映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

野いちご (イングマール・ベルイマン)

2013年01月18日 05時12分08秒 | イングマール・ベルイマン
(1957 90min)

針のない時計は時を刻みはしない.時が経過しない、年を取らない、つまりは死にはしない.けれども、死にはしないと言うことは、逆に言えば生きているとは言えないことを意味するのでは.

おまえは生きていながら死んでいるのだ、と棺桶のなかの自分が生きている自分に手を伸ばす夢.
野いちごにまつわる恋愛相手の女性への想い.記憶の中にあるその女性は若く美しい姿のままで変わりはしない.悲恋に終わった恋愛の相手の女性を、彼は変わることなく心に抱き続けて生きてきたらしい.時が経過しないもの、変わらないものは生きているとは言えない.つまり、自分の恋い焦がれた若く美しい女性の姿を抱き続けてきた彼の人生は、生きてきたとは言えないのではないか.先に結論が来てしまったようですが、それを考えさせるように、考えさせるように、車の旅の巡り会い、あるいは息子夫婦の出来事が描かれているのね.

私は、若い頃の想い出をそのまま抱いていることが決して悪いことだとは思いません.昔好きだった相手と同じように、今、自分の目の前に居る相手を好きになって生きて行けば、何も悪いことではないはずです.この点が描かれた男は違うようです.失恋の思いをきちんと消化しないで生きてきた.辛いものだと自覚しようとしなかったのではないのか.妻の浮気の現場を目撃しても妻を責めたりしなかった、この事実から、彼は辛い現実から逃避して、おそらくは学術的な研究に没頭することに逃避して、生きてきたのであろうと思います.
失恋によって男女関係に生き甲斐を求めることができなくなった彼は、仕事に、研究にのみ生き甲斐を求め、冷えきった夫婦関係、歪んだ結婚生活を送ってきた.その家庭で育った彼の子供は、彼と同じように医者なのだけど、学費を父親に返済することだけが目的、夢も希望も何も無い人生観を抱いていた.

議論、口論、時にはつかみ合いの喧嘩になることもある.女の子一人と男の子二人の旅姿は、楽しく生きるとはどのようなことか示している.辛いことを辛いと捉え、悲しいことを悲しいと捉えるとき、楽しいことを楽しいと捉えることができる.我慢に我慢を重ねただけの人生が楽しいはずはない.

旅の道連れの女の子、行く先、二人のどちらと一緒になるのだろうか.どちらにしても彼らは彼らなりに楽しく生きている.思い返せば自分の好きだった彼女も、彼女なりに楽しく幸せな人生を送ったように思える(楽しくピアノを弾くシーン).それに対して自分の人生は.

彼とメイドの会話.
「もう何十年も一緒に居るのだから、もっと気安く呼んでくれたらいいじゃないか」
「ご用がおありでしたらいつでもお越しください.鍵はかけずに置きます」
もう、互いに歳なんだからそれを認めて楽しく生きようじゃないか.何十年も一緒に暮らしてきて、実際に夫婦と変わらない生活をしてきたのだから.

女の子の連れの二人、一人は医者の卵で神を信じない、今一人は神学生.この二人がつかみ合いの喧嘩になった.つまり二人とも悪いやつ.神を信じても信じなくても同じこと.
老医師とメイドは、夫婦同様の生活を続けてきた.妻でも、メイドでも同じこと.
あの息子、もうお爺さんになった父親に、学費を返しても、返さなくても?????


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