先月施行された「秘密保護法」の祖形である戦前に成立した「軍機保護法」の果たした役割について、「昭和の戦争 ジャーナリストの証言 2 真珠湾攻撃」(講談社刊)で、松岡英夫という毎日新聞記者(当時の東京日日新聞記者)がこう記している。
「『国民がある朝、目を覚ましたら、戦争が始まっていた』――これが戦前の実際であった。(略)国民の何も知らないうちに戦争が起こったのである。
戦前は、国民が戦争に関して知ったり、知ろうとしたら、それが国家に対する犯罪であった。戦争は国のトップ・シークレットで、その準備、規模、行動開始は、軍機保護法により厳重に護られていた。政治、外交、経済などの国家秘密指定は歴史がやや新しく、国防保安法として太平洋戦争勃発の半年前に成立し、秘密保護の車の両輪として、国民を戦争決定の圏外に放り出していた。
一九三一年(昭和六年)七月のある朝、国民が目を覚ましたら、満州事変が始まっていた。一九三七年(昭和十二年)七月のある朝、国民が目を覚ましたら、日中戦争が始まっていた。満州事変のときは、当時の総理大臣すら何にも知らなかった。若槻礼次郎の自伝によると、九月十日の朝、陸相の南次郎から電話があり『昨夜九時ごろ、奉天において日支軍間に戦闘が始まった』という寝耳に水の報告を受けたのだという。ときの首相すらこれである。まして国民が知るわけがない。
日中戦争のときも、当時の近衛文麿首相は何も知らなかった。組閣1ヵ月後のことで、これから何かやろうかというときに、陸軍が勝手に起こした日中戦争(略)に内閣も国ももろに引っぱりこまれた。国民はもちろんそれを知るわけがない。(略)
新聞は政治権力者の統制のワク内にしか機能が発揮されなかった。(略)もし戦争批判、戦争反対の記事や主張を載せた新聞が出れば、その新聞社はすぐにつぶされ、記者は投獄されただろう。それでもやるべきだったというのは酷である。現実無視の声である。
大事なことは、人権と言論統制の法律、制度ができあがってから何をいってもダメだということである。軍機保護法ができてから、軍の機密の拡大はけしからんといっても手おくれ、国防保安法ができてから、政治について国民に目かくしするのは許せないなどと言ってもダメ。治安維持法ができてから、思想、言論の自由を唱えても見当はずれ。要するに弾圧法規ができてからの抵抗は犠牲多くて効果なしで、それができる前に反対してつぶさなければダメなんだということを、戦前の経験が教えている」
軍機保護法が、いかにメディアを統制する役割を果たしていたかをうかがわせる証言である。先月施行された秘密保護法も、役人に取材をすると最大10年間刑務所に入るという趣旨の条文があり、軍機保護法と同じ効果が見込まれる。