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夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(甲斐路編17)・・・武田家終焉(他の武田家の人②)

2010年09月08日 19時50分34秒 | 旅行
法華寺を訪ねた。
このお寺は、甲府市北部の通称「山の手通り」に面しているお寺だ。
このお寺には、信玄の弟、信繁の妻が眠っている。
この方は、養周院といわれる方だ。

そしてこの方、多くの謎に包まれた方だ。

どこの家から出た方なのか?どういった関係の方なのか?
どんな事を歴史に残した方なのか、記録が一切無いのだ。
分かっていることは、信繁の妻であり、嫡子信豊の母ということ。
そして「法華寺」の開基であるということだけだ。


さて、墓は本堂左にあるのだが、観光客を案内する標識なるものは全く無く、
前もって写真でも見ていないと、まず分からないであろう。

小生、知人からこの方を教えていただき、写真を持っていたので、分かったのだった。

とても信玄の弟の妻という、武田家の中でも高い身分の女性の扱いとは思えないことに
ショックを受けた。
それもこれも、家が滅び、墓を守る人がいなくなったことから起こった結末なのだろう。
家が滅ぶとはこういう事なんだなって改めて感じた。

しかし、どんなに記録がない方であろうが、史跡を扱う行政が、お墓の案内立てても良いと思う。

(養周院の墓)


この養周院は、1582年織田軍が信濃に侵攻してきた時、信繁の嫡男信豊が守る小諸城に
いて、信豊とともに自刃したそうだ。

勝頼一行だけでなく、歴史から忘れ去られた多くの武田家の人々に悲劇があったんだなと思う。

殆ど歴史から忘れられている女人であるが、今回出会えて良かったと思う。

風林火山紀行(甲斐路編16)・・・武田家終焉(他の武田家の人①)

2010年08月30日 07時45分03秒 | 旅行
武田義信が謀反をおこし、その結果、自刃とも暗殺とも言われる形で没してから、
勝頼が後見役ということで武田家の後を実質継いだ形だ。

しかし、嫡男義信と勝頼の間には他に2人の兄がいた。
竜宝と信之(早逝)である。
竜宝(1541年生-1582年没)は、信玄と三条夫人との間に生まれた次男であったが、生まれながらか、幼少期になったのかはっきりしないが、所謂盲目という悲しいハンデを背負ってしまった。
それでも当初は、信濃の小県海野氏の名跡を継いで海野信親と名乗っていたが、
出家し、竜宝と名乗った。半俗半僧の身で「ご聖道様」とも呼ばれていたようだ。
後に兄が謀反(義信事件)で処断や父信玄亡き後の武田家の滅亡など、武田家の盛衰をそばで感じた人でもあった。
1582年 織田の軍勢が甲斐に攻め込み、勝頼は、天目山を目指すも田野で自刃。
この報を受けて竜宝も入明寺に匿われたものの自刃したそうだ。
享年42歳 不運の武将だったと思う。

(竜宝の墓)


お寺の方が親切にも本道に案内してくださり、位牌を見せていただいた。(写真は控えた)
お寺の方 説明だけでなく、このように親切にして頂き、ありがとうございました。

今も、慰める為、毎年お祭りが行われているようだ。

もし盲目でなかったならば、義信に代わって竜宝が武田家を継いでいたのかもしれない。
そしたらまた違った武田家の歴史があったかもしれない。

因みに彼には子供がいて、その結果、現在まで命脈を保っている。
その子の名を信道という。
彼は出家して顕了道快と号し、織田家による残党狩りを逃れたが、時代が流れ徳川の世になると、武田家復興をたくらんだとされた、所謂大久保長安事件に連座して伊豆大島に流された。
お寺の方のお話だと、完全な陰謀で、濡れ衣を着させられたそうだ。
さぞかし無念であったことと推察できる。

しかし、この方、島流しに遭っても、負けることなく、高い教養で島の民の教育など行うことにより、島民に慕われ、かなり信望が厚かったようだ。
今もそのお墓は、島の方に大切に守られていることを教えて頂いた。

先日、約400年ぶりに、その位牌が山梨に帰ってきた。
実に長い期間の陰謀の呪縛がようやく解け、名誉が回復できたのかなって思う。

風林火山紀行(甲斐路編15)・・・武田家終焉 逃避行⑤

2010年08月24日 20時06分24秒 | 旅行
もうだいぶ前の事になってしまったが、4月下旬、勝頼自刃の地、景徳院を訪ねた。
場所は 山梨県甲州市大和町田野389

