読書の記録

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0番目の患者 逆説の医学史

2021年06月06日 | サイエンス
0番目の患者 逆説の医学史
 
リュック・ベリノ 広野和美訳
柏書房
 
 
 「病気を感じる人たちがいるから医学があるのであり、医者がいるから人びとが彼らから自分の病気を教えてもらうのではない」。(ジョルジュ・カンギレム「正常と病理」)
 
 なるほど。その通りだ。愁訴する人がいてはじめてそれは病気と認定されて治療が施される。つまりはじめに患者ありきということになる。
 医学の歴史というと、ジェンナーやパスツールやアルツハイマーのように医者のほうばかり注目されるが、患者には患者のヒストリーがあり、そこには医者サイドから語られることのない世界がひろがっている。医者サイドからみる医学史は栄光の歴史だが、本書は患者側から病気と治療の歴史をみていくことで医学の黒歴史を照らしている。
 
 本書に出てくる患者は様々だ。病気や治療--失語症、前頭葉損傷、麻酔治療、脳外科手術、狂犬病ワクチン接種、無症候性腸チフス、アルツハイマーなどなどが登場する。それらの「0号患者」が登場する。「0号患者」とは、おそらくそれ以前にも同様の症状や体験をした人はいたに違いないが、医療界によって認められた最初の患者--すなわち最初の治験者である。
 
 この患者の歴史が示すのは「診断」と「治療」と「治癒」が必ずしも一致しないということだ。
 つまり医者の見立てが間違っていたり、治療法が間違っていたり、そもそもそこまでの医療技術がまだ発達していなかったりする。また、「診断」は正しくても、「治療」法がなくて対処的なことしかできない場合もある。また患者の人権意識というのもまだそれほど意識されていない時代である。いずれも医者側から見れば医学の発展につながるひとつひとつの礎と言うこともできるが、対象となる患者は一人一人血の通った人間であって、要は「0号患者」の多くは不幸な人生を歩んでいる(もちろん完全に治癒した幸運な人もいる)。
 
 ここらへん読んでいてなんとなくブルーな気分になってくる。
 
 
 もちろん時代が進めば、抗生物質やワクチンなど医療技術の発展によってかなりの病気が治療できるようになった。患者受難の時代は終わろうとしていた。
 
 ところが医療業界は次の手に打って出る。20世紀も後半になってくると、そもそもの「患者からの愁訴」だけではなく、医療業界および製薬業界のほうから、健康な人をつかまえてこれまで特に問題視されなかったものを「治療すべきもの」すなわち「病気」と定義するようになってくる。病気は罹ったら治すのではなく、罹らないようにする、という予防原則の道が拓かれたのである。
 一見ごもっともだが、この予防原則には落とし穴があって、本当にそれを「病気」のリスクとみなせるのか、予防のためにとったその処置は本当に妥当かというところが未解決なことが多いのである(ワクチン陰謀説もこの延長にある)。そしてここにまた、やらなくてもよかった余計な処置や投薬をして取り返しがつかなくなった悲劇のゼロ号患者が登場する。
 
 こうしてみると医学の発展とは患者の死屍累々の上にあるんだなと思うばかりだが、この傾向は今後もさらに続くであろう。ユヴァル・ハラリ「ホモ・デウス」の指摘を待つまでもなく、我々は「健康」維持のためにますますモニタリングされていく。最近のスマホは睡眠時間から歩数から椅子に座っていた時間まですべて記録してあれがリスクだこれがリスクだと指摘する。「三大成人病」こそがラスボスで未病や予防こそが原則であるという観点はいまや世界のスタンダードだ。ヘルスケアは巨大市場である。我々は「患者」ではないのに医療の対象になっているのである。
 
 そんなヘルスケアに日々執心する我々に冷や水を浴びせるように、現代でもたまに患者の愁訴で新たな「病気」が定義されることが間欠的におこっている。それが80年代のエイズ、90年代のSARS、00年代のエボラ出血熱、そして現代の新型コロナだ。これらは登場当初「治療できない病気」として人間界に出現し、世界中で大パニックになった。おそらく新型感染症はこれからも一定の頻度で出てくるのだろう。
 
 いまや我々は巨大なヘルスケア市場の真ん中で常時モニタリングされながら、それでも十数年に一度出現する新型感染症になすすべもなくなる、そんな未・患者を生きているのである。
 

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