百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

8月17日 +8月5日~6日

2013年08月17日 19時45分02秒 | 日記

   

8月17日(土)晴

今日は晴れて退院の日。

午後2時、愈々退院だ。朝起きて、眠るときは布団をかぶって眠らないと風邪を引きそうな快適な環境から猛暑の娑婆に戻るのかと思うと、極楽のような有り難い世界で避暑生活を送らせてもらったんだと自分の幸せを思い直した。

 昭和24年の夏、私達 忠組の同級会が飯山の料亭で行われた時、遥々東京からやって来た大塚一男君が「近頃物騒で汽車に乗るのも怖いネ」と語った。7月中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走して民家に突入した事件があったばかり。しかも同じ月に国鉄総裁の下山定則氏が出勤途中に失踪して翌日未明死体となって発見されるというミステリー事件があって今でも「国鉄三大ミステリー事件」として記憶に残っている。その大塚一男君が、帰京後松川事件に関わり遂にはその主任弁護人となったというだから驚きだ。

 松川事件は戦後4年、日本は敗戦から立ち上がるのにもがいていた。このような中で、戦時中に膨れ上がった公務員や国鉄職員の人員整理。・合理化に着手、これに抵抗する労働争議が各地で激しく行われていた。政府はこうした労働争議は「社会不安をあおるもの」として徹底的に弾圧する姿勢だった。こうした情勢の中で松川事件が起きた。東北本線松川駅―金谷川駅間のカーブで列車が転覆したのは何者かの意図的な列車妨害が行われたと判断、捜査当局は、当時解雇反対・工場閉鎖反対の国労福島支部幹部や東芝松川労組幹部らを次々に逮捕して自白を強要、罪状を作り出した。

第一審は検察側の主張をほぼ認めて、5人を「死刑」5人を「無期懲役」10人を有期懲役とした。しかし「無実な者を殺すな」との運動も盛り上がり、1959年最高裁判所は検察側主張と下級審の事実誤認を認めて裁判を高裁に差し戻した。

仙台高裁は再審の結果、全員無罪判決を言い渡したが検察側は再上告した。しかし1963年9月19日最高裁は検察側の上告を棄却。こうして被告全員の完全無罪が確定した。実に事件発生から14年、死刑判決を受けた被告にとってはまさに死刑台からの生還である。大塚主任弁護人指揮する弁護団の完全勝利だ。

 その大塚一男君も今は亡い。その彼は信州の北隅から出て徒手空拳で日本弁護士連合会の人権委員長に推されたのだから同級生として喜ばしい限りだ。

 ※ それにしてもレールの犬釘を外したりした真犯人は一体誰だろう。

 〇 午後2時、家族全員で迎えに来た。迎えを待って居る間に私はすべての荷物を整理して置いた。家族と617号の同室の皆さんに別れの挨拶をして勤務室に行き、看護師の皆さんに厚く礼を述べた。みなさんから「おめでとう!おめでとう!の声を聞いて「今月の裡にまたお世話になります。これからも宜しく…」とあいさつ玄関の受け付けに行き、「今日は病院のお休みの日で会計処理は出来ない。支払いは次回の予約の日で良いと聞いて来た。」と伝え病院を後にした。

〇 家に帰って、お見舞いに来てくれた皆さんと心配していて下さった方々に「退院の電話」だけした。

 〇 一番気がかりだったのは池の金魚とメダカの様子。その上、青メダカと一緒に仕入れた水草の生育ぶりだったが、これは期待したほどの成果ではなかった。

 〇 夕食前にパソコンを個室に据え付けて日記を締めくくった。

 〇 明日からの生活方針を暫定的に次のように決めた。

   ①    歩いて世界一周は、8月1日からパパに引き継いであるので、パパにはこのまま世界一周を継続して貰う。私は今月いっぱい足慣らしをして9月1日から自分の実績の上に加算して、命ある限り世界一周を目指して挑戦する

   ②    ブログには、入院した5日からの分を一挙に公開して、明日からも続けて行くことをFacebookで宣言する。

     再入院した5日からの日記

 8月5日 (月)晴のち曇り 入院

 今日は16パソコン同好会の日。一昨日(3日)パソコンの山崎事務局長にUSBメモリーを持参するように会員に知らせて欲しいと頼んでおいたが、今朝やってみるとうまく入らないことが判った。慌ててKさんに来てもらい復習をする。

 今日は公民館に全員が集まって呉れた。現金出納帳のコピーを始めると、いろんなパソコンがあって順調にコピーが出来たのは3人だけでタイムアウト。急遽家に戻り、脳外科の先生に電話して予約無しでの診察を依頼。パパの車で

 診断の結果は、「入院」と決定したが、担当医は手術には消極的な態度、病室が決まると、やってきたのはリハビリ係りの大川先生と宮島先生。

 615号室は」見晴らしの良い部屋だが、私のベッドは入り口で何も見えない。夕食後我が家に電話すると、パパが出てママはさっ気に家を出た、もうそっちに着く筈だという。いくら待っての来ないのでじりじりする。小一時間も待ってやっと顔を出す。遅いことを詰ると雨がひどく休み休みやっと来たのに文句を言われては叶わないと反対に脅かされる。

  寝際に家に電話して詫びる。

 

8月6日(火)晴1945年広島に原爆が投下された日

 

 アメリカは広島と長崎に原爆を投下したことで、日本の無条件降伏を引き出したと評価しているが、これに対して人道主義者の側からは残虐な行為以外何物でもないと批判する声もある。

 

 昭和天皇は8月15日の玉音放送の中で「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せむか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延いては人類の文明をも破却すべし.斯の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保持し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。」と原子爆弾に対する抗議を行っている。

 

 私は昭和17年、一ツ橋の共立講堂で仁科芳雄博士から原子爆弾の話を聞いてこれこそ起死回生の神風だ。アメリカより先に完成すれば」日本は必ず勝つと信じた。それが、国力の差、日本が2000万円の研究費を投じたのに、アメリカは12万人の科学者・技術者と22億ドル(103億4千万円)の巨費を費やして遂に完成した。これによって日本は後れを取ってしまったのだ。原子爆だが、

 

 だからと言ってアメリカは加害者で日本は被害者だと言い張っていていいのだろうか?私は同じ穴の貉だと思う。潔く同罪であることを認めるべきだと思う。

 

〇 PM3:00 日中友好育英基金の常任理事会を社協で開催。山崎・島崎・栗岩の3名の出席で、何も決まらずとの報告を受けたので、宮崎事務局長を訪ね、至急上村・柳沢日中正副会長を交え役員構成他体制の一新を図って欲しいと山崎副理事長に要請する。