山梨県内のは富士五湖方面や八ヶ岳方面の寒い地区を除けば4月下旬というとほとんどが終わっているが、ここ景徳院は山の中ということもあって、だいぶ散ってはいるが、残っていた。

さて、この景徳院、1582年7月、武田家滅亡後、家康はが勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、寺院を創建したそうだ。
広厳院(笛吹市)(旧東八代郡一宮町)から武田家臣小宮山内膳の弟である7世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成したという。


この景徳院、武田家終焉の地ということもあってか、今でも無念が感じられるような寂しい雰囲気をもっている。散り桜が余計それを演出していた。

訪問した時、地元の方が、お寺の清掃などをしていて、伺ったところ、昔から地元の子供たちも怖がって近寄らなかったということを話してくださった。

自刃といえば、聞こえはいいが、自刃したあと、首をとられ、京都に晒されていることを思えば、実に凄惨な光景であったことだろう。

(景徳院 山門)
県指定文化財となっている。立派だ門だ


(景徳院 本堂)



中には、勝頼、勝頼夫人、信勝の位牌がある。
(位牌)


さて、時は1582年3月11日 いよいよ勝頼最期の時が来た。
天目山棲雲寺を目指すも、前後織田軍勢に挟まれ、ここを(このとき寺は建っていない)
自刃する場所に選ぶ。
この時勝頼は、夫人が北条家より嫁いできているため、北条家は敵方と同盟関係にあること
から夫人に落ち延びて生きるように諭したという。
しかし、夫人は頑なに拒否。ともに自刃の道を選ぶ

敵方が迫り、家臣が時間を稼ぐ。
勝頼は、自刃を前にした切迫した状況の中で、
信勝に最後の親らしいことをしている。

武田家嫡男が元服する時に行う「かん甲の礼」をこの場で行ったのだ。
武田家重宝の御旗(日の丸の旗)をここに生えている松に立てかけ、盾無の鎧を信勝
に着せたのだ。
実に悲しい成人式だ。

勝頼は、信勝の姿を見て、親として子供をこのように導いてしまったことにさぞかし無念であったことであろう。
御旗を立てかけたと言われる松が今も残っている。

(旗竪て松)
実に悲しい松だ。



そして、勝頼、夫人、信勝は自刃する。
その場所が、「生害石」といわれるところだ。
この石の上で自刃したそうだ

(勝頼 生害石)


(勝頼夫人 生害石)
勝頼のすぐ隣に位置している


(信勝生害石)
勝頼夫妻から10mくらい離れていようか?
信勝の生害石がある


勝頼 享年37歳 夫人19歳 信勝16歳だ。

義信謀反により、急遽信玄のあとを任され、天下を目指す宿命を背負わされた勝頼。
実に無念であったことだろう。
そして、信勝 正当な武田家を継ぐべき少年(勝頼はあくまでも後見人)だった。
青春真っ盛り。夫人も含めてあまりに早すぎる最期で、実に悲しくなる。

辞世の句の標識がそばに建っていた
(辞世の句)
武田勝頼「朧(おぼろ)なる 月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)」
北条夫人「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」
武田信勝「あだに見よ たれも嵐の さくら花 咲き散るほどは 春の夜のゆめ」

何と悲しい句だ
実に無念が伝わってくる


実際はどうだったか分からないが、自刃した後、敵はその骸から首を取り、胴体だけが残ったという。
この胴体は、地元の人により葬られたそうだ。
その葬られたところが没頭地蔵尊だ。


そしてその織田方の兵が勝頼達の首を洗った川が
「首洗い池」だ。
池というより川って感じだ。
実に生々しい
(首洗い池)


凡将のイメージもあるが、小生は決してそう思わない。
あまりに運がない悲運の武将だったと思う。
景徳院 勝頼の無念が今に残るお寺だ。
地元では、勝頼一行を慰める為、毎年4月に「武田勝頼公まつり」を行っている。
こちらも今度行って見たい




