように、1か月の予定で旅行に出たまま、大学へは戻らずウエイトレスの仕事をしながらマンハッタンで出会ったソングライターたちに刺激を受け、自分の曲を作り始める。

1999年12月頃より1年ほどはファンク・フュージョンのバンド、ワックス・ポエティック(Wax Poetic)と共演する常連になった。

まもなく、ソングライターのジェシー・ハリス(Jesse Harris)、ベースのリー・アレグザンダー(Lee Alexander)、ドラムスのドン・ライザー(Dan Rieser)とバンドを結成、ノラはヴォーカルとピアノを担当した。

ウィキペデアから。以下続く。

 


去年の今日。

2013年09月10日 11時22分25秒 | 日記

7歳の頃よりピアノのレッスンを始め、中学生の頃にはアルト・サックスを吹くこともあった。

2012-09-09
5歳のとき教会の合唱団に所属。

7歳の頃よりピアノのレッスンを始め、中学生の頃にはアルト・サックスを吹くこともあった。

*芥川も、中学生の時にはアルト・サックスを吹いていた…何にも関係はないけれど。

「ママが8枚組ビリー・ホリデイのアルバムを持っていて、アルバムの中から、好きで何度もなんども弾いた曲の入ったディスクを取り出したの。

『ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド』("You go to my head")が大好きだった」と語った言葉は有名となり、あちこちに引用されている。

ビル・エヴァンスからも、この頃に影響を受けている。

15歳の頃、郊外のグレープヴァインからダラス中心街に移り住み、ダラスのブッカー・T・ワシントン高校でパフォーミングとヴィジュアル・アートを履修。

16歳の誕生日に地元のコーヒーハウスで初のギグを行い、ビリー・ホリデイの持ち歌『アイル・ビー・シーイング・ユー(“I'll be seeing you”)』をエタ・ジェイムズのイメージで歌う。

1996年、高校在学中にダウンビート学生音楽賞(Down Beat Student Music Awards)の「最優秀ジャズヴォーカリスト賞(Best Vocalist)」、「最優秀オリジナル作曲賞(Best Original Composition)」を獲得し、翌1997年にも同音楽賞で「最優秀ジャズヴォーカリスト賞」を受賞する。

…ウィキペディアから。以下続く。


去年の今日。

2013年09月10日 11時20分56秒 | 日記

ラヴィ・シャンカールの娘である(これがまた素晴らしい)ノラ・ジョーンズは…。

2012-09-09 
テキサス・レンジャース。

ラヴィ・シャンカールの娘である(これがまた素晴らしい)ノラ・ジョーンズは、ニューヨーク育ちとばかり思っていたのだが、生れはNY、育ちはテキサスっだことを、昨夜のNHK・TV、「SONGS]は伝えていた。

以下はウィキペディアから。 黒字化は芥川。

デビューまで

父はインド人のシタール奏者、ラヴィ・シャンカール。

ニューヨークに生まれたが、すでに母親スーは離婚していた。

4歳の頃、テキサス州ダラス近郊のグレープヴァインに移り住み、それ以来膨大なLPレコードを持つ母の強い影響を受ける。

以下、続く。

*黒字化の部分は、全くの初見で芥川も驚いた。


銀河鉄道の時刻表 2011-09-24

2013年09月10日 11時16分02秒 | 日記

太いふくらはぎ効率悪い証し 改善、普段の歩き方から…日経新聞9月24日25面より

2011-09-24 
走り方 足の形が語る

「足の速い人は脚が細い」というイメージがあるが、実際のところはどうなのだろうか。世界選手権などを見ればわかるように、トップランナーに脚の太い選手はまずいない。
しかし、もちろん細ければいいというものではない。効率的な走り方を身に付けた速いランナーの脚には、付くべきところに必要な筋肉が付いている。いい走り方をしていれば、そのために必要な筋肉が自然に発達する。
どうやら脚の形を見れば、速さがわかるらしい。

▼接地時間の長さ影響 筑波大スポーツR&Dコア研究員の吉岡利貢さんらは、日本の男子長距離のトップ選手18人の体力測定を実施し、さらに磁気共鳴画像装置(MRI)で腹部、太腿(もも)、ふくらはぎの筋の断面積を算出し、その関連性を調べた。

