私のところへ色んな人が来ます。まあ
こういう言い方をすると誤解する人もある
かもしれないけれども、地位のある人も
来るし、お金を持ってる人も来るし、
社会的に名誉をもってる人にも会ったことは
あるし、かと思うと、その日をどうやって
お米代を出そうかといって悩んでる悲しんでる
人も来ましたし、未だに色んな人の姿を
こちらから見ておりますが、つくづく思う
事は、余分なものを持たないことの清しさ。
ところが、人間というのは余分なものを
持ちたくなる。で又、持ちたいと想う時、
持たされている時というのは、余分なもの
だとは思わないですね。
例えば、会社に勤めていて、月給が上がっ
ていく。上がっていくことはそれで生活が
楽になってくる事だから、それは安心立命の
元なんで、良かったですね、としか言い様が
ない。普通ならばそうなんだけれども、段々
段々10万円で生活していたものが20万に
なって、20万円で生活していたんが30万
になっていくと、これは、30万の生活に
慣れると、今度逆に、20万にする10万に
するというのは非常に難しいんですね。
今までの生活の習慣といいますか、これ
だけの経済でこれだけの事をやっていく
というのが、もう多ければ多いことに慣れて
いるから、それを減らしてやっていく
というのは、何か自分の立場とか自尊心とか、
今までの経歴とかいうものも全部否定される
ような気になる。だから、なかなか諦めていく
ということは難しい。経済一つとっても、
人間というのはなかなか不自由に出来て
いるんです。
たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲と
あってですね。悪い欲というととらわれて
いるみたいだけれども。何が何でもお金が
欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、
ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを
求めていって手にしている人というのを見ると、
中身がカラッポと申しますか、外見だけ色々
あるんだけれども、中身が非常に空虚な感じが
する。物質的に色々持っていても何か非常に
虚しい。何によってこの人の心は救われて
いくんだろうかと気になる。そういう事を
つくづく考えてみると、人間がどういう時に
一番自由になるんだろうか、どういう時に
朗らかになるんだろうかということになると、
自分を忘れている時ですね。自分が何処に
属していて、どういう給料をもらっていて、
あるいは今どういう立場で、どういう顔して
生きていくか、生きていかなきゃいけないか、
そういう色んな煩いを忘れていって、そして、
本当に赤児の様な本来の自分の顔を出してる、
その一瞬の時に人間というのは救われて
いく訳ですね。
それは別に、宗教を持ってるもってないに
関わりなくそうなんです。私共はそういう
我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出す
その素顔が5分でも10分でも15分でも
長続きをして、自分も人も良くなって
いくように祈っていく。光が満ちてく様に
祈っていく、想いや願いではなく、そこへ
祈りが加わって、ついには祈りによって、
自分も人も皆が救われていくといいますかね、
そういう大きな愛情に包まれる。そこを
目指す訳なんですね。
だから、実は、そういう風にして空に
なって無になって、そこも突き抜けて
いきますと、本当に人間というのは、先程
から言ってるように、自由になって
解き放たれる。その時に、人間というのは
何も持っていないようだけれども、実は
身も心も突き抜けて、一番の宝物を持ってる
ことになる、それは何かというと、何もの
にも煩わされない、何ものにも強制されない
自分自身というのがそこへ素直に出せる。
その時に人間というのは一番安心
するんです。
それは私の方から言いますと、神様の愛
というものを知って、神様の自分が子供
であるということを知って、神様が全部
知って下すってるそのふるさとへ帰って、
ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
安心するんです。そういう風に人間という
のは出来てるもんなんです。神様というのは
我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、
芸術であっても何であっても、とに角人間
というのは、そのふるさとを目指して歩いて
いる旅人みたいなものですから、そこへ
我々は、どんな形であっても、その人達を
連れて行きたいと思う訳です。
自分の中にある宝というものを持ち腐れに
しないで、その宝を確認して祈ってやって
いくと、益々自分自身も張り切ることが
出来るし、輝くことが出来るし、まわりも
喜ぶことが出来る。
これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。道が成っていくのであります。
ですから、そこをすべての宗教家は
目指しましたし、私自身もそれを目指して
今までやって来ている訳だし、これからも
やっていく訳であります。その為に、
世界人類が平和でありますようにという
祈りは、誠に絶大な力を発揮する訳で
ありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、
そうして神様に任せていく。その時に本当に
自分自身が自分自身として生きる。その
喜びの瞬間というものを取り戻すことが
出来る。そうして、それがずっと続いて
いくと、やがて道がついていって、自分も
知らない間に、あーこんな所まで来て
しまったかというような所まで、神様
というのは連れていって下さる。そういう
事を信じて、そうして謙虚になって、
この祈りを唱えていきたいものだと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久
