自分の中で気がつくと非常に大きな存在になっていたペドロ・アルモドバル。コロナ以来映画館から遠のいてしまったが、それでもアルモドバルだけは観たいという思いで東京に出向く。
ちなみに今回初めて株主優待を使って映画観ました。東京テアトルの株持ってるのです。
引っ越してから渋谷新宿が遠く…
映画鑑賞のホームグランドは西新井か越谷レイクタウンのシネコンになってます。東京なら有楽町日比谷は行きやすく、今回はヒューマントラスト有楽町で鑑賞
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アルモドバル映画の見た目の特長はVogueの写真みたいな「異様に」オシャレで綺麗な画である。ここで「異様」と言ったのが、アルモドバル映画の見た目以外の特長、主に脚本がキレイでオシャレしてる場合じゃないような気がするからだ。
アルモドバル映画はやはり脚本が最大の魅力だと思っている。そもそものストーリーが度肝抜くような、かつ一般的な倫理観から逸脱しているような作品がある。感動していいのか迷ってしまったり、時には自分の気持ちの整理がつかずマジで吐き気を覚えた時もあるのだ(その吐き気した作品をその年の私のベストワンに選んだ)。私はそうした作品群を「裏モドバル」と呼ぶ。『トーク・トゥ・ハー』『私が、生きる肌』など。
一方で普通に感動できる作品、映画好きでもない人にも普通にオススメできる映画も結構ある。私はそういう作品を「オモテドバル」と呼ぶ。『オール・アバウト・マイ・マザー』『ペイン・アンド・グローリー』など。
ウラもオモテも共通しているのは、ストーリーの良さだけでなく構成力のうまさだ。
普通に時系列でストーリーを追ったり、普通に日本的に言うところの「起承転結」で語らず、エピソードの順番を入れ替えてみたり、並行して語られる二つのエピソードの並べ方に一捻りがあり、それがラストの驚きや、感動を呼ぶのだ。
で、今回の、『パラレルマザーズ』だが、どちらかと言えば「オモテドバル」。
そして、構成の妙があるかと言うと、今回はそうでもない。割とシンプルにストーリーを最初から順に語る…と思わせておいて、主筋Aと、裏筋Bを、B1→A1→A2→A3→B2と並べることで、裏筋Bこそ、真の主筋であることに気づかせる作りになっている。
主筋Aはペネロペ・クルスがシングルマザーとして子供を産むが、病院で取り違えが起こって…というもの。興味を引く話であるが、是枝裕和の『そして父になる』など、いくつか似たようなストーリーの映画は思いつき、ある意味手垢のついた物語と言える。
が、しかし…
その「人目を引くが使い古された物語」は実は真の物語のダシに使われているのだ。
その真の物語には、これまでのアルモドバル映画との明らかな違いが一際輝いていて、それが映画に、ストーリーに力を与えている。その違いとは社会に対する怒りだ。
アルモドバル映画は恋愛、性、人生についての映画であり、傑作もそうでもない映画も大体はアルモドバルの個人的な思い、彼の心の中を映画化したもので、その叫びは彼自身の心に向けて発されており、その叫びに共鳴できる者たちの感動を誘った。
『パラレルマザーズ』は違う。この作品の叫びはこれまでのような内向的なものとは明らかに性質が違い、外の世界へと向けられている。政治的な映画と言っても良いが、気持ち先行の社会派映画のような瞬間沸騰的な感情の昂りはないが、アルモドバルの抜群の脚本構成力が物をいい、見終わってからジワジワくる。そうか、あのシーンは、あのエピソードはそう言うことか…と。
今現在の政治に対する怒りではなく、長い歴史に渡り女たちを苦しめてきた社会への怒り。この映画のストーリー的にはスペイン現代史に限定しているが、スペインによらず全ての国の、主に戦争を遂行してきた男たちへの怒りと言って良いだろう。
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映画はかつてのスペイン内戦で処刑され埋められた故郷の村の男たちの骨を掘り返して正式に埋葬しようと、ペネロペ・クルス演じる主人公が、男性の学者に話を持ちかけるところから始まる。
スペイン内戦は私なんかが軽く語れるようなものではない。
めちゃくちゃざっくり言うとファシスト勢力と共産主義勢力の争いで、ナチスとソ連の代理戦争的な側面があった。しかし、内情はそんなわかりやすい二項対立的なものではなく、それぞれの勢力内で派閥抗争が繰り返され、昨日までの敵と共闘して、昨日まで仲間だった勢力と戦うなんてこともざらにあったらしい。誰を信じていいのか、なんのために闘っているのかよくわからなくなったという。…って誰から聞いたの?って言われるとジョージ・オーウェルの著作からである。オーウェルはファシストを倒したい一心で義勇兵として共産勢力側に参加したが、上記のような複雑怪奇なゴタゴタで心を疲弊したらしく、その経験が後々の著作『動物農場』や『1984』に反映されることになる。ただしオーウェルはスペイン内戦について誰かが言ってることをそのまま信じるな、私の著作も含めて…などと言っていた。
スペイン内戦はファシスト勢力をまとめたフランコ将軍が権力を掌握し勝利する。以降スペインは軍事政権がしばらく続くが、時代の流れの中で緩やかに民主化が進み今日に至る。その歴史的経緯があり、内戦からファシスト政権時代についてきちんと清算されたとは言い難く、当時行われた粛清や人権侵害は闇に葬られている事が多いと思われる。
…などと知ったふうなことを買いたが、私自身があまりにスペイン内戦やスペイン近代史について勉強不足なので、これ以上言うのはやめる。