その結果、ふくらはぎの下腿三頭筋(かたいさんとうきん)の断面積が大きい選手ほど、「走りの経済性」(換気量、酸素摂取量、二酸化炭素排出量などから算出)が低いことがわかった。

つまり、「ふくらはぎが太い人ほど、ある一定の速度で走るために、より多くのエネルギーを必要としている」という結果が出た。吉岡さんは「ふくらはぎが太いから経済性が悪いのではなく、悪い走り方をしているから太くなったのでは」とみている。

下腿三頭筋は誹腹筋 (ひふくきん)とヒラメ筋に分かれている。詳しく調べると、誹腹筋の大きい選手ほど走りの経済性が悪く、ヒラメ筋の大きさと経済性の関連性はなかった。これは、2つの筋がどこに付いているかの違いからくるものだという。

ヒラメ筋はひざ下に付いているので、ひざの曲げ伸ばしにかかわらず、足が接地している間は常に使われている。一方、腓腹筋はひざ関節の上まで伸びて大腿骨(だいたいこつ)に付着している。そのため、ひざを伸ばすと強く働き、曲げると働きが弱まる。

よって、接地時間の長さ、足を地面から離したときのひざの角度によって、腓腹筋の発達具合が変わってくる。吉岡さんは「ひざが伸びるまで、足首で蹴り続けると、腓腹筋が使われる時間が長くなる。

つまり、接地時間が長く、足首を使って蹴る人は腓腹筋が大きくなる」と話す。体の中心から遠いところに重いものが付けば、脚は振り回しにくくなる。

▼速い人は腿裏が発達 効率良く走るにはランニングフォームが大切で、どこの筋肉が発達しているかがフォームのよしあしを表している。

吉岡さんらの研究で、もう一つ明らかになったのは、太腿裏のいわゆるハムストリングが大きい選手ほど、走りの経済性が高いということだった。

太腿の前部にある大腿四頭筋(だいたいしとうきん)と腿裏のハムストリングの大きさの比率を調べると、ハムストリングの比率が高い選手ほど経済性が高かった。つまり、前腿ではなく、腿裏を使っ七走る人の方が、少ないエネルギーで効率的に走れているということになる。

ハムストリングは股関節を使って、脚をスイングさせて蹴ったときに働く。一連の調査結果から、吉岡さんは「ひざと足首を使って蹴るのではなく、股関節を使って蹴る方が効率的に走れる」と結論づけた。

▼足首固定がポイント そのためには、着地したときに足首を固定するのが一つのポイントになる。フォーム矯正のためのお薦めが、芝生や砂の上でのランニング。

地面が軟らかいため、足首を使って走ったのではすぐに疲れてしまう。だから足首ではなく、股関節を使った大きな走り方が自然に身に付く。上り坂のランニングも、同様に足首では蹴りにくいため、フォーム矯正に有効だという。

また、ジャンプ系のトレーニングも効く。縄跳びの二重跳びの要領で、接地時間を短くして、できるだけ高くジャンプする。こうすることで、接地したときに足首を固定することを覚える。週に2回で十分で、できれば片足でもトライするといいという。スキップでも同様の効果がある。

かかとで着地すると、ひざと足首で蹴ることになってしまうため、足裏の前部で着地した方がいい。吉岡さん自身はかかとで着地して、べたべた走るフォームを改めて、前足着地にしたところ、ふくらはぎがつることがなくなった。

「ふくらはぎを細くできるとは言い切れないけれど、フォームの改善によって太くならないようにはできる」と吉岡さんは考えている。当然、普段の歩き方も脚の形に大きく影響している。


銀河鉄道の時刻表 2011-11-28

2013年09月10日 11時14分54秒 | 日記

とんでもない人だった 柳家小三治、立川談志を悼む/奔放さ 鋭さ 怪しい魅力…朝日新聞11月28日16面より
2011-11-28 
21日に亡くなった落語界の風雲児、立川談志。落語協会会長の柳家小三池は、協会を出ていった元兄弟子を「天才」とたたえ、「いまでも兄弟弟子という思いは無くなりません」と振り返った。

