百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

8月21日+8月13日~14日

2013年08月21日 21時06分02秒 | 日記

 8月21日 (水) 曇り  高校野球準決勝戦

今年の高校野球で、長野県大会で強豪佐久長聖を破って優勝した上田西が8月11日木更津総業と対戦することになって、実力を見せつけ鎧袖一触と思いきや、アベコベに7点をとられたのを見てガッカリしてテレビのスイッチを切った。後でテレビを見て7:5と後半奮闘したことを知ってやっと納得した。

 それ以来、高校野球から遠ざかっていたが、3回戦あたりから有名高校の大阪桐蔭や埼玉の作新学院などが脱落し始めたので、再び興味が湧いて来た。特にベスト8に残った19日の4試合はすべてが1点差で力が入った。

 ① 花巻東(岩手)が鳴門(徳島)を5:4で破り②日大山形(山形)が明徳義塾(高知)を4:3で破り、③前橋育英(群馬)が常総学園(茨城)を3:2で破り④延岡学院(宮崎)が富山第一を6:4で破ったことで高校野球の神髄を見た思いがした。抜きつ抜かれつの激闘、手に汗する熱戦に酔いしれた。明徳義塾や常総学園など強豪が破れ、東北勢が二校も勝ち残ったことも特筆ものだ。

しかし、今日の準決勝戦はあっけなく終わった。第一試合の前橋育英対日大三高は前橋育英が序盤に点を入れて三点差、この後夫々一点を加算して4:1。第二試合は花巻東対延岡学園戦。双方〇対〇の投手戦となったが、六回の裏延岡に2点が入って入ってそのまま逃げ切った。東北勢の決勝進出という彼岸は無なかった。

 明日の決勝戦は前橋育英と延岡学園の対戦だ。何れが勝っても初優勝。勝利の女神はどっちに微笑みかけるだろう。熱戦を期待する。

再入院した5日からの日記(5)

 8月13日(火)晴

  今日からお盆だ。妻は「8月1日は“うらぼん”で13日が迎え盆、16日が送り盆だ」という。幼い時に親から教えられたので86歳になったも間違いないと信じている。私がそれは違う。盂蘭盆というのはインドの言葉から来ているんだ。旧暦の7月15日を(盂蘭盆)と言って父母や先祖の霊を供養して先祖の霊を祭る行事をする日だ。1日にお墓参りをするのはお盆を迎えるのに一足早くお墓の周りを整えるいい習慣だから先祖から続いてるんだ、と言い続けてきたが未だ信じて貰えない。

  私は子供の頃、東京で育ったので、お盆は7月の15日,12日頃にはお仏壇に野菜や果物を供えて、16日には「お迎え!お迎え!」の声を聞くとお供え物を下げて渡していた。食べられるものなので勿体ないと思って居た。

 東京に小僧さんに来ていた子供たちも盆と正月には「藪入り」といって16日には休みが貰えた。いまは高速道路が麻痺するほどの民族の大移動が行われる良き時代となった。

 7月のお盆は東京ばかりで周りの土地では一月後れの8月なので馬鹿にしたもんだ。飯山に住んで、お雛様が3月なのに端午の節句が6月、中野では桃の節句が4月と一月遅れと聞いて驚いた。その土地の農繁期を外してやるのでそうなったんだという。

  私は無宗教でお経や説法などには関心はないが、自分があるのは先祖のお蔭だ。先祖の供養は人間のなすべき務めだ、と思って居るが・・・。

  〇 パパ・妻来る スイカ持参

  〇 AM11:00~12:00 宮嶋さんのリハビリ

  〇 PM2:30~3:30 大川さんのリハビリ

  〇 PM5:00 宮崎夫妻病気見舞いに来てくれる。

 

 8月14日(水)晴

  漢方薬に「葛根湯」という風邪薬があることはよく知られてるが、1945年8月14日に満州国興安総省(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)に於いて日本人避難民約千数百人(うち9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人郷民によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件があったという事実を今日、「今日は何の日」で初めて知った。

  日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告したソ連軍の攻撃に、興安総省参事官浅野良三氏の指揮のもとに避難民約千数百人が日本軍の保護を受けるべく、徒歩で移動していたところ、8月14日午前11時40分頃、一行が葛根廟給料付近に到着したところでソ連軍戦車部隊が行軍中の非武装の女子、子供を含む日本人避難民に対して攻撃を開始、殺戮は容赦なく、その状況は残忍、非道、暴虐…、あらゆる形容詞を使っても言い表せないもので、たちどころに避難民は壊滅し、1000人以上が死傷した。生き残った多数の子供たちは中国人に保護 され残留孤児となった。

