菅原貴与志の書庫

A Lawyer's Library

『三人旅』 旅の恥はかきすて

2011-12-19 00:00:00 | 落語と法律
新・落語で読む法律講座 第13講

 義理で入った無尽(むじん)に思いもよらず当った男が、この金を使う工夫はないものかと、友だち二人に相談したところ、京見物の旅で使い果たそうということになり、兄い、半公、与太郎の三人で江戸を発つ。
 
 途中で馬子に声をかけられ馬に乗ることになった。旅慣れてないのを悟られると、吹っかけられるから、知りもしない馬子の符丁を知ったかぶりする。
 しかし、値切ったつもりが相手の言い値だったり、後ろ前に馬にまたがってしまったりのてんやわんや。
 
 馬子に指し宿(指定)された小田原の鶴屋善兵衛という旅籠をようやく見つけたが、ここでも相変わらずのとんちんかん。
 
 その晩、三人で「おしくら」と呼ばれる飯盛り女(宿場女郎)を買うことになったが、女が二人しかいない。そこで半公に、元柳橋の芸者で年増の女だなどとうまく話を持ちかけて、年寄りの比丘尼(びくに)を押しつける。
 年増女の待っている離れに行くと、女はすでに床の中。半公も床につくと、どうも様子がおかしい。
 気づいてみれば、つるつるの頭をした76才の婆さんだ。貧乏くじを引いた半公は、夜中にこの婆さんを三度も厠に連れて行くはめになる。
 
 翌朝、宿を発つ時に、兄いと与太郎はそれぞれの女に、髪につける油でも買えといって小遣いをやった。半公もやれとすすめられて、仕方なく「こりゃ少ねえが、油でも買って頭へ……といっても毛がねえな。じゃ油でも買って、仏壇に灯明でもあげてくんねえ」。

      


 旅を題材とした落語の代表作である『三人旅』は、あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』になぞらえて創作されたと伝えられている。かつては東海道五十三次が全部そろっていたとの説もあるようだが、その形跡を残した文献は残っていない。
  
 江戸の昔は、三人のように歩いて旅をした。また、明治時代に入っても、馬に乗り、従者を連れて、のどかに旅する人々はまだまだ多かった。
 
 明治31(1898)年に制定された民法では、「旅店宿泊ノ先取特権ハ旅客、其従者及ヒ牛馬ノ宿泊料並ニ飲食料ニ付キ其旅店ニ存スル手荷物ノ上ニ存在ス」と規定されていた(旧317条)。
 
 旅人を宿泊させた旅館は、旅客やその従者、牛馬の宿泊料について、その手荷物の上に先取特権(さきどりとっけん)を持つというのである。
 
 この先取特権とは、ある債務者に他の債権者がたくさんいても、その他の債権者に優先して弁済を受けることのできる権利のことだ(民法303条)。
 
 ただし、民法の現代語化によって、先の規定も「旅館の宿泊の先取特権は、宿泊客が負担すべき宿泊料及び飲食料に関し、その旅館にあるその宿泊客の手荷物について存在する」と改正されている(現317条)。
 
 昔の旅に対して、現代の旅行は大衆化し多様化しており、これを商売とする旅行業者も数多い。旅行業はある意味で夢を商ういい仕事だが、なかには顧客満足の観点からして疑問な営業態度の業者もないわけではない。
 
 海外ツアーのパンフレット上は、あたかも直行便であるかのように装いながら、隅に小さく「利用予定航空会社:未定」と表示し、現実には安全性や定時性に問題の多い航空会社の経由便しか仕入れていないという例もある。
 
 そこで、旅行者の保護を図るために制定されたのが、旅行業法である。
 この法律は、旅行業務に関する取引の公正の維持、旅行の安全の確保及び旅行者の利便の増進を図ることを目的としている(同法1条)。
 
 ところで、個人的には旅行会社には知合いも多い。そのうちの一人に関しては苦い思い出がある。
 
      

 
 ちょうど寝入りばなに、寝室の隣で電話のベルが鳴った。びくんとして起き上がり、受話器を耳にあてると、ピーという機械音。ファクシミリの送信らしい。壁にかけた時計を見やると、午前1時を少し回ったところである。
 