昔はよく話しましたよ。最近は2年くらい前かな、誰かのパーティーで、彼が私の席にやってきて、ずーっつと話し込んでましたよ。何を話したかは思い出せない。大事なことは言ってないんですよ。芸の話なんかはしなかったですね。

芸の話と言えば、いっぺんね、吉原にある飲み屋で私と(古今亭)志ん朝さんと談志さんが行き会わせた時があったんですよ。

まだ若い頃で、ほかにも若い噺家がいっぱいいて、飯食ってた。談志さんは遠くで志ん朝さんと話していたんですが、思い出したように私のところへきて「お前は志ん朝の噺をどう思う? ああいう芸をいいと思うか?」つて聞いてくるの。

「いいんじゃないの、いろんな芸があるんだから」つて言うと、「お前はすぐそういうことを言う」つて。不満だったみたい。あの人が議員になって、噺家と二股かけるようになってからは、「ずっと噺家をやってくれればいいのに」と思ってました。落語一本でやってたらとてつもない人になったろうに、と。

何年か経ってから、「あれを含めて談志さんなんだな」と感じるようになりました。あの頃考えてたのとは違う意味で「とんでもない人」になったと思う。

あの人は自分の考える以外の芸は認めない。思うまま押し通したい、と生きてきた。落語立川流を立ち上げた時も「やってるやってる」つて思ってた。ワガママ勝手を押し通せる環境を作って、天下とって生きてきた。本当は協会にいて自分の思い通りにさせたかった、というのはあるでしょうね。

師匠の五代目柳家小さんに「俺を会長にしろ」と言ってきた時もありましたよね。次の小さんになる芸名と言われている「小三治」にしろ、と言った時は「お前は人間がダメだから小三治はやれねえ」って。

その後、私のところに小三治が回ってくるとは思ってなかった。私だっていい人間じゃないですから。あの人は肩書とか権力とかに憧れて、そういうものが欲しかったから参院議員になったんじゃないの。

「宗教法人の教祖になりてえ。好き勝手できる、脱税できる」と言ってました。 最近は「声が出なくなった」とか「こないだの高座は駄目だった」という話を聞いてましたが、それを彼の生き方としてお客さんが認めるようになってきた。そういう意味で、お客さんを信者にした宗教をつくったようなものでしょうね。 (談)

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奔放さ 鋭さ 怪しい魅力  芸能評論家 矢野誠一さん

志ん朝、円楽、柳朝、談志という同世代の名手の中で、ちゃんとした後継者を育てたのは談志。閉鎖的な落語界から飛び出して議員にもなって、そんな社会性を持った落語家は明治期に落語の地位を向上させた三遊亭円朝以来ではないか。

談志と志ん朝がいなければ「落語家は身を落とさなければならない」という意識を払拭できなかったかもしれない。テレビの世界でも市民権を得て、若い人がこの道に入りやすくした功績は計り知れない。

ただ、そのために失われたものもある。与えられた世界で安全な芸をするのではない奔放さ、鋭さ、怪しい魅力が談志にはあった。だが、平成の芸人には引き継がれていない。談志とともに昭和は終わったという実感だ。


銀河鉄道の時刻表 2011-04-06

2013年09月10日 11時12分32秒 | 日記

会計検査院で、各省の検査担当を経て現職に在る氏ならではの、面白い論もあった…骨子は、

2011-04-06 
(文中敬称略)

昨日の朝日新聞13面、耕論 3・11復興財源は と題した面には、他に、飯塚正史 会計検査院官房審議官の、早稲田大を卒業して以来、会計検査院で、各省の検査担当を経て現職に在る氏ならではの、面白い論があった…骨子は、

…前略。

そこで、私が考える第四の方法は、10年度の決算剰余金約30兆円を財源にするのである。この約30兆円は通常なら、12年度予算の財源になるものである。しかし、3月末で発生する決算剰余金をどうしてすぐに使わないのか。なぜ1年も寝かす必要があるのだろうか。
 