 この惨劇のあとの逃避行も筆舌に尽くせぬ苦難の連続だったが、辛うじて帰国できた人は百数十人だったという。

 〇 AM9:30~10:00 宮嶋さんの指導でリハビリ

  〇 AM10:30 脳神経外科の先生 巡回診察に来る

     頭のガーゼを取り、入浴許可でる。

 〇 PM2:30~3:20 大川さんの指導でリハビリ

 〇 PM4:00~川崎の孫真ちゃん、ひ孫の航太君と見舞いに来てくれた。

        パパと妻も一緒。漬物の差し入れ。大歓迎!

 

 

 

 

 

 

 


8月20日+8月11日~12日

2013年08月20日 09時16分26秒 | 日記

 8月20日(火) 小雨 曇り 退院に際して貰った書類

 久振りの雨。退院して身辺整理をして居て病院から頂いた書類を改めて読み返してみて驚いた。

 入院をした8月5日12:33に作成された私の書類に【慢性硬膜下血腫】と断定、
NOC 1,意識レベルが悪化する前に手術をうけることができる。
2,ドレーン抜去となるまで、異常が無く、効果的にどれなーじができる。
NIC 観察項目 ①意識状態 ②血圧、体温、、呼吸、酸素飽和度 ③瞳孔の異常(大きさ、対光反射) ④ 頭痛、嘔気、   嘔吐の有無 ⑤ 運動麻痺の部位、程度 ⑥ 痙攣の有無 ⑦ 精神症状(性格変化、無気力、失見当など) ⑧ 日常生活動作の状況  ⑨ 尿失禁 ⑩検査結果、所見 ⑪ ドレーン排液の性状 ⑫ ガーゼ汚染の有無 ⑬ 創部の状態

 援助項目 ① 血圧コントロール ②頭痛、嘔などの苦痛がある場合は、医師の指示により薬を使用する。 ③ ドレナージの管理(医師の指示によりミルキング施行) ④ 自己抜去を予防する(同意を得て抑制を行う。)
 指導項目 ①ドレーン留置中の安静の必要性について説明する

 何故私にとって必要なのかさえ判らなかったが、【援助項目の ④ 自己抜去を予防する(同意を得て抑制を行う。)についてはベッドに手首を縛りつけるなら手術は断る、絶対同意はしない。家族にも承認のハンコを押すなと伝えてあると徹底抗戦する。】と言った言葉だけは覚えている。

 翌日(8月6日)の書類はAM8:38に作成されたもので「リハビリテーション総合実施計画書」とあった。書類には担当医師・理学療法士・作業療法士の氏名が記載されている。この リハビリテーションの基本方針と患者本人の希望として、歩いて世界一周をもう一度達成したいとも記され、理学療法士からは「姿勢調節機能の向上、基本動作・歩行能力の向上を目標にバランス練習、、筋トレーニング、基本動作練習、歩行練習を行う。作業療法士は全身状態・安静度に応じて動作の練習を進め、日常生活動作の自立を目指すと、具体的アプローチが記されていた。第三表には項目ごとに目標能力・訓練時能力・日常生活能力の判定数字まで記入されていて、観察眼には恐れ入った。

 更に手術前の「診療行為説明書には、患者氏名・病名・予定診療行為・予定日2013年8月9日とあり、現在の症状、診療行為の必要性とその内容が説明され、【治療としては穿頭ドレナージを行います。頭の一部に穴を空けて血腫を吸引します。その上でドレーンを留置します。手術は局所麻酔で30分程掛ります。(実際は1時間5分かかった)説明された8月8日と担当医師の記名捺印と立会人の署名捺印があり、下欄には同意書として私の署名・親族の署名が記入されていた。

 手術後、私の希望を受け入れて、妻宛に付添い許可証を呉れた。その付添い理由には妻の字で「心配なため」と書かれていた。お蔭で身体は拘束されずに済んで、担当医の好意に感謝している。

また退院の日(8月17日)には親心からか、A4半紙で【検査予約票】と「診察予約票」を念のため呉れた。丁寧な上に「バカ」がついた勘定だ。今まで何回も入院したがこんな丁寧な書類を貰った覚えはない。病院の配慮に感謝、恐縮している。

