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川中島古戦場八幡原(長野県長野市小島田町)

2013-10-16 08:14:50 | 遺産・遺跡など

2013年10月9日 長野県

川中島古戦場八幡原 

長野県長野市小島田町

越後:上杉政虎対甲斐:武田晴信軍による川中島の戦い・第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になったのが八幡原。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死した。

▲謙信VS信玄

 

 

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三太刀七太刀之跡

読みは「みたち・ななたちのあと」の碑。謙信・信玄一騎討ちの場所と伝えられ、三度斬りつけ軍配団扇(ぐんばいうちわ)には七つの傷が残っていたことから、こう言われている。逸話では、永禄4年(1561)の川中島合戦に、武田・上杉両陣営の旗本(はたもと)が入り乱れての大乱戦となった、信玄の身辺が手薄になったとき、風のように信玄の本陣に切り込んできた武者がいた。萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)をつけ、頭を白布で包んだ武者は月毛の馬の馬上から、三尺ほどの太刀をふるい、床几(しょうぎ※)にかけている信玄めがけて、三太刀斬りつけた。信玄は立ち上がり手にした軍配団扇で受け止めたが腕に二箇所の傷をおった。駆けつけた信玄の旗本が槍で馬上の武者を突いたがはずれ、鎧の肩にささった。これを叩き落とそうとして馬の尻を叩いてしまったので、馬が立ち上がり、一目散に走り去った。この白頭巾の武者こそが、上杉謙信であったという。後で信玄の団扇を調べてみると、刀の傷が七つもあった。※床几…折りたたみ式の腰掛け。長野市「信州・風林火山」特設サイトより

 

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執念の石

武田・上杉両軍が3万余の死闘を展開した永禄4年(1561)の川中島合戦。上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤※(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。長野市「信州・風林火山」特設サイトより

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八幡社

八幡社は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えています。永祿4年の第4次川中島の戦いのときに武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため社殿は破壊されてしまった。そこで信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させました。川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~より現在ある社殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、皇紀2600年記念事業として、昭和15年に移築したものだそうです。  川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~より

 

※ この場所で大きな戦いがあったことは確かなことだろう。だけれども戦いの跡を示す遺構などはなく、ただ思いを馳せるだけ。。。

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