「ッたく、なんだよ。こんな時間に」。心地よい安眠のひとときを邪魔された腹立たしさも手伝って、大きく舌打ちをし、電話のファックス受信ボタンを押す。まだ眠たい目をこすりながら、ファクシミリ用紙に視線を落とすと、「通知書」と題する文章が几帳面な手書きでしたためられていた。
 
 そして、文末はこう結んである。「ご指摘いただいたとおり、文案を書いてみました。添削お願いいたします。出勤前には相手方に発送したいので、朝7時までにはご返信ください」と。
 
「ええーっ、7時まで……かよ」。
 筆者が司法修習生として、市ヶ谷の法律事務所で実務研修(要するに、弁護士のインターン)をしていたときのことである。靖国通りの歩道で、懐かしい顔に出会った。
 彼女は大手旅行会社の中堅職で、かつて筆者が航空会社の営業担当者だったころの得意先だ。そのときは、「久しぶりですね」などとあいさつを交わして、そのまま別れた。
 
 数週間後、彼女から事務所に電話があった。多少興奮気味の声である。通勤途中の私鉄ホーム上で、駅員とトラブルがあったらしい。その際に足に軽いケガを負ってしまったというのだ。話を聞けば、駅員の側にも責任が認められそうなケースではある。
 
 筆者は「泣き寝入りする前に、主張すべきところはきちんと主張し、そのうえで相手方の言い分も聞き出すべきでしょう」とだけアドバイスをした。
 
 それからが大変……事務所や自宅に何度となく電話がかかってくる。「駅の助役にも会ったが、誠意が見られない。オンナだと思って、ばかにしている」、「ケガは大したことないけれど、精神的にはものすごく苦痛を受けた」、「もう損害賠償するしかない。まとまった金額でなきゃ、アタシの気持ちがおさまらない」。
 
 おそらくは電鉄会社の官僚的な対応にも問題があったのだろう。彼女のボルテージは上がる一方だった。彼女に対して、怒りや興奮ばかりでは問題の解決にならないこと、損害賠償といっても認められる金額には一定の相場があること、冷静に論点を整理するためにも文書による通知・請求をしてみる価値があることなどを告げ、簡単な損害賠償請求のための内容証明郵便用の文例を送ってあげた。
 
 彼女は、「じゃあ、自分でその文書っていうのを書いてみるわ。できたら、チェックしてくれる?」と言う。これに対して、お人好しらしく(?)、愛想よくこう応えていた。
 
 「ええ、ファックスかなんかで送ってくれれば、みておきますよ」。
 誤字だらけの冗長な文章に、訂正と削除、それと少しの加筆を施し、ファクシミリで返信したのは、午後2時を過ぎていた。そのときを境に、ばったりと彼女からの連絡が途絶えた。
 
 電鉄会社との交渉はうまくいったのか、それともダメだったのか。多少なりとも溜飲が下がるような解決ができたのか、不満の残る結末だったのか――。頭の片隅で気にはなっていたものの、忙しさにまぎれるうちに、いつのまにか忘れてしまった。
 
 それから1年以上は経過していたであろうか。かつての同僚が集まった飲み会で、ゲストに呼ばれていた彼女と会った。ばつの悪そうな表情をつくりながら、「多少の解決金をもらって、勘弁してあげたのよ。あら、ご報告してなかったかしらね」。そう言ったきり、もうこの話題には触れようとしなかった。
 
 司法修習生の当時は修行中の身分だから、もちろん報酬がもらえるわけではない。でも、「ありがとう。お世話になりました」くらいの言葉を期待しても、バチは当たらないはずだ。
 そのとき小さくつぶやいた――「そりゃあ、ないだろ」。

      


【楽屋帳】
『三人旅』の題材となった東海道五十三次といえば、現代の東海道を歩きながら、宿後落語を創作・発表した噺家がいる。それが桂歌助師匠だ。
 平成11(1999)年には「東海道五十三次一宿一席宿場寄席」を、また、同じく14(2002)年には「東海道五十三次400年祭宿場寄席」を行った。東京理科大学では数学を専攻し、学校の先生になるはずが、なぜか桂歌丸師に入門したという変り種。かつてテレビ番組『水戸黄門』にも準レギュラー格で出演していたが、真面目で温厚な人柄が口調にもにじむ好男子である。