百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

8月19日+8月9日~10日

2013年08月18日 15時32分43秒 | 日記

8月19日(月)晴れ 妻入院

 今朝からリハビリの心算で歩くことにした。歩いて帰ると、妻は今日日赤に行きたいので、パソコンの方は休んでくれという。私は強引に「他人との約束は守らなくちゃいけない。パソコンが済んだら俺も日赤へ行くから」というと、「自分の妻と他人とどっちが大事だ」と怒り出した。私は約束を守るのは男の務めだ」と啖呵を切って公民館に向かった。

 公民館のパソコンが終わって、パソコンを我が家に届けて欲しいと頼んで、私は日赤に向かった。日赤は予約制で飛び込みは後回しなので、未だ診察の番は廻って来なかった。午後一時を過ぎてママから昼食を勧められて食堂から帰ると、妻は診断が終わって、点滴を受けていた。

 担当した女医さんから家族状況の聴取や診断の結果について説明があった。レントゲンでは特別症状は見当たらないが大分衰弱しているので当分の間診療を日赤に任せて欲しいという。願っても無い申し出に大賛成。直ちに入院手続きに入る。こんな事は無いと思いますが、万一、生命が危険になった時は【延命治療】を望みますか?と言う。パパもママも無言なので、「私は自分のことなら、絶対に延命治療などして欲しくない」というと、女医は【いざという時には決心が出来ない状態になりますのでお聞きしました。御気になさらずに!」という事で、入院に当たっての説明に入った。

 一旦家に帰り、衣類や食器などを持って日赤に駆けつけると、病室で寝ていた。目覚めた姿から気持ちも落ち着いて気分もイイ感じで笑顔だった。どうやら気持ちが通い合った感じで私も一安心。

 帰りはノルディックウォーキングで歩いて来た。今日歩いた総計は12000歩を越えた。今日一日、肝っ玉上がったりさがったりしたがそんなに疲れは感じなかった。妻の病状にも私の未来に向かっても、これで自信がついた一日となった。

     8月9日(金)晴

軍歌に「敵は幾万ありとても・・・」という勇ましい歌があったが、その歌詞に

破れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ

瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや

畳の上にて死ぬことは 武士の為すべき道ならず

 とあるが、8月9日長崎に原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してきたニュースを聯隊本部前で放送を聞いた時はいよいよ一億玉砕の時は迫ったと感じた。

 連合軍が本土上陸の際に発せられることになっていた「信濃1号」で松本の部隊は碓井峠の守備隊など夫々の守備位置が決められた。わたしは「薬剤行李」の係りで衛生材料全般を引き受けて聯隊本部と行動を共にすることになっていた。いよいよとなればアルプスの山中でゲリラ戦を戦い、最後は万歳攻撃をして玉砕と覚悟していた。今、考えると随分純粋な青年兵士だったなァ…と思う。

 ○ 朝食の時、【手術のため 8/9Am10:0時以降は 許可あるまで飲んだり食べたりしないでください。】の注意書きが添えられてきた。朝飯は何時もより多めだった。

○ ラクテック点滴 pm1:00 ポカリスイットと同じとのこと。

○ 手術 PM 3:00~4:05

  手術は前回に比べて倍以上も掛かった。今回はドリルを使わず刀で頭をかき回していたように感じた。そのせいか、食事でこめかみが痛むことがなかった。

○ 担当医の計らいでベッドに両手を拘束しないで妻に一晩付き添ってもらった。お蔭で家にいる感覚で快適な夜を過ごすことが出来た。

   8月10日(土)晴

 付き添ってくれた妻をパパ・ママが迎えに来た。その際、座椅子を買ってきた。これでパソコンをやるときも姿勢がらくになった。ありがとう!

  朝、起きぬけにCTを撮った。その結果はまだ見て居ない。担任の先生が来て頭のチューブを抜いてくれた。血はどす黒く僅かに50ミリ採れただけだ。まだ足はふらつく。手術の効果は期待したほど表れない。これにはがっかり。

 1925年8月10日午前2時、昭和天皇は「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定した。前日より戦争終結の条件を協議していた御前会議は「国体護持」を認めて欲しいとする鈴木首相・東郷外相と阿南陸相ほかの軍関係者の主張する「戦犯処罰の処罰」「武装解除の方法」「保障占領」についての3条件を加えるべきだと意見が対立して決着が着かず、天皇に裁可を願った。陛下は「国体の護持」さえ保障されれば良いと仰せられたという話だ。

 私などは広島・長崎に原爆が落とされ、ソ連の参戦が報じられても、一億玉砕の美辞に酔って「大和民族が滅亡するまで戦う」信念を持ち続けて居のだから始末が悪い。

 今日は最高気温が6年振りで40度を超える暑さを記録した。高知県四万十市では40・7℃甲府でも40.5℃になったという。病院は天国だ。20℃位かナ!