これまでは、10年度分の決算剰余金は11年7月に確定するので12年度の予算に、また11年度分の剰余金は13年度の予算に、というように、前々年度の剰余金をその年度の財源とする悠長な方式であった。私の考えは、10年度分の剰余金は11年度に、11年度分の剰余金は12年度に、というように前年度の剰余金を使う方式である。
 
そして、11年度をもって前々年度方式を前年度方式に変えれば、サイクルを変えた11年度だけは、従来の09年度分と修正後の10年度分かダブるので、片方が自由に使えるという理屈である。工円の増税も借金もしないで乗り切ることができる方法だ。
 
これらは一般会計と18の特別会計の剰余金だが、私か考える方式の変更には特別会計上の目的を外す立法が必要だ。

また、サイクルを変えることで、今後の予算編成では決算剰余金見込み額として剰余額を見込むことになる。しかし、もともと予算は見込みの世界。決算剰余金だけ確定を待ったりするから無駄が生じるのである。
 
復興計画・予算は一刻も早く明示すべきだ。そして、潤沢な予算があることを被災に苦しむ人々に示し、世界に示す必要がある。

それによって世界の市場に、そして何よりも東北の人々の心に、小さな灯火がともれは、いまの日本にとってそれに勝ることはないだろう。  (寄稿)

*もう一つは前・大蔵省主計局長~事務次官を経た…ご存じの方も多いと思うが、武藤敏郎の論。…これは簡単に言えば増税論…芥川が、彼の論に感じたものは…外国が日本人に対して持つ決して良いイメージではないもの…ドブネズミ色のスーツを着たサラリーマン…そういう匂いを感じるのである。

彼の論を、日経や朝日の論説員たちが支持しよう、或いは、その様に世論形成を為そうとしている事は明白なのだが、…この20年、不要・無用のデフレを止める事が出来なかっただけではなく…、


銀河鉄道の時刻表 2011-06-05

2013年09月10日 11時09分49秒 | 日記

川端康成の美意識④一新人発掘の名人 日経新聞、美の美 から。

2011-06-05 
(文中黒字化と*は芥川)

川端康成は若いころ新人発掘の名人と呼ばれた。優れた批評眼は美術にも発揮され、新進画家だった草間禰生や村上肥出夫の天分をいち早く見抜いた。
 
草間禰生(82)は今や日本を代表する前衛的なアーティストだ。その絵画、彫刻、インスタレーション(仮設展否は国際的に高く評価されている。

*芥川も100%同意する。
 
1955年(昭和30年)3月、新進画家だった26歳の草間は、東京・銀座の求龍堂画廊で個展を開いた。そこにふらりと立ち寄ったのが川端康成。出品されていた15点の水彩画のうちの2点を購入する。いち早く草間の天分を見抜いていたわけだ。
 
草間は2002年に出した自伝「無限の網」にこう書いている。
  
「作家の林芙美子によって紹介された東京の求龍堂画廊で、『未知火』、『樹神』、『珊瑚礁』、『花の精』、『樹木の精』など、水彩画15点を出品した個展を開く。この個展の会場に訪れた作家の川端康成と、美術評論家の久保貞次郎が、作品を購入した」
 
川端が購入したのはこのページの「不知火」と「雑草」である。

04年に東京国立近代美術館で草間禰生回顧展が開催された際、企画課長だった松本透氏(現副館長)が、この自伝を読んで、川端康成記念会理事長の川端香男里氏に照会し、川端邸の蔵のなかから半世紀ぶりに発見されたものだ。
 
草間はこう振り返っている。
  
「私はIメートルくらいの距離から顔をじっと見つめられました。私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性にじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」
 
長野県松本市の旧家に生まれ育った草間は、テーブルクロスの赤い花模様がそこらじゅうに見えてしまう幻覚症状に悩みながらも10歳ごろから水玉や網模様をモチーフに水彩、パステル、油彩を使った幻想的な作品を描き続けてきた。

1952年に松本市で開いた個展が、現代美術の評論で名高い瀧ロ修造によって評価され、信州大学医学部の精神科医たった西丸四方博士からも「この子は天才だ!」と学会で紹介…以下続く。


