百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

多多益々辦ず

2013年01月31日 13時06分58秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月31日(木) 快晴

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,068

11,948

 

今  月

31

510,545

357,382

16,469

今  年

31

510,545

357,482

16,469

2005年から

2,962

41,829,264

29,280,485

14,122

70歳の誕生日から

6,494

123,779,400

86,645,580

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 662,378m

 「多々益々弁ず」という言葉は好きではなかった。私はこの言葉を「自分考えを益々調子に乗って主張する」と解釈していたので、野党の政治家が、何か言いがかりをつけて大声で長々と我が党の主張こそ正当なりと主張している様を想像して「多々益々弁ず」と解釈していたが、私の間違えであることを知った。

 と云うのは十八史略では「練習」(一)多々益益辦 となっていて先生は「自習しなさい」と言って飛び越したし、私は真剣に読解しようとしなかった所為だ。

 高祖嘗従容問韓信諸将能将兵多少。帝曰、「如我能将幾何。」信曰、「陛下不過将十万。」帝曰、「於君何如。」曰、「臣多多益辦。」帝笑曰、「多多益辦、何以為我禽。」曰、「陛下不能将兵、而善将将。此信所以為陛下禽。且陛下所謂天授、力也。」

 高祖 嘗て従容として韓信に諸将の能く兵に将たるの多少を問う。帝曰く、「我のごときは能く幾何に将たるか。」と。信曰く、「陛下は十万に将たるに過ぎず。」と。帝曰く、「君に於いては何如。」と。曰く、臣は多多益辦ず。」と。帝笑いて曰く「多多益辦ぜば、何を以て我が禽と為る。」と。曰く陛下は兵に将たること能はざるも、善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以なり。且つ陛下は所謂天授にして、人力に非ざるなり。」と。

 高祖は以前、ゆったりとした様子で、韓信に諸将がどれくらいの兵力を率いる将軍となれるかを聞いた。高祖は言った、「私のような者どれほどの兵力を率いる将軍となれるか。」韓信は答えた、「陛下は十万を超える兵力を率いる将軍とはなれません。」高祖は言った、「君の場合はどうなのか。」「私の場合は、多ければ多いほどうまく処理します。」高祖は笑って言った、「多ければ多いほどうまく処理するなら、どうして私の臣下などに収まっているのだ。」「陛下は兵士を率いる将軍とはなれませんが、将軍の将軍となる技量があります。これが私、韓信が陛下の臣下となっている理由です。また、陛下の能力は、いわゆる天授のもので、単なる人間一人の能力ではないのです。」と。

 狡兔死走狗烹。飛鳥盡良弓蔵敵国破謀臣亡 

 狡兔死して走狗烹(にら)れ飛鳥尽きて弓蔵(おさ)まり、敵国破れて、謀臣亡(ほろ)ぶと。

 創業の功臣 さすがの韓信も高祖に謀反人として捕えられ一族すべて誅せられた。


韓信の股くぐり

2013年01月30日 17時23分59秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月30日(水) 小雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,559

11,590

 

今  月

30

493,477

345,434

16,446

今  年

30

493,477

345,434

16,446

2005年から

2,961

41,812,196

29,268,537

14,121

70歳の誕生日から

6,493

123,762,332

86,633,632

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 674,326m 

 十八史略 「韓信拜大将」の項に「俛出股下」があった。読んで行く中に、韓信の股くぐりの話と判った。韓信はエライ人物だということは知っていたが、詳しいことは何も覚えて居ないので、そこから調べ出した。

 淮陰人韓信、家貧、釣於城下、有漂母見信饑、信。信曰:「吾必有厚報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎!」淮陰屠中少年有侮信者、因衆辱之曰「若雖長大、中情怯耳。信能死刺我;不能死、出我胯下!」信熟視之、俛出胯下、蒲伏。一市人皆笑信怯。