 再入院した5日からの日記(4)

 8月11日(日)晴

 4時48分、私のIphoneは起床のシグナルを送って来る。これは止めない限り鳴り続けるので目が覚める。これで私の一日が始まるのだが、入院中はそうもいかない。習慣だからもう眠れない。

 昨日の事、家族が来て私の身の回りの整頓をして呉れた。だらしないベッドの周りもすっきりした。落ち着いた雰囲気の中で、娘だけが落ち着かないテーブルの上に有った「爪楊枝」が無いというのだ。爪楊枝ぐらいでそんなに騒ぐことは無い。明日来るとき,持ってくれば良いという雰囲気だったが、几帳面というか、潔癖症とでもいうか、娘にとっては許せないことなのだ。

 再三再四探したがどうしても無い。結末は売店に行って買ってきた。やっと落ち着いた。娘にとって「一見落着!」と云ったところ。

 娘といっても、定年を迎えて今は介護センターのお茶くみに使って貰っている乳母桜だが、私の娘だけあって負けず嫌いでしかも好奇心旺盛である。という点は頼もしいが、新しく得た知識や気に入った行為は、自分だけでなく家族全員にも強いるのである。一番の被害者はパパである。「野菜の採り方が少ない。もっと食べて!」と小皿の盛って強制する。健康を気遣っての助言だろうが,いちいち世話を焼かれてはたまらない。

 昨日は私の手術の日。先生は気を利かせて手術後ベッドに両手を縛って患者から頭に入れたチューブをとられないようにするのが常套手段だが、私は「そんな事をされるなら手術は受けないと頑強に主張したので、付添人をつけることで納得した。

 その付添い人の人選で人揉めした。私は妻を指名したが、全員娘を推薦したので娘に決まった。愈々手術が終わって付き添いの話になった。私は妻を選んだが、娘は「私の名前で申請してある。」と主張して譲らない。再三言い争ったが、私は「一晩中世話を焼かれてはたまらない。帰れ!」と怒鳴りつけてしまった。余りいい気持ちはしなかったが、娘も怒って帰ってくれた。前回の手術の後の一夜は地獄の折檻を受けるような苦しい状態だったが、今回はまさに天国で、リラックスできた。

 今朝、目が覚めてしまったので、うつらうつらしながら付添い人がついて居るだけで安心できることを思い出していると、ふと「意地悪ばあさん」を思い出し、その歌詞を探してみた。

 青島 幸男 意地悪ばあさんのうた 作詞 みおたみずほ

 

イジワルは楽しいよ イジワルは楽しいよ

あー この世で一番たのしいもんは なん

てたってイジワルですよ

へへ にくまれたいよ 鬼ババでいいんですよ

それが生きがいだもん おや聞こえてきますよ

悪魔の声が ばあさんガンバレと

イジワルを もっとやりましょう イジワルを もっとやりましょう

あーすましたやつらに よくきく薬は なんてったってイジワルですよ

 

イジワルを もっとやりましょう イジワルを もっとやりましょう

あーわたしも人の子 ハートが痛むよ なにさ そんなこっちゃ

長生きできませんよ

へへ ここらでチョイと -になっちゃおう 全然きこえません

おやわたしは何も存じませんよ ペロリと舌を出す

イジワルはやめられませんよ イジワルはやめられぬ

あー誰でもみんな心の中には イジワルの虫がいるんですよもー

 

世の中が悪いんですかね ホントにもう

このわたしが悪いんですかね あー街中のみんなが

イジワルになるまで イジワルを続けますよ

そりゃマジメなヤツも ウヨウヨいるさ

掃いて捨てるほど でも1+1が2にきまってる

それじゃつまんないでしょう 

イジワルをパッとやりましょう イジワルをはでにやりましょう

どんどんいきましょう あー心の底から

イジワルが大好きです 神様ゴメンなさいネ

 

○ 上田西:木更津総合戦は5回の裏に7点をとられたので諦めてテレビのスイッチを切った。後で成績をみたら9回の表、3点を返して意地を見せたが及ばなかった。

 妻とパパが差し入れにやってきた。

 