銀河鉄道の時刻表 2011-06-26

2013年09月10日 11時07分01秒 | 日記

「学校を変える力」デボラ・マイヤー〈著〉…朝日新聞6月26日13面より

2011-06-26
■間違いだらけの子育て P・ブロンソン、A・メリーマン〈著〉
■学校を変える力  デボラ・マイヤー〈著〉

対照的な教育論に共通するもの
評・斎藤 環 精神科医

しつけや教育の問題は複雑だ。一撃必殺の"銀の弾丸"はない。マクロとミクロ、環境と個人、脳と心、思想とスキル、それぞれの視点から試行錯誤を重ねる必要がある。

『学校を変える力』の著者デボラ・マイヤーは、ニューヨークのハーレム(貧困地域)に小・中学校を設立し、独自の教育理論で9割以上の卒業生を大学に進学させる驚異的成功をおさめた。本書には彼女の30年以上に及ぶ現場経験から生まれた教育哲学と実践知が惜しげもなく注ぎ込まれている。

一方『間違いだらけの子育て』はタイトル以上に衝撃的な内容である。異人種間交流を増やしても差別はなくならない、子供のウソや攻撃性は社会性の一部である、IQは生得的ではない等々、"常識"をくつがえす知見がこれでもかと列挙される。

前者は誠実で人間味あふれる経験論、後者はメタ解析の手法を駆使した科学的かつ軽妙な語り口と、一見きわめて対照的だ。しかしじっくり読み比べていくと、いくつかの共通する主張が見えてくる。

まず、言葉への信頼だ。ブロンソンらの人種差別教育に関する指摘は、マイヤーの民主主義教育の方針と一致する。いずれも大人がしっかり問題設定しつつ言語化しなければ子供は学習できない。

さらに「言葉」は「文脈」とセットで伝えることで、いっそう学習は確実になる。次いで「人間」への信頼。マイヤーが選択制の「小さな学校」にこだわるのは、互いに顔の見える関係の素晴らしい価値を信ずるからだ。

一方ブロンソンらは、幼児の言語習得において、生身の人間のかかわりが必須であることを指摘する。
おそらく両者の論点は、最終的にガリレオの箴言「他人になにかを教えることなどできない。できるのは自力で発見するのを助けることのみだ」に集約されるだろう。しつけや教育とは、この真理を様々に変奏する試みなのだ。


銀河鉄道の時刻表 2012-07-27

2013年09月10日 11時00分40秒 | 日記
2012-07-27

朝日新聞を購読していない85%の世帯の人たちは、未だに、芥川の、「文明のターンテーブル」、を購読していない人達と同様に、実に、もったいない、のである。

この様な記事が朝日新聞本来の知性であろう。
実は、何一つ、根本的な事を解決してこなかったから、今の様な体たらくにしかならない政治と、多くの政治屋たちの世界なんぞに、どっぷりつかった運動音痴が、或る権力に寄り添って、己が立身出世を果たした。

考えて見れば、この35年超、我が国で、寵児の如くに扱われて来た者達…実業界に一人、言論界に二人…が、どれほど、私たちの国に取って、巨悪を働いて来た事か!

