8月22日(木) 晴れ 第95回高校野球決勝戦
今日は第95回全国高校野球大会の決勝戦が甲子園球場で群馬の前橋育英と宮崎の延岡学園で争われる日。
試合は正午を期して始まった。先攻前橋育英は幸先よく1回に満塁のチャンスを得たが併殺を食い、無得点。3回には先頭打者が2塁打、続く打者はボークで1・2塁としたが無得点、常に押し決めに試合を進めてきたが、4回の裏、延岡学園は2死満塁から内野安打、3塁手の悪送球で二走も生還、更にライト前に安打、一挙三点を取って勝負あったかに見えたが・・・。
五回、前橋育英は先頭打者が左中間へソロ本塁打を打って一点を返し、更にスクイズで2点目、そしてライト前ヒットで3点を返して同点。試合は振り出しに戻った。
7回には前橋育英の先頭打者がライト線を破る三塁打、続く打者がレフトに二塁打を放って1点とって勝ち越した。8回・9回と両投手の力投で点が入らぬまま試合終了。4-3で前橋育英が勝って、初出場で優勝を飾った。1991年の大阪桐蔭以来の初出場初優勝とのこと。見事 !見事!!
再入院した5日からの日記(6) 今回を以って日記は繋がったので終わります。
8月15日(木)晴 宮城事件
入院して退屈な毎日を送ってるが、無念夢想などできる能力が有る訳もないので手慰みにツイiphoneに手が出る。すると結構新しい知識をゲットするものだ。終戦の証書が出た瞬間、1億玉砕を唱えていた軍人も国民もみな天皇陛下の「朕カ意ヲ体セヨ」のお言葉で停戦を実行した。こんな素直な国民は世界中また歴史上でも嘗てない快挙だと信じていたが、一部軍人が徹底抗戦を主張して反乱を起こして居たことを知った。それが「宮城事件」だ。
宮城事件とは、1945年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省の幕僚と近衛師団の参謀が中心になって起こしたクーデター未遂事件のことだ。
日本の降伏を阻止しよう企画した将校たちが近衛師団長の森赳中将を殺害、師団長命令を偽造して近衛歩兵第2連隊を動かして宮城(皇居)を占拠した。
しかし陸軍首脳部と東部軍管区の説得に失敗して、彼等は自殺もしくは逮捕されたので、玉音放送は無事放送され、無条件降伏は当初の予定通り行われたのであった。
14日、御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が起こった。午前9時に陸軍省で開かれた会議で終戦阻止の為陸相は辞任して内閣は総辞職をすべきだという意見まで出たが、陸相は「不服な者はまずこの阿南を斬れ。」と述べて鎮静化を図ったというが、宮城事件は「終戦クーデターは阿南徒党の軌跡」として8月10日より15日ままでの言動が時系列に並べられ、陸軍大臣の言動には赤字で賊軍として記載されている。
※8月12日夜、阿南陸相は三笠宮を訪問.【昭和天皇を退位させ、三笠宮を擁立する】話をして三笠宮に叱責された記事が載っている。また14日21:00に昭和天皇終戦の証書に署名。23時[降伏受諾]をアメリカに通知。「阿南にとり降伏は既定路線。昭和天皇を殺害し、首を米軍に差し出し、占領条件を好転させる意図。」とまで記載されている。これじゃ、賊軍と太鼓判を押されても弁解は出来ない。こんな話初めて聞いた。 これホント? いや、これはやはりシミュレーション。実話ではないと信じる。真相は不明だ。でも責任をとって割腹自殺したこれホント!誠忠無比な阿南陸相を疑惑の目で見詰めてはならない筈。
犠牲になった指導的立場の軍人
近衛第1師団長森赳中将 14日午後1:45 畑中少佐等に射殺された
同席していた白石中佐(西部軍参謀)は斬殺された
陸軍大臣阿南推幾大将は15日遺書を残して自刃した
クーデターを起こした軍人たち
近衛第1師団参謀古賀秀正少佐 割腹の上拳銃で自ら自決
宮城事件の主謀者陸軍省軍務局 椎崎二郎中佐 坂下門近くの松林で割腹、拳銃で頭を撃ち自決
同 畑中健二少佐 椎崎中佐と行動を共にする
同 古賀秀正少佐 師団長室で従容として自決
上原重太郎大尉 陸軍士官学校の神社前で割腹自殺
近衛師団参謀石原貞吉少佐 水戸航空通信師団の説得中に射殺された
〇 AM9:30~10:30 宮嶋さんの指導でリハビリ
〇 PM2:00~3:00 大川さんの指導でリハビリ
8月16日(金)晴 玉音放送を聴いて
昭和20年8月15日、私は終戦の詔勅を松本聯隊の営庭に整列して全員で拝聴した。ラジオは雑音が飛び交っていて詔勅の意味の判った兵隊は全く居なかった。中には陛下が「一億玉砕」の意志を表明されたのではないかと言う者さえ居た。当時私は通信中隊の所属の衛生1等兵だったが、「いや、違う!戦争は終わったんだ。負けたんだ。」と主張した。注目は私に集中した。「陛下は“堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と言ったではないか。これは戦争をやめて平和を願うということだ、と強調した。これには全員が驚いた。「古兵殿は何処の大学を出たでありますか」と尊敬の眼で見返す者も居たが、「俺は高等小学校しか出て居ないヨ」とだけ答えた。
私が自信を以て思いを語ったのには裏付けがあったのだ。実は松本聯隊は。広島に原爆が落とされてから間もなく、一発、原子爆弾が落とされたら松本聯隊は全滅してしまうので全員周りの山の中の小学校へ疎開してしまった。
各部署には2~3人の留守役が残った。わたしも留守番になった。真夏で息苦しい暑さの中、夜は灯火管制で真っ暗。13日の夜、私が営庭に出て星空を眺めていると無線班の兵士が近づいて来て突然「衛生兵殿、日本は負けました!」と言った。彼は連合軍の情報を傍受していたので、一人では抑えきれなとかった感情の語りだった。二人で「死して虜囚の辱めを受けず・一億玉砕」はなんだったのかなどと、大声で憤懣をぶちまけた。
15日の玉音放送を聞くために部隊全員が営庭に集まってきた。話は専ら本土決戦に備えて天皇陛下から激励のお言葉があるものと信じていたようだ。その思いで聞いているのだから全くチンプンカンプン。何を言ってるのか何も判らなかったようだ。中隊に戻ってからは蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになった。私だけが光った。
〇 AM9:30 頭のCTを撮る。
〇 AM11:30 頭の抜糸 ホッチキスで止めてあったのだ。
〇 PM2:00~3:00 大川さんのリハビリ