8月12日(月)晴

 今日12日には全日空と日本航空夫々に大きな墜落事故が起きている。1958年の今日、全日空のダグラスDC-3が下田沖に原因不明のまま墜落した。当時、全日空は資力もなく、外国から中古のダグラスDCを購入して運航していたので装備は貧弱でしかも機材の取り付け部署さえ違っていて操作に間誤付く有様だっという。この事故で33名全員が死亡している。当時の航空機にはボイスレコーダーもフライトデータレコーダーもなく事故原因も完全には解明されなったという。その為か日本人の記憶からも完全に消え去っている。

 それに引き替え、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故は昭和60年(今から28年前)ジャンボジェット機747で乗員・乗客524人中、生存者4名520名が亡くなったという日本で起きた最大の航空機事故なので、御巣鷹山と共に記憶も新しいし、忘れ得ぬ関心もある。youtubeの中には3.221,078回も再生されたものさえある。私は訪中する際、今は亡き石田専務から「生存者のパスポート」を貰い、飛行機が落ちてもこれを持っていれば助かる」と激励された思い出がある。あれから28年も経ってしまった。

○ 昼近くパパと妻がやってきた。ママは真ちゃんの赤ん坊(女子)彩夏(あやか)14日の出産見舞いに東京へ行ったという。ヴィタミンB1・B2・B6配合という「新グロモント」を1c/s持ってきた。

 ○ 宮島さんが11:30リハビリにやってきた。

 ○ 大川さんがPM3:00から一時間、体のリハビリをやったくれた。体のバランスをとる難しさを実感した。

 ○ 肝心の脳神経外科の先生は見えなかった。今回の手術が前回の倍以上かかったこと、脳から出た血液が余りにも少ない(約50mml)ので、CTを見ながら解説して貰いたいこと、前回は食事時に1週間近くもこめかみが痛かったが今回はそれがなく良かった点も報告しようとチャンスを待ったが残念だった。

 


8月19日+8月9日~10日

2013年08月18日 15時32分43秒 | 日記

8月19日(月)晴れ 妻入院

 今朝からリハビリの心算で歩くことにした。歩いて帰ると、妻は今日日赤に行きたいので、パソコンの方は休んでくれという。私は強引に「他人との約束は守らなくちゃいけない。パソコンが済んだら俺も日赤へ行くから」というと、「自分の妻と他人とどっちが大事だ」と怒り出した。私は約束を守るのは男の務めだ」と啖呵を切って公民館に向かった。

 公民館のパソコンが終わって、パソコンを我が家に届けて欲しいと頼んで、私は日赤に向かった。日赤は予約制で飛び込みは後回しなので、未だ診察の番は廻って来なかった。午後一時を過ぎてママから昼食を勧められて食堂から帰ると、妻は診断が終わって、点滴を受けていた。

 担当した女医さんから家族状況の聴取や診断の結果について説明があった。レントゲンでは特別症状は見当たらないが大分衰弱しているので当分の間診療を日赤に任せて欲しいという。願っても無い申し出に大賛成。直ちに入院手続きに入る。こんな事は無いと思いますが、万一、生命が危険になった時は【延命治療】を望みますか?と言う。パパもママも無言なので、「私は自分のことなら、絶対に延命治療などして欲しくない」というと、女医は【いざという時には決心が出来ない状態になりますのでお聞きしました。御気になさらずに!」という事で、入院に当たっての説明に入った。

 一旦家に帰り、衣類や食器などを持って日赤に駆けつけると、病室で寝ていた。目覚めた姿から気持ちも落ち着いて気分もイイ感じで笑顔だった。どうやら気持ちが通い合った感じで私も一安心。

 帰りはノルディックウォーキングで歩いて来た。今日歩いた総計は12000歩を越えた。今日一日、肝っ玉上がったりさがったりしたがそんなに疲れは感じなかった。妻の病状にも私の未来に向かっても、これで自信がついた一日となった。

     8月9日(金)晴

軍歌に「敵は幾万ありとても・・・」という勇ましい歌があったが、その歌詞に

破れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ

瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや

畳の上にて死ぬことは 武士の為すべき道ならず

 とあるが、8月9日長崎に原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してきたニュースを聯隊本部前で放送を聞いた時はいよいよ一億玉砕の時は迫ったと感じた。

