映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

武蔵野夫人 (溝口健二)

2013年01月18日 02時24分33秒 | 溝口健二
(1951 88min)

先に、富子の場合を考えると、夫は浮気者なので、彼女の場合は別れて当然である.と言うことで、富子の夫は除外します.
道子
彼女は、家の財産を守るために、嫌々、夫と生活していました.つまり、お金のために夫と一緒に暮らしていたのです.そして、本当は若い勉が好きでした.
富子
彼女は、お金が欲しくて、道子の夫を誘惑しました.家の権利書を持ち出して駆け落ちしようとしたのですが、お金にならないと分かったら、道子の夫を捨てて、若い勉の所へ行きました.
道子も富子も、どちらも同じ、お金のために道子の夫である忠雄を選び、本当に好きなのは若い勉であった.道子も富子もお金に固執した悪い女である.そして、勉は、お金なんかいらない、と叫びました.
もし、道子がお金に固執しなかったなら、相思相愛、勉と一緒になりました.夫は道子との暮らしが嫌であり富子が好きだったので、問題はありません.そして、富子も彼女の夫が浮気者で別れたかったのであり、勉が道子と一緒になったのなら、必然的に道子の夫である、忠雄と一緒になったはずです.
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つまり、全て道子が悪いと言えますが、それはそれとして置いておいて下さい.
問題は、夫の忠雄なのです.彼はスタンダールの翻訳者、つまり大岡昇平自身を描いていると言えます.
彼を皆が、悪いやつ、悪いやつと言いますが、実は描かれた限りでは、何も悪くありません.道子との夫婦生活では、『私が妻の勤めを果さないので私が悪い』と、道子自身が言います.つまり、夫が浮気をしても仕方ないと言っているのです.そして、夫が別れようと言ったら、『別れないで』と頼んだのも妻の道子でした.
家の権利書を持ち逃げしようとしましたが、この場合も、彼が財産税を払っていたので、夫になんの相談もなく抵当に入れようとした道子の方が悪く、夫は自分の権利を守るために行った行為であると言えます.
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まとめれば、悪いのは全て妻の道子であり、夫は何も悪くない.つまり、大岡昇平は自分の浮気を正当化するために書いた作品であると、私には思われます.
悪いのは妻であり自分は何も悪くない.その考え方、作品の描き方に、なんの優しさもみられない、最低の作品である.


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