 

 

 

 


8月18日+7日~8日

2013年08月18日 09時58分01秒 | 日記

 8月18日(日) 晴

今日は私の盟友山崎正孝さんのお父さんが戦死された日だ。彼のお父さんは遥か北、ソ連領カムチャツカ半島に最も近い千島列島の最北端の島【占守島】に駐屯していた。1945年8月15日、天皇陛下は連合軍に対して【ポツダム宣言】を受諾する旨の終戦の詔書をラジオを通じて全軍及び全国民に知らしめられた。「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と。

 日本軍はすべての前線に於いて停戦に応じ、順次、武装を解き死生の緊張感から解放され居た。しかしソ連は8月9日、突如日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告して日本の停戦状態を確認しながらも攻撃を仕掛けて来た。

 【占守島】に於いても日本軍は武装解除の状態にある中、8月18日ソ連労農赤軍が突如占守島に上陸攻撃を開始したので、日本軍も自衛のため応戦、戦闘が始まった。一時、島内に侵入されたが体制を立て直し、海岸線まで追い返した。この戦闘で山崎さんのお父さんは戦死した。ソ連軍の発表によれば日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名だが、日本側の見方では、日本軍600名ソ連軍3000名という。

 実は、今回の北信病院の入院で南病棟615号室で占守島に配属されていたという内藤さんと偶然同室した。彼の話によれば、15歳で少年信号兵を志願して北海道に派遣され、通信兵として千島列島最北端の占守島勤務を命じられたという、それが幸運にも終戦の年の5月、北海道復帰命令で命拾いしたのだという。内藤さんは自費で自叙伝を出版して配布したという冊子を【読んでほしい】と私に差し出されたが、手術の爲、私は617号室に移動されてしまったので本人と膝を突き合わして話し合うチャンスを逸してしまった。残念!今も山崎さんと内藤さんを引き合わせる機会を掴みたいと思って居る。

 再入院した5日からの日記(2)

 8月7日(水)晴

私が初めて知ったことだが、「太平洋戦争の末期、アメリカが計画していた日本への原爆投下について、イギリスが同意していたことがアメリカの公文書で明らかになったと8月4日共同通信が報じていることを初めて知った。

 1944年9月18日、」ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談をした。内容は核に関する秘密協定であり、日本への原子爆弾投下の意思が表示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた、と。

 

〇 AM9:00 大川先生の指導でリハビリが行われた。お手玉を高いところに積み上げる・ビー玉を足の指で摘み、ケースに入れる・・・

○ 階段下りの要領を覚えた。

 

○ PM1:30 宮島先生のリハビリ指導 パズル組立 お手玉の投げ入れ

 

○ Kさん来てくれる。感謝

 

○ 家中で来る。H女史同行

 

8月8日(木)晴

 今日は正式に予約した日。リハビリだけで何もしないなら家で待機していても同じだが、4日ほど無駄飯を食った勘定だ。

昼近く、看護師さん来て「明日、手術をするので部屋を代えます。手術後に付き添いが付くというので空いている部屋に移ります」と。前に入院していた時の617号室に戻る。

隣のベッドの内藤さんが信号兵だったと聞いたので、「私は衛生兵でした。今は軍隊生活をした人は少なくなりましたネ」と声をかけると「青春のつぶやき」という自分史を渡されたので、私も内閣府で出した「いきいき人生」に私の記

事があるので見て下さいと言って本を交換した。

読んで驚いたことに内藤さんが千島列島の最北端の占守島に勤務したとあった。そこは山崎正孝さんのお父さんが終戦後の8月18日、ロシヤ兵の奇襲にあい、戦死した島で、内藤さんは5月北海道に転属命令で九死に一生を得て、捕虜にもならず除隊できたというのです。

 

○ 午後2時、再び」CT撮影をする。午後5時家族全員で脳神経外科に呼ばれ、あすの手術の説明を受ける。

手術は後便でやることになったので午後3時半~4時頃になるという。また付き添いはママに決定したので妻不服を言う。病院からは不測の事態が起きても不服を言わないようにと念を押される。