本来の朝日も読まず、芥川の本も読まず、実に、もったいない人生を送っているあなたに、

前記の様な者達の正反対に在る知性を御紹介する。


7/27、朝日新聞30面、社会欄から。

「ダーレオーエン26歳の急逝」と題した、阿久津篤史記者の特集記事である。

…前略。

ノルウェー西部の人口数百人の集落「オーエン」。この生まれ故郷のそばに眠っている。

フィヨルドを見下ろす墓地に母モーナさんは、毎日やってくる。

自宅そばの海辺が遊び場だった。ボートから落ちた時に溺れないよう、4歳で水泳を始めた。

初めて南極点に到達した母国の探検家アムンゼンを尊敬していた。

水泳選手があまりしない走り込みを入念にするなど、新しい物事にチャレンジした。

…中略。

さらなる向上を目指し、北島選手を育てた平井伯昌コーチを単身訪ね、指導を仰いだ。

「キタジマはサムライ、ぼくは探検家」。こう口にした。

地元で恵まれない子どもの指導に力を入れ、競泳界を席巻した高速水着を「子どもが買えない高価な水着は異常」と嫌った。

…中略。

ダーレオーエンー家ばロンドン五輪の観戦に訪れる予定だ。

「キタジマに金メダルを取ってほしい。でも弟は、自分も出たかったと思うんじゃないかな」

…後略。

銀河鉄道の時刻表 2011/6/3

2013年09月10日 10時54分49秒 | 日記

2011/6/3

編集部 大鹿靖明 2月21日号週刊アエラから。

一時は閉鎖さえささやかれたハウステンボスが復活を遂げつつある。創業以来初めて事業家がやってきたのである。

クリスマスイブの12月24日、澤田秀雄(60)は真っ赤なサンタクロースの衣装を身につけた。
「ようこそ、いらっしやいました」
 
178センチの体駆の彼が腰をかがめて子どもたちに…格好をするのは初めてだった。
 
格安旅行のエイチ・アイ・エス(HIS)を起こし、スカイマークを創業した彼が、3度目に挑むのがハウステンボスの再建である。
 
澤田はHIS社内の猛反対を押し切ってハウステンボスを買収した。1992年の開業以来一度も黒字になったことがなかった巨大テーマパークだ。2200億円の総工費を投じた豪華絢爛たる施設は築20年に迫り、今後、維持補修費がかさみそうだ。

誰もが尻込みし、前の持ち主だった野村プリンシパル・ファイナンス(野村証券グループ)は自力で転売先を見つけることさえできなかった。その「火中の栗」を敢えて澤田が拾った。
 
「失礼な言い方ですが、野村のプロのチームがやってダメだったものが私たちにできるのか、と。HISの中はみんな反対でした。その反対を押し切って僕がやろうと言ったのです。言った以上は、若手に任せられない。難しい案件なので自分がプレーイングマネジャーになろう、と」 それは澤田の旺盛な事業意欲によるのだろう。

HIS、スカイマークのほか、破綻した山一証券傘下の旧協立証券や、産業再生機構が支援した熊本の九州産至父通をこれまで傘下に収めて、それぞれ再建させた。
奇異に思われたモンゴルの銀行買収も、いま振り返れば資源・新興国ブームを先取りしたと言える。
 
ハウステンボス買収の動機もそんな彼特有の時代観による。
 
「5年後、10年後には『ビジネス観光都市』の時代が来ます。ビジネスと観光・エンターテインメントを結びつける動きがいま、世界中であるんです」

施設内唯一の住人
 
HISが昨年4月、ハウステンボスを子会社化して以来、澤田はハウステンボス内のホテルヨーロッパの一室で暮らす。ときおり東京に帰るが、1年間のうちほぼ3分の2は単身赴任状態で、施設内の「唯一の住民」と笑う。
電動アシストつき自転車で毎日園内を走り、「ここの明かりが少ない」「看板の表記を直して」「BGMがないと寂しい」と細かな注文をつける。
 
サンタもその一つだった。毎年オランダからサンタに扮する芸人を数百万円かけて招いていたが、澤田には無駄に映った。が、やめると、子どもたちから「なんでサンタさんがいないの」と苦情が寄せられた。それでは、と自らがサンタになった。
 
「自分でやればタダですから」 夏の炎天下で王様や王子にも扮した。
 
「着ぐるみを着てわかったのは、すごく歩きにくいこと。サポート役がいないと前を見て歩けないんです。2人がかりなのよ。だからこれからI人で着て動けるものに改めます」
 
一つひとつの細かな改善がやがて効率を促し、社長自らが働く背中を見せつけることで、次第に社員のやる気を引き出していく。園内のホテルマンから広報担当の課長になった高田孝太郎は、感激して言った。
 「トップマネジメントと現場の距離がすごく近くなりました」 澤田は照れながら言う。
 「社員の負け癖がひどくて。負け続きで自信がないんです。だから僕が現場に住んでコミュニケーションを増やして、教育してるんです。みんないやがりますが(苦笑)」

…後略。


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2013年09月10日 10時50分59秒 | 日記
 

 

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