 連合軍が本土上陸の際に発せられることになっていた「信濃1号」で松本の部隊は碓井峠の守備隊など夫々の守備位置が決められた。わたしは「薬剤行李」の係りで衛生材料全般を引き受けて聯隊本部と行動を共にすることになっていた。いよいよとなればアルプスの山中でゲリラ戦を戦い、最後は万歳攻撃をして玉砕と覚悟していた。今、考えると随分純粋な青年兵士だったなァ…と思う。

 ○ 朝食の時、【手術のため 8/9Am10:0時以降は 許可あるまで飲んだり食べたりしないでください。】の注意書きが添えられてきた。朝飯は何時もより多めだった。

○ ラクテック点滴 pm1:00 ポカリスイットと同じとのこと。

○ 手術 PM 3:00~4:05

  手術は前回に比べて倍以上も掛かった。今回はドリルを使わず刀で頭をかき回していたように感じた。そのせいか、食事でこめかみが痛むことがなかった。

○ 担当医の計らいでベッドに両手を拘束しないで妻に一晩付き添ってもらった。お蔭で家にいる感覚で快適な夜を過ごすことが出来た。

   8月10日(土)晴

 付き添ってくれた妻をパパ・ママが迎えに来た。その際、座椅子を買ってきた。これでパソコンをやるときも姿勢がらくになった。ありがとう!

  朝、起きぬけにCTを撮った。その結果はまだ見て居ない。担任の先生が来て頭のチューブを抜いてくれた。血はどす黒く僅かに50ミリ採れただけだ。まだ足はふらつく。手術の効果は期待したほど表れない。これにはがっかり。

 1925年8月10日午前2時、昭和天皇は「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定した。前日より戦争終結の条件を協議していた御前会議は「国体護持」を認めて欲しいとする鈴木首相・東郷外相と阿南陸相ほかの軍関係者の主張する「戦犯処罰の処罰」「武装解除の方法」「保障占領」についての3条件を加えるべきだと意見が対立して決着が着かず、天皇に裁可を願った。陛下は「国体の護持」さえ保障されれば良いと仰せられたという話だ。

 私などは広島・長崎に原爆が落とされ、ソ連の参戦が報じられても、一億玉砕の美辞に酔って「大和民族が滅亡するまで戦う」信念を持ち続けて居のだから始末が悪い。

 今日は最高気温が6年振りで40度を超える暑さを記録した。高知県四万十市では40・7℃甲府でも40.5℃になったという。病院は天国だ。20℃位かナ!

 

 

 

 


8月18日+7日~8日

2013年08月18日 09時58分01秒 | 日記

 8月18日(日) 晴

今日は私の盟友山崎正孝さんのお父さんが戦死された日だ。彼のお父さんは遥か北、ソ連領カムチャツカ半島に最も近い千島列島の最北端の島【占守島】に駐屯していた。1945年8月15日、天皇陛下は連合軍に対して【ポツダム宣言】を受諾する旨の終戦の詔書をラジオを通じて全軍及び全国民に知らしめられた。「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と。

 日本軍はすべての前線に於いて停戦に応じ、順次、武装を解き死生の緊張感から解放され居た。しかしソ連は8月9日、突如日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告して日本の停戦状態を確認しながらも攻撃を仕掛けて来た。

 【占守島】に於いても日本軍は武装解除の状態にある中、8月18日ソ連労農赤軍が突如占守島に上陸攻撃を開始したので、日本軍も自衛のため応戦、戦闘が始まった。一時、島内に侵入されたが体制を立て直し、海岸線まで追い返した。この戦闘で山崎さんのお父さんは戦死した。ソ連軍の発表によれば日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名だが、日本側の見方では、日本軍600名ソ連軍3000名という。

 実は、今回の北信病院の入院で南病棟615号室で占守島に配属されていたという内藤さんと偶然同室した。彼の話によれば、15歳で少年信号兵を志願して北海道に派遣され、通信兵として千島列島最北端の占守島勤務を命じられたという、それが幸運にも終戦の年の5月、北海道復帰命令で命拾いしたのだという。内藤さんは自費で自叙伝を出版して配布したという冊子を【読んでほしい】と私に差し出されたが、手術の爲、私は617号室に移動されてしまったので本人と膝を突き合わして話し合うチャンスを逸してしまった。残念!今も山崎さんと内藤さんを引き合わせる機会を掴みたいと思って居る。

 再入院した5日からの日記(2)