そんな背景もあってあの時代の骨を掘り返すことにお役所が積極的にならない面もあるのだろう。
だがペネロペ・クルス演じる主人公は自分の生まれ育った村でかつて行われた残虐な行為と向き合い、殺された人たち(自身の祖父も含まれる)を正当に、正式に埋葬しようと考える。これは単に骨を掘り返すだけではなく、スペインが歴史の彼方に葬った国家の闇を掘り返すことに他ならない。
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ところが、物語はペネロペが骨を掘り返すことを持ちかけた男と男女の関係になり、やがて妊娠し、そしてその男と別れてシングルマザーとして子供を産むという展開になる。
さらに、産婦人科で同室だった若い女性との子供の取違えが発覚し…
映画冒頭の処刑された村人たちの骨の話など無かったかの如く、物語はペネロペと若い女性と2人の子供の話に焦点が絞られていく。
ペネロペ・クルスは、出産、子育て、我が子を失い悲嘆に暮れる…など、女としての肉体的、精神的な痛みも喜びも全てをスクリーンいっぱいに映し出す。
ペネロペ・クルスは本作で全編スペイン語での演技ながらアカデミー賞において主演女優賞にノミネートされる。当然だろうと思うくらい圧巻の女っぷりだ。
アルモドバルらしい性の多様性のような展開ももう驚かないが、それでも性別も年齢差も超えて、性的な意味で虜にするペネロペというか、その包容力の凄さは、女神のような神々しさすら感じる。
ますます、最初の骨の話はなんだったのか?と思い、あれはこの物語のきっかけとして、男と出会うためだけの設定に過ぎず、この映画で描きたい本質ではなかったのだろう、主人公が男と出会い妊娠する物語を作るためだけの話であり、出だしのエピソードなど、スペイン内戦の事じゃなくてもなんでも良かったのだろう…と映画中盤くらいではそんな風に思っていた。
ところが違ったのである。
故郷の村の埋葬話はペネロペの出産以降触れることなく物語は進んでいくが、映画も後半折り返してからだいぶたったころ、突如として再燃する
ペネロペが産んだ子供の生物的な意味の父親が、骨を掘り返す許可が降りたと、ペネロペにコンタクトしてくる。
故郷の村に戻ると、内戦を経験した年老いた女たちがいる。
不思議なくらい女しかいない村。男たちは、つまり女たちの伴侶や息子たちは殺されたのだ。
ペネロペも、彼女と子供の取り違えを起こした若い女も、人知れず処刑された村の男たちの遺骨掘り返しに参加する。
これまでの話が、私の中で勝手にフラッシュバックされる
愛する子供を2回も失ったペネロペ
本当の母の元へ戻るこども。子供は親の元へ
歴史の中で女たちは愛するものを失いつづける。
引き裂かれた愛する者たちは、元に戻すべきなのだ。それが取り違えた息子を「正しい」母の元に返すエピソードとリンクする。
むしろ、スペイン内戦や処刑された村人たちの話こそ映画の本質で、ペネロペと子供の取り違えをめぐる話は本質をサポートするための物語だったのだ。
アルモドバルは声を大にして社会悪や政治の問題を訴えたりはしない。彼は脚本で、その緻密な構成でもって、冷静に問題を指摘する。
いつの時代も女たちは苦しみ続けるのだと。
それでもラストショット、骨を掘り返した後の穴に、現代の男たちが死んだように横たわるアルモドバルには珍しいイメージショット。
そこにどんな意味があるのか、正しいところはアルモドバル本人にしかわからないし、本人が映画の中でその意味を語っていない以上、解釈は観るものに委ねられている。
私の「解釈」は、「内戦は終わっていない」であり、強いて付け加えれば「男たちは殺し合い、女たちは苦しみ続けている」というところか。ただの私の解釈であり、違うかもしれない。
だがしかし「解釈」などがつまらないことに思えるくらいの画力(エヂカラ)がある。
それはアルモドバル風の異様に整えられた綺麗な画ではない、むしろ装飾性の無いむき出しの感性のままのような画だ。
ここに限らず、エピソードB(骨を掘り返す物語)が再開してからの画は全般的に、エピソードA(子供取り違え物語)と対照的に、装飾性がない。
映画として描きたいのではなく、現代そのままの姿として撮りたかったのだろう。
そうした装飾性の無い画でありながら明らかに、過剰に飾られた埋められた男たち、その画の違和感が、それゆえに心に刺さる。
アルモドバルという人は映像より脚本の人だと思ってきたが、この映画の終盤は映像作家としての演出力を見せつけている。それは自身のこれまでの作風があるが故の、からめ手的な演出かもしれない。どこかイーストウッドがこれまで自分が演じてきた役を観客に意識させながら自身を描くのに似ている気もする。
それでもなんでも、映画を使って社会に対してメッセージをぶつける、緻密な脚本でメッセージを作り込み、最後に映像で社会にリリースする
ドラマとしても、社会派映画としても骨太な作品に仕上げた。アルモドバルの映画作家としての円熟ぶりを堪能できる作品であった
『パラレル・マザーズ』
2022年12月、有楽町ヒューマントラストシネマにて鑑賞
監督・脚本 ペドロ・アルモドバル
撮影 J.L.アルカイン
音楽 アルベルト・イグレシアス
出演
ペネロペ・クルス
ミレナ・スミット→もう1人の母、キュート、これから期待
イスラエル・エレハルデ→遺伝的な意味の父親で骨の掘り返しを進める学者
アイダナ・サンチェス=ギヨン→ミレナ・スミットの母、自分本位な人に映るがでも生き方としてアルモドバルは否定はしていない。役者は左翼ばっかりでってセリフちょいウケる
ロッシ・デ・パルマ→ペネロペのビジネスパートナーで、プライベートでも理解者。アルモドバル映画の常連