こういう言い方をすると誤解する人もある
かもしれないけれども、地位のある人も
来るし、お金を持ってる人も来るし、
社会的に名誉をもってる人にも会ったことは
あるし、かと思うと、その日をどうやって
お米代を出そうかといって悩んでる悲しんでる
人も来ましたし、未だに色んな人の姿を
こちらから見ておりますが、つくづく思う
事は、余分なものを持たないことの清しさ。
ところが、人間というのは余分なものを
持ちたくなる。で又、持ちたいと想う時、
持たされている時というのは、余分なもの
だとは思わないですね。
例えば、会社に勤めていて、月給が上がっ
ていく。上がっていくことはそれで生活が
楽になってくる事だから、それは安心立命の
元なんで、良かったですね、としか言い様が
ない。普通ならばそうなんだけれども、段々
段々10万円で生活していたものが20万に
なって、20万円で生活していたんが30万
になっていくと、これは、30万の生活に
慣れると、今度逆に、20万にする10万に
するというのは非常に難しいんですね。
今までの生活の習慣といいますか、これ
だけの経済でこれだけの事をやっていく
というのが、もう多ければ多いことに慣れて
いるから、それを減らしてやっていく
というのは、何か自分の立場とか自尊心とか、
今までの経歴とかいうものも全部否定される
ような気になる。だから、なかなか諦めていく
ということは難しい。経済一つとっても、
人間というのはなかなか不自由に出来て
いるんです。
たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲と
あってですね。悪い欲というととらわれて
いるみたいだけれども。何が何でもお金が
欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、
ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちでものを
求めていって手にしている人というのを見ると、
中身がカラッポと申しますか、外見だけ色々
あるんだけれども、中身が非常に空虚な感じが
する。物質的に色々持っていても何か非常に
虚しい。何によってこの人の心は救われて
いくんだろうかと気になる。そういう事を
つくづく考えてみると、人間がどういう時に
一番自由になるんだろうか、どういう時に
朗らかになるんだろうかということになると、
自分を忘れている時ですね。自分が何処に
属していて、どういう給料をもらっていて、
あるいは今どういう立場で、どういう顔して
生きていくか、生きていかなきゃいけないか、
そういう色んな煩いを忘れていって、そして、
本当に赤児の様な本来の自分の顔を出してる、
その一瞬の時に人間というのは救われて
いく訳ですね。
それは別に、宗教を持ってるもってないに
関わりなくそうなんです。私共はそういう
我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出す
その素顔が5分でも10分でも15分でも
長続きをして、自分も人も良くなって
いくように祈っていく。光が満ちてく様に
祈っていく、想いや願いではなく、そこへ
祈りが加わって、ついには祈りによって、
自分も人も皆が救われていくといいますかね、
そういう大きな愛情に包まれる。そこを
目指す訳なんですね。
だから、実は、そういう風にして空に
なって無になって、そこも突き抜けて
いきますと、本当に人間というのは、先程
から言ってるように、自由になって
解き放たれる。その時に、人間というのは
何も持っていないようだけれども、実は
身も心も突き抜けて、一番の宝物を持ってる
ことになる、それは何かというと、何もの
にも煩わされない、何ものにも強制されない
自分自身というのがそこへ素直に出せる。
その時に人間というのは一番安心
するんです。
それは私の方から言いますと、神様の愛
というものを知って、神様の自分が子供
であるということを知って、神様が全部
知って下すってるそのふるさとへ帰って、
ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
安心するんです。そういう風に人間という
のは出来てるもんなんです。神様というのは
我々のふるさとだから、別に宗教でなくても、
芸術であっても何であっても、とに角人間
というのは、そのふるさとを目指して歩いて
いる旅人みたいなものですから、そこへ
我々は、どんな形であっても、その人達を
連れて行きたいと思う訳です。
自分の中にある宝というものを持ち腐れに
しないで、その宝を確認して祈ってやって
いくと、益々自分自身も張り切ることが
出来るし、輝くことが出来るし、まわりも
喜ぶことが出来る。
これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。道が成っていくのであります。
ですから、そこをすべての宗教家は
目指しましたし、私自身もそれを目指して
今までやって来ている訳だし、これからも
やっていく訳であります。その為に、
世界人類が平和でありますようにという
祈りは、誠に絶大な力を発揮する訳で
ありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、
そうして神様に任せていく。その時に本当に
自分自身が自分自身として生きる。その
喜びの瞬間というものを取り戻すことが
出来る。そうして、それがずっと続いて
いくと、やがて道がついていって、自分も
知らない間に、あーこんな所まで来て
しまったかというような所まで、神様
というのは連れていって下さる。そういう
事を信じて、そうして謙虚になって、
この祈りを唱えていきたいものだと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久