 8月7日(水)晴

私が初めて知ったことだが、「太平洋戦争の末期、アメリカが計画していた日本への原爆投下について、イギリスが同意していたことがアメリカの公文書で明らかになったと8月4日共同通信が報じていることを初めて知った。

 1944年9月18日、」ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談をした。内容は核に関する秘密協定であり、日本への原子爆弾投下の意思が表示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた、と。

 

〇 AM9:00 大川先生の指導でリハビリが行われた。お手玉を高いところに積み上げる・ビー玉を足の指で摘み、ケースに入れる・・・

○ 階段下りの要領を覚えた。

 

○ PM1:30 宮島先生のリハビリ指導 パズル組立 お手玉の投げ入れ

 

○ Kさん来てくれる。感謝

 

○ 家中で来る。H女史同行

 

8月8日(木)晴

 今日は正式に予約した日。リハビリだけで何もしないなら家で待機していても同じだが、4日ほど無駄飯を食った勘定だ。

昼近く、看護師さん来て「明日、手術をするので部屋を代えます。手術後に付き添いが付くというので空いている部屋に移ります」と。前に入院していた時の617号室に戻る。

隣のベッドの内藤さんが信号兵だったと聞いたので、「私は衛生兵でした。今は軍隊生活をした人は少なくなりましたネ」と声をかけると「青春のつぶやき」という自分史を渡されたので、私も内閣府で出した「いきいき人生」に私の記

事があるので見て下さいと言って本を交換した。

読んで驚いたことに内藤さんが千島列島の最北端の占守島に勤務したとあった。そこは山崎正孝さんのお父さんが終戦後の8月18日、ロシヤ兵の奇襲にあい、戦死した島で、内藤さんは5月北海道に転属命令で九死に一生を得て、捕虜にもならず除隊できたというのです。

 

○ 午後2時、再び」CT撮影をする。午後5時家族全員で脳神経外科に呼ばれ、あすの手術の説明を受ける。

手術は後便でやることになったので午後3時半~4時頃になるという。また付き添いはママに決定したので妻不服を言う。病院からは不測の事態が起きても不服を言わないようにと念を押される。


8月17日 +8月5日~6日

2013年08月17日 19時45分02秒 | 日記

   

8月17日(土)晴

今日は晴れて退院の日。

午後2時、愈々退院だ。朝起きて、眠るときは布団をかぶって眠らないと風邪を引きそうな快適な環境から猛暑の娑婆に戻るのかと思うと、極楽のような有り難い世界で避暑生活を送らせてもらったんだと自分の幸せを思い直した。

 昭和24年の夏、私達 忠組の同級会が飯山の料亭で行われた時、遥々東京からやって来た大塚一男君が「近頃物騒で汽車に乗るのも怖いネ」と語った。7月中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走して民家に突入した事件があったばかり。しかも同じ月に国鉄総裁の下山定則氏が出勤途中に失踪して翌日未明死体となって発見されるというミステリー事件があって今でも「国鉄三大ミステリー事件」として記憶に残っている。その大塚一男君が、帰京後松川事件に関わり遂にはその主任弁護人となったというだから驚きだ。

 松川事件は戦後4年、日本は敗戦から立ち上がるのにもがいていた。このような中で、戦時中に膨れ上がった公務員や国鉄職員の人員整理。・合理化に着手、これに抵抗する労働争議が各地で激しく行われていた。政府はこうした労働争議は「社会不安をあおるもの」として徹底的に弾圧する姿勢だった。こうした情勢の中で松川事件が起きた。東北本線松川駅―金谷川駅間のカーブで列車が転覆したのは何者かの意図的な列車妨害が行われたと判断、捜査当局は、当時解雇反対・工場閉鎖反対の国労福島支部幹部や東芝松川労組幹部らを次々に逮捕して自白を強要、罪状を作り出した。

第一審は検察側の主張をほぼ認めて、5人を「死刑」5人を「無期懲役」10人を有期懲役とした。しかし「無実な者を殺すな」との運動も盛り上がり、1959年最高裁判所は検察側主張と下級審の事実誤認を認めて裁判を高裁に差し戻した。

仙台高裁は再審の結果、全員無罪判決を言い渡したが検察側は再上告した。しかし1963年9月19日最高裁は検察側の上告を棄却。こうして被告全員の完全無罪が確定した。実に事件発生から14年、死刑判決を受けた被告にとってはまさに死刑台からの生還である。大塚主任弁護人指揮する弁護団の完全勝利だ。

