2013年10月12日 千葉県
佐倉の町並み
千葉県佐倉市
印旛沼を中心に、多くの原始古代遺跡がある。市内中央部の江原台には、日本考古学草創期に注目を集めた遺跡があり、東端には、白鳳期の長熊廃寺跡が残る。鎌倉時代・室町時代を通じて下総守護として発展した下総千葉氏は、戦国時代になると本佐倉城(国の史跡、現・酒々井町本佐倉)を拠点とし、ここに佐倉千葉氏が成立した。戦国時代末期になると後北条氏の配下となり安房の里見氏の侵攻に対抗している。千葉親胤は鹿島城(のちの佐倉城)の建立に着手するが、暗殺され、一族の鹿島幹胤が引き継ぐも建設途上で死去。完成を目指した千葉邦胤は家臣に殺害される。後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡すると、鹿島城は建設途上で焼かれ、千葉氏も滅亡してしまう。その後近くの臼井城に徳川四天王の一人酒井忠次の息子である酒井家次が(臼井藩、後に佐倉藩領に編入)、同じく弥富城には北条氏一族の北条氏勝が(岩富藩、後に転封により収公)入城している。江戸時代初期には土井利勝が鹿島城を改造して佐倉城を築き、その後、堀田氏の居城となり、老中首座となった堀田正亮が11万石とし、佐倉は城下町として繁栄した。佐倉藩は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩であった。幕末の老中堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然に順天堂(現・千葉県指定史跡佐倉順天堂)を開かせた。また、「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えた。
▲創業寛政年
▲海隣寺は馬加から酒々井を経て、現在地の佐倉に移った。
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麻賀多神社
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▲明治25年(1892)の土蔵▼
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三谷家住宅
三谷家は旧成田街道に面し、江戸時代からの呉服太物を扱う老舗として佐倉に唯一残っている商家です。袖蔵の創建は棟札により明治17年(1884)と判明し、主屋もその頃には建っていたと考えられます。また、座敷屋は昭和10年(1935)位頃に建てられています。いずれの建物も近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えが残されています。 市登録有形文化財
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石渡家住宅
石渡家は旧成田街道に面した明治時代から続く商家です。主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正5年(1916)、「すまい」は明治40年(1907)に建てられたことが判明しています。蔵は明治38年(1905)以前に建てられたと推定されますが、詳しくは不明です。出桁造の「みせ」(外観は一部改装)の東西の壁を漆喰塗にするなど、佐倉の町屋の特徴が残されています。また、蔵は屋根のつうじ棟や軒先に優れた意匠が見られます。
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旧佐倉順天堂
佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出しました。現在、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残り、これを記念館として公開しています。
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