風林火山紀行(甲斐路編14)・・・武田家終焉 逃避行④

2010年08月11日 19時53分16秒 | 旅行
裂石山雲峰寺 このお寺も勝頼の逃避行に関っているお寺だ。
このお寺は745年、日本の歴史上初めて朝廷から大僧正の位を送られた
僧行基(668~749年)が開山した歴史のあるお寺だ。

甲斐源氏による武運長久の祈願寺として深く崇敬され、武田家に保護されてきた。

場所は甲州市上萩原2678

かなり標高が高いところにある。
駐車場から山門へと続く参道の階段があり、たくさんの石仏が出迎えてくれる。
実に和やかな表情をした石仏が多くあり、落ち着いた雰囲気のあるお寺だ。
(山門に続く参道と石仏)






山門をくぐると本堂が見えた。
(本堂)


(天然記念物の桜が本堂前にあり、その高さに驚く)


桜の咲く時期なら本当に凄そうだ。

さて、このお寺には、有名な武田家のシンボルである武田の軍旗「孫子の旗」(風林火山)、
「諏訪神号旗」、「馬印旗」、そして後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜
された日本最古の「日の丸の御旗」が宝物館(拝観料300円)保存されている。

武田ファンにとっては本物の旗の為、見るだけで熱くなれる。
「孫子の旗」「諏訪神号旗」は恵林寺でも1本見たが、このお寺にも長さが違うものなど複数本あることを今回知った。

確かに旗はスペアなど複数あって当然であるが、良くぞここまで保存されてきたものだと
敬意を感じた。
もともと恵林寺の旗も、この寺から出た物とお寺の方が話して下さった。

それにしても実に格好いい旗だ。謙信の「毘」もいいが、孫子の旗も実にいい。
(孫子の旗・諏訪神号旗)





(日の丸の御旗)
この旗の一部は、先の戦時中、守り神とするせいか一部切り取られたらしく、
真ん丸ではない。

因みにもう一つの武田家のシンボルであり、重宝の楯無鎧は、勝頼家臣の
田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたが、その後、徳川家康により
甲州市塩山上於曽にある菅田天神社宝殿に納められたそうだ。
こちらは残念ながら一般公開していない。

1582年には武田勝頼は田野において自刃が迫っていた。その折、家臣たちが再興を
期して、武田家の重宝を密かに雲峰寺や向嶽寺に運び納めたそうだ。
勝頼の、そして武田家家臣の死してもなお、お家再興を願う強い気持ちが伝わってくる。
勝頼はこの重宝と別れるとき、さぞ無念な想いであった事であろう。

この孫子の旗、400年以上経った今でも武田家復興を願う勝頼たちの強い想いが、
伝わってくる旗だ。

風林火山紀行(甲斐路編13)・・・武田家終焉 逃避行③

2010年08月09日 20時12分48秒 | 旅行
景徳院の道路を挟んだ駐車場の向こう側には日川という川が流れている。
この川にも勝頼一行の悲劇が流れ込んでいる。
1582年3月11日 勝頼一行の内 勝頼室(北条夫人)の侍女16名もの女人が
景徳院の前に流れるこの川に身を投じた。
この慰霊するための碑が建っている。

この場所を「姫ヶ淵」という。
(姫ヶ淵)

(身を投じた日川)


現在、この日川の上流では発電用に取水しているので、流れはゆるいが、
当時はもっと急流であったと思う。
武田家の悲劇を今に伝える悲しい川だ。

そしてこれより上流でも悲劇の史跡がある。
勝頼が目指した天目山も先回りされ、その敵が上からも攻めてきた。
勝頼自刃の時間稼ぎのため、狭い道で仁王立ちする武将がいた。
土屋 昌恒(1556年生-1582年4月3日没)だ。
織田の大軍を寡兵で相手にするため狭い崖道を利用した。
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、残った片手で戦い続けるような狭い場所だ。
ここで昌恒は奮戦し、織田の兵を斬っては下を流れる日川に蹴落とし、その数 千にも及んだと伝わることから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。

故にこの川が蹴落とされた兵の血で、三日間血に染まったということから三日血川とも呼ばれている。
そして昌恒もここで討ち死にした。
(片手千人斬り)


(三日血川)
結構傾斜がある


今でこそ道路は整備され、車も通れるが、当時はかなり道も狭く、崖道だったようだ。

姫ヶ淵そして片手千人斬り。
この日川 武田家の悲しい最後の川だけに、今みても無念の想いが残っているような
感じがする川だ。