私共にとって、心を平和にするということはなかなか
出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
一日の間にでも、色々悲しい事が起こったり、厭な
ことが起こったり、悔しい事が起こったりして、
心の中を平和に保つということは、まことに難しい事
だからであります。
が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、美術を
鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ
戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、
それでどうにもならなくなっちゃう。こんな事では、
いくらお金を使ってお稽古事をやったって、何かもう
自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ
ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
するのを聞いてますとですね、自分の内の色んな
ゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、
今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。
例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、
山の頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
人間のその生命の萎びている状態をなんとかしなきゃ
というので、何が出て来たかというと、文