映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

浪華悲歌 (溝口健二)

2012年12月05日 06時56分54秒 | 溝口健二
『浪華悲歌』
公開 1936年5月28日 (71分)

監督  溝口健二
原作  溝口健二
脚色  依田義賢
台詞  藤原忠
撮影  三木稔
衣裳  小笹庄治郎
編集  板根田鶴子
音楽  音楽部
助監督 高木孝一
    鴻嶺利光
    坂本明
    坂田信吉

出演
山田五十鈴 村井アヤ子
浅香新八郎 村井弘
進藤英太郎 藤野喜蔵
田村邦男  横尾雄
原健作   西村進
橘光造   松下文三郎
志村喬   峰岸五郎


アヤコとススムは、隣同士の部屋で、話し声が筒抜けの部屋で取り調べを受けていました.取り調べを受けたアヤコは『彼と一緒になりたくて、金を取った』このような曖昧なことを言っただけで、真実を何も話そうとしませんでした.おそらく、それを聞いていたであろうススムは、『あの女に躍らされていた.自分は何も知らない』このように供述したのですね.
『彼は、何も知りません.全部、自分一人でしたことです』アヤコがこう言って、元々は兄の大学へ通うお金が欲しくてやったことである、と言う真実を話したならば、ススムの方もアヤコを理解することが出来たのではないでしょうか.
第三者に、警察管に、余計なことは話したくない、家庭の恥を話したくない、話してもどうにもなることではない、このような意識は誰にでもあると思います.実際に話してもどうにもならないかも知れませんが、けれども、アヤコの場合は政治犯ではないので、真実を話したとしても、彼女の不利益になることは何もありませんでした.
『あれは可愛そうな女だ.新聞に書かないで欲しい』警察署長はこう言いました.真実を話したならば、ひょっとしたら誰かが力になってくれたかも知れません.彼女は恋人のススムには、辛い真実を話すことが出来たのですが.
アヤコの家庭は、父親は当然として、妹も兄も卑怯な考え方の人間でした.妹にしても兄にしても、父親がお金を作ることが出来ないのは分っていたはず、少し考えれば、誰がどの様にしてお金を作ったのか分ったはず.自分の都合の悪いことは考えようとしない、何でも自分の都合に合わせてしか考えない人間でした.
こう考えれば、アヤコは警察で家族をかばおうと真実を話さなかった.そして、自分と結婚したい男なら自分をかばってくれるはず、こう考えて、あの様な供述をしたのだと思います.

今一度、アヤコの家族を考えれば、一つ目は父親の横領したお金に困った、つまり父親が刑務所に入ればすんだ話であり、彼女が体を売って父親うかばう必要など無い話です.二つ目は兄の大学資金、この場合も兄が大学を辞めればすむ話で、彼女が詐欺をする必要など無かったことなのです.

アヤコは、かばう必要のない人間だった家族をかばい、恋人同士と言う、互いにかばいあって生きて行くべき相手をかばわなかっただけではなく、卑怯な術に利用してしまったのです.そして、おそらく頼りになってであろう警察に頼りませんでした.彼女が真実を話せば、新聞記者が記事にしなかったか、あるいは真実が記事になったはずです.
まとめれば、アヤコはかばう必要のない家族をかばい、全く当てにならない家族を頼って家に戻った.正しくは、恋人のススムをかばい、当てにならないかもしれないけれど、最後の手段として警察に頼るべきであった.つまり、警察で真実を話すべきであった.


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。