 韓信は淮陰の生まれで、家は貧しく、幼いときに両親を失ったそして韓信は空腹を満たすため、地元を流れる淮水という河で魚を釣っていたが、洗濯物をしていたある婆さんが、彼は腹をすかしていると知って、持参してきた弁当を彼に食わせ、このようなことが数日続いた。韓信は非常に感動して婆さんに「いつかはこの恩をちゃんと返しますからね」といった。ところが婆さんはこれを聞いて怒り出した。「あんたは男なのに自分すら養えないから、こうしてあんたに飯をあげたんだよ。始めから恩を返してもらうなんて考えてないよ」。これには韓信、顔を真っ赤にし、きっと出世して見せると心に誓った。

 韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみな!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。

 出世した韓信は、空腹の時に世話になったあの老婆を呼んで、大金を与えて感謝の意を表したという。また股くぐりをさせた青年を呼んだ。青年は復習を覚悟していると、韓信は「お前のお蔭で立ち上がることが出来た。感謝する」と言ってお礼にの金子を渡したという話も伝わっている。

 実は韓信は謀に非常に長けた人物だった。当時は時勢が変わるときだと見て取った韓信は、いつかは出世する道が開けると確信し、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。紀元前209年、各地では秦王朝に反抗する農民蜂起が起こり、韓信はそのうちかなりの勢力を持つ蜂起軍に加わった。この蜂起軍の首領は、漢王朝の建国皇帝劉邦だったのだ。ところで韓信、初めのころは食糧と飼料を運ぶ係りを命じられ、志を得られず、毎日くさっていたが、のちに劉邦の策士である蕭何を知り、いつも時勢や兵法を論じていたので、蕭何はこの韓信が非常に才能のある人物であることを悟り、劉邦に彼を極力推薦したが、当の劉邦は韓信を重用しようとはしなかった。

  ある日のこと、ここでは出世できないとあきらめた韓信は黙って劉邦の蜂起軍を離れ、他の蜂起軍を頼って行ったが、これを知った蕭何は、韓信を連れ戻すことを劉邦に告げず、馬に乗って韓信の後を追った。劉邦はこのことを知り、二人は逃げた思ったが、数日後に蕭何が韓信をつれて戻ってきたので大喜び。「蕭何や、どうしたのじゃ?」と劉邦は聞くと、蕭何は「あなた様のために人を追うかけていったのですよ」と答える。「これまで逃げ出した武将は数十人もいたが、その方、韓信だけを連れ戻したのはどうしてじゃ?」「これまで逃げ出したは、そこらにいるつまらん人物ばかりでしたが、韓信は得がたい奇才ですぞ。天下をお取りになさるには、韓信以外に頼れるものはおらんでしょう」。自分が信じきっている蕭何がこういうものだから、劉邦は「では、そちの下で武将をやらせよ」というと蕭何は「只の武将だけでは、韓信はここには残りますまい」と勧める。そこで劉邦は、「では、奴を大将軍にしよう」ということになり、韓信はこのときから、元の食糧飼料運びから一躍大将軍となり、その後は劉邦が天下を取る過程で、勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。

 韓信の大胆不敵で恐れを知らない行動に主君の劉邦も己の身の危険を感じたので、処罰されたとも言われています。不幸にも主人にまで警戒されるほど、韓信の頭脳は明晰だったのでしょうか。


臥薪嘗胆

2013年01月29日 17時20分26秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  1月29日(火) 雪降ったり止んだり

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

17,590

12,313

 

今  月

29

476,920

333,844

16,446

今  年

29

476,920

333,844

16,446

2005年から

2,960

41,795,639

29,256,947

14,120

70歳の誕生日から

6,492

123,745,775

86,622,043

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 685,916m

 今日も十八史略にのめり込んでしまった。「臥薪嘗胆」に首を突っ込んだのが命取りになった。人物がやたらと出てきて、誰が呉で誰が越かよく区別がつかなくて何回も読み返してどうやら判ったような…わからないような・・・。

  それにしてもこの説話が紀元前六世紀の事とは驚いた。呉王夫差が「臥薪」までして越を破れば、越王句践は会稽の恨みを「嘗胆」までして復讐する。その間呉王夫差は忠臣の伍子胥の諫言を入れずに越王を許したり、子胥は梓の木を墓に植えて夫差の棺桶の材にしろ、私の目を抉り取って越に向けろと遺言したり、越に仇を取られた夫差は子胥に合わせる顔がないと袋を被って死んだなど大昔の話がつい最近の説話のように書かれていて熱が入った。どうやら何とかこんがらかった「臥薪嘗胆」の道筋が判ったような気がしてきた。

 呉王闔廬、挙伍員謀国事。呉伐越。闔廬傷而死。子不差立。子胥復事之。夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、「夫差而忘越人之殺而父邪。」周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。越王勾践以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。子胥言、「不可。」太宰伯嚭受越賂、説夫差赦越。勾践反国、懸胆於坐、臥即仰胆、嘗之曰、「女、忘会稽之恥邪。」挙国政属大夫種、而与范蠡治兵、事謀呉。

 呉王闔廬(こうりよ)、伍員(ごうん)を挙げて国事を謀らしむ。呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。子胥(ししよ)復た之に事ふ。夫差讎を復せんと志し、朝夕薪中に臥し、出入するごとに人をして呼ばしめて曰はく、「夫差而(なんぢ)は越人の而の父を殺ししを忘れたるか。」と。周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒(せう)に敗る。越王勾践余兵を以(ひき)ゐて会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。子胥言ふ、「不可なり。」と。太宰伯嚭(はくひ)越の賂(まいな)ひを受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。勾践国に反り、胆(きも)を坐に懸け、臥(が)するや即ち胆を仰ぎ、之を嘗めて曰はく、「女(なんぢ)、会稽の恥を忘れたるか。」と。国政を挙げて大夫種に属し、而して范蠡(はんれい)と与に兵を治め、呉を謀るを事とす。

 太宰嚭、譖「子胥恥謀不用怨望。」夫差乃賜子胥属鏤之剣。子胥告其家人曰、「必樹吾墓檟。カ可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。越十年生聚、十年教訓。周元王四年、越伐呉。呉三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。夫差曰、「吾無以見子胥。」為幎冒乃死。

 太宰嚭、「子胥謀の用ゐられざるを恥ぢて怨望す。」と譖(しん)す。夫差乃ち子胥に属鏤(しよくる)の剣を賜ふ。子胥其の家人に告げて曰はく、必ず吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟(か)は材とすべきなり。吾が目を抉りて東門に懸けよ。以つて越兵の呉を滅ぼすを観ん。」と。乃ち自剄す。夫差其の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以つてし、之を江に投ず。呉人之を憐れみ、祠を江上に立て、命じて胥山と曰ふ。越十年生聚し、十年教訓す。周の元王の四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦ひ三たび北(に)ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成(たひら)ぎを越に請ふ。范蠡可(き)かず。夫差曰はく、吾以つて子胥を見る無し。」と。幎冒(べきぼう)を為りて乃ち死す。


炎帝農氏

2013年01月28日 16時58分44秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  1月28日(月) 雪降ったり止んだり

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,620

11,634

 

今  月

28

469,330

321,531

16,405

今  年

28

469,330

321,531

16,405

2005年から

2,9539

41,778,049

29,244,634

14,119

70歳の誕生日から

6,491

123,728,565

86,609,730

19,061

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 698,229m 

[炎帝神農氏]斲木為耜、揉木為揉、始教畊、以赭鞭鞭草木、嘗百草始有医薬。教人日中為市、交易而退。都於[陳]、徙[曲阜]。

 炎帝神農氏木を斲(けずり)て耜をつくり、木を揉(たわめ)て揉をつくり、始めて畊を教う。赭鞭を以って草木を鞭(むち)うち、百草を嘗めて始めて医薬有り。人に教えて市を為し、交易して退かしむ。陳に都し、曲阜に徒る。

農氏は木を削って鋤を作り、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を広めてはじめて耕作を教えた。赭鞭で草木を鞭打ち、百草を舐めて始めて医薬を作った。また日中に市を開き、物々交換して夕方に帰ることを教えた。はじめ陳に都をおき、のちに曲阜へ移った。

 私が初めて八百屋になった頃、青果商組合に「農講」という集いがあった。常盤に市場があって、大勢の女性が威勢よくセリをやって、リヤカーで飯山の街へ売りに来ていた。八百屋組合と常盤の市場の共催で、英岩寺で農講の祭りをしていた。飯山の薬屋の人達も「農講」をやっていると聞きた。神農大士が農業を教えたり、市を開いて作物を売ることを教えたりした縁と、また草木から薬を作り出したという縁から薬を扱っている人たちも農大士を祀っていたのだろう。

 神農講の日は神農大士の祠にお経をあげ、お御堂でお斎を頂いた。引き売りの女性が多かったので、賑やかで皆はしゃいで溶け合ってたいへん楽 しかった。長く続いた良い行事だったが、私が中野との合併で中野勤務となったこともあって、自然消滅になってしまったようだ。

 古き良きリーダーだった宮崎さんが市ノ口で店を開いたのを契機に農講の再興を図ったが、楽しい思い出をもった先輩は消え去り、引き売りの女性部隊も居なくなって、盛り上がりがなく、立ち消えになってしまった。何とも残念な話だ。

 

 


先ず隗より始めよ

2013年01月27日 17時38分30秒 | 十八史略

 

歩 い て 世 界 一 周  1月27日(日) 雪後晴れ

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,986

11,890

 

今  月

27

442,710

309,897

16,397

今  年

27

442,710

309,897

16,397

2005年から

2,9538

41,761,429

29,233,000

14,118

70歳の誕生日から

6,490

123,711,565

86,598,096

19,062

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 709,863m 

 燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国、以雪先王之恥孤之願也。先生視可者。得身事之。」隗曰、「古之君、有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之、況生者乎。馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」於是、昭王為隗改築宮、師事之。於是、士争趨燕。楽毅自魏往。以為亜卿、任国政。已而使毅伐斉、入臨淄。斉王出走。毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。

 燕人太子平を立てて君と為す。是れ昭王たり。死を弔ひ生を問ひ、辞を卑くし幣を厚くして、以て賢者を招く。郭隗に問ひて曰はく、「斉孤の国乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。孤極めて燕の小にして以て報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得て与に国を共にし、以て先王の恥を雪がんこと、孤の願ひなり。先生可なる者を視せ。身之に事ふることを得ん。」と。隗曰はく、「古の君に、千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。死馬の骨を五百金に買ひて返る。君怒る。涓人曰はく、『死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん。』と。期年ならずして、千里の馬至る者三あり。今王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」是に於いて、昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事せり。是に於いて、士争ひて燕に趨く。楽毅は魏より往く。以て亜卿と為し、国政に任ず。已にして毅をして斉を伐たしめ、臨淄に入る。斉王出でて走る。毅勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。

 【先ず隗より始めよ】という諺は前々から知っていた。その意味は何かを上司に進言した者に対して、上司は「それは良いことだ。先ずお前からやって見よ」というように使う言葉だと、解釈していた。

 十八史略を改めて読んで見て、全く違う場面で使っていることを知って驚いた。【もし王が優れた人材を燕に招致したいと思うならば、まず私、隗から優遇し始めてください。このことを聞けば、、私より賢いものが、どうして千里を遠いとして、燕に来ないでしょうか、いや来るにちがいありません。」と。昭王は郭隗の為に立派な御殿を改築し、彼に師事した。そうしたら、天下の賢士は争って燕にやって来た、という話だ。

 しかし今も「隗より始めよ]という言葉はこうした時に使っているのだろうか?