菅原貴与志の書庫

A Lawyer's Library

『反対車』 芸者をあげるくらいなら

2012-03-19 00:00:00 | 落語と法律
新・落語で読む法律講座 第16講

 市中に人力車がさかんに往来していたころの話。
 ある男が、神田あたりで客待ちをしていた一人の車夫に「万世橋を渡って、上野の停車場まで行ってくれ」と声を掛ける。
 ところが、この車夫、病み上がりらしく、車がひどく汚れているばかりか、おそろしく足が遅い。
 
「しょうがない」ってんで、途中で降りて、若くて威勢のいい車夫の人力車に乗り換えた。
 
 この韋駄天の車夫は、ものすごい速さで走り出し、あっという間に上野を駆け抜けてしまう。
 下手に喋ろうものなら舌を噛み切ろうというようなスピードで、気がつくと埼玉に着いちまった。
 
 途中で歩いていた芸者を跳ね飛ばして、池に落してしまったりする。
「おい、可哀相だから芸者を上げてやんな」という客に、
「冗談じゃねぇ、芸者を揚げるくらいなら車屋なんぞやってねぇ」


     


 威勢がいいのは結構だが、人を跳ね飛ばしておいて、「冗談じゃねぇ」と啖呵を切るとは、それこそ冗談ではない。
 車を運転していて、もしも事故をおこしてしまったなら、現場から逃げてはならない。まずは誠実に対応することが必要である。
 
 ただちに運転を停止して、負傷者を救護し、道路上の危険を防止するなどの必要な措置を講じて、警察に事故を報告しなければならない(道路交通法72条)。
 このような交通事故の場合の措置は、人力車による場合も同様だ。現在の道路交通法上、人力車も「軽車両」という車両の概念に含まれているからである(同法2条1項8号・11号)。
 
 被害者が損害を被った場合、加害者はその損害を支払う責任を負わされる。
 
 人身事故ならば、治療費、休業損害、慰謝料、後遺症や死亡による逸失利益などの損害を賠償しなければならない(民法709条、自動車損害賠償保障法3条参照)。 
 また、物損を賠償する責任も生じる。池の水で汚れた芸者の着物のクリーニング代は支払わなければならない。
 
 これらを填補するために各種の損害保険があり、自動車やオートバイによる事故のためには任意の自動車保険がある。
 事故車が任意保険に入っていないときにも、自動車損害賠償責任(自賠責)保険が適用になるが、物損事故では自賠責保険から保険金が出ない。
 
 また、ひき逃げされた被害者は、国から政府保障を受けることができる。なお、ご存知のとおり、人力車には自賠責の制度はない。
 
 車夫は、民事上の責任のほかに、業務上過失致傷罪で刑事処分を受ける(刑法211条)。
 また、指定された最高速度を超えて、相当なスピード違反をしているはずだから、反則金と減点いう行政上の処分もある。
 ちなみに、人力車などの軽車両が法定の最高速度を超えるなどということは、現行法上、まったく想定してはいない。



     


【楽屋帖】
 この『反対車』は、円鏡だった当代の橘家圓蔵師がよく高座にかけている。上方落語『いらち車』を東京に移したものらしい。
 人力車は、明治2年、和泉要助や鈴木徳次郎らによって発明され、その後「リキシャ(rickshaw)」の名で中国や東南アジアにも広まった。
 神田から万世橋経由で上野の停車場へ向かうということは、現在の中央通りを北上するわけだから、営団銀座線の地上を辿ったルートになる。ただし、現在の万世橋は明治36年に架け替わったもので、初代の万世橋(当初は「まんせい」ではなく、「よろずよ」と呼んでいた)は現在の位置から昌平橋寄りの上流にあった。
 いずれにせよ、人力車が乗用車として活躍していた、明治から大正期の東京が舞台の噺である。ちなみに、上方の『いらち車』では、「難波あたりから、梅田のステンショ(今のJR大阪駅)」まで行くようになっている。


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