ジャーナリスト活動記録・佐々木奎一

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豊臣秀吉の朝鮮出兵と徳川家康の遺志

2014年12月11日 | Weblog

 平成二十六年十二月一日付、auのニュースサイト EZニュースフラッシュ増刊号
 
「朝刊ピックアップ」で記事 
 
「豊臣秀吉の朝鮮出兵と徳川家康の遺志」
 
を企画、取材、執筆しました。

 

 けさの毎日新聞は1面のコラム「余禄」で朝鮮通信使について記している。

 日本大百科全書(小学館刊)によると「朝鮮通信使」とは、「朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節」で、江戸時代には将軍の代替りごとに計12回来日し、「通信使一行は正使以下300人から500人で構成され(略)交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた」という。

 コラムによれば、この朝鮮通信使の研究をしている金両基(キムヤンキ)氏(81)は「家康は、秀吉の朝鮮出兵を豊臣家滅亡の原因と考え、自らは関ケ原後すぐに対馬藩を通じて朝鮮王朝との関係改善に着手した」「徳川家は家康の考えを踏襲し、265年間は隣国同士が平和を維持する世界でもまれなケースとなった」という。

 そして、コラム末尾に「この朝鮮通信使を世界記憶遺産に登録しようという運動がある。今の冷え過ぎた両国関係を眺めるに、家康の見事なまでの戦後処理外交を記憶の底から呼びさますのも一手だろう」と締めくくっている。

 ちなみに、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、高校の教科書「改訂版 詳説日本史B」(山川出版社)には「前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人びとを戦火にまき込み、多くの被害を与えた。また国内的には、ぼう大な戦費と兵力を無駄についやす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった」と明記している。

 現在放送している秀吉の軍師だった黒田官兵衛を主人公にしたNHK大河ドラマでも、朝鮮出兵はそのように描写されている。

 だが、一昔前の日本では、朝鮮出兵の見方は正反対だった。例えば、俳句の革新者で夏目漱石とも親友だった正岡子規は、豊臣秀吉について、英邁の資質をもった豊公は外征のいくさを起こし、中国の明を討つため朝鮮に渡ったが、いくさ未だ功を奏せずして豊公が亡くなり、雄大な計画がおわった。我が軍は、鴨緑紅(おうりょくこう。中国と朝鮮の国境を流れる川)を渡ることができず帰ることになり、「実に千古の遺憾と為す」と述べている。そして、1894年(明治27年)の日清戦争で、鴨緑紅を渡って満州に入ることができ、「希望はここに満たされ」た、と感慨深げに記している。(子規の随筆「東洋八景」より)

 こうして明治から昭和前期にかけて外に討って出た結果、日本の国土が焼け野原になった。そして、新しい憲法が制定された。周知の通り、この憲法の三大原則の一つは「平和主義」。

 要するに、朝鮮出兵は過ちだった、とする現代日本人のコンセンサスのバックボーンには、平和主義を掲げる日本国憲法が存在する。

 ひるがえって現在の政治情勢をみると、衆院を突然解散した安倍晋三総理は、今回の選挙で自民公明党が勝った暁には、平和憲法を改正すると目されている。そうなれば、この国の形は根本から変わり、いつしか再びこの国は、秀吉の朝鮮出兵を礼讃して、韓国や北朝鮮、中国に戦争を仕掛けることになるかもしれない。四方を海に囲まれた日本が外に討って出た末路は、歴史が証明している。

 12月14日の衆院選は、この国の分水嶺となるかもしれない。(佐々木奎一)


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