 その大塚一男君も今は亡い。その彼は信州の北隅から出て徒手空拳で日本弁護士連合会の人権委員長に推されたのだから同級生として喜ばしい限りだ。

 ※ それにしてもレールの犬釘を外したりした真犯人は一体誰だろう。

 〇 午後2時、家族全員で迎えに来た。迎えを待って居る間に私はすべての荷物を整理して置いた。家族と617号の同室の皆さんに別れの挨拶をして勤務室に行き、看護師の皆さんに厚く礼を述べた。みなさんから「おめでとう!おめでとう!の声を聞いて「今月の裡にまたお世話になります。これからも宜しく…」とあいさつ玄関の受け付けに行き、「今日は病院のお休みの日で会計処理は出来ない。支払いは次回の予約の日で良いと聞いて来た。」と伝え病院を後にした。

〇 家に帰って、お見舞いに来てくれた皆さんと心配していて下さった方々に「退院の電話」だけした。

 〇 一番気がかりだったのは池の金魚とメダカの様子。その上、青メダカと一緒に仕入れた水草の生育ぶりだったが、これは期待したほどの成果ではなかった。

 〇 夕食前にパソコンを個室に据え付けて日記を締めくくった。

 〇 明日からの生活方針を暫定的に次のように決めた。

   ①    歩いて世界一周は、8月1日からパパに引き継いであるので、パパにはこのまま世界一周を継続して貰う。私は今月いっぱい足慣らしをして9月1日から自分の実績の上に加算して、命ある限り世界一周を目指して挑戦する

   ②    ブログには、入院した5日からの分を一挙に公開して、明日からも続けて行くことをFacebookで宣言する。

     再入院した5日からの日記

 8月5日 (月)晴のち曇り 入院

 今日は16パソコン同好会の日。一昨日(3日)パソコンの山崎事務局長にUSBメモリーを持参するように会員に知らせて欲しいと頼んでおいたが、今朝やってみるとうまく入らないことが判った。慌ててKさんに来てもらい復習をする。

 今日は公民館に全員が集まって呉れた。現金出納帳のコピーを始めると、いろんなパソコンがあって順調にコピーが出来たのは3人だけでタイムアウト。急遽家に戻り、脳外科の先生に電話して予約無しでの診察を依頼。パパの車で

 診断の結果は、「入院」と決定したが、担当医は手術には消極的な態度、病室が決まると、やってきたのはリハビリ係りの大川先生と宮島先生。

 615号室は」見晴らしの良い部屋だが、私のベッドは入り口で何も見えない。夕食後我が家に電話すると、パパが出てママはさっ気に家を出た、もうそっちに着く筈だという。いくら待っての来ないのでじりじりする。小一時間も待ってやっと顔を出す。遅いことを詰ると雨がひどく休み休みやっと来たのに文句を言われては叶わないと反対に脅かされる。

  寝際に家に電話して詫びる。

 

8月6日(火)晴1945年広島に原爆が投下された日

 

 アメリカは広島と長崎に原爆を投下したことで、日本の無条件降伏を引き出したと評価しているが、これに対して人道主義者の側からは残虐な行為以外何物でもないと批判する声もある。

 

 昭和天皇は8月15日の玉音放送の中で「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せむか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延いては人類の文明をも破却すべし.斯の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保持し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。」と原子爆弾に対する抗議を行っている。

 

 私は昭和17年、一ツ橋の共立講堂で仁科芳雄博士から原子爆弾の話を聞いてこれこそ起死回生の神風だ。アメリカより先に完成すれば」日本は必ず勝つと信じた。それが、国力の差、日本が2000万円の研究費を投じたのに、アメリカは12万人の科学者・技術者と22億ドル(103億4千万円)の巨費を費やして遂に完成した。これによって日本は後れを取ってしまったのだ。原子爆だが、

 

 だからと言ってアメリカは加害者で日本は被害者だと言い張っていていいのだろうか?私は同じ穴の貉だと思う。潔く同罪であることを認めるべきだと思う。

 

〇 PM3:00 日中友好育英基金の常任理事会を社協で開催。山崎・島崎・栗岩の3名の出席で、何も決まらずとの報告を受けたので、宮崎事務局長を訪ね、至急上村・柳沢日中正副会長を交え役員構成他体制の一新を図って欲しいと山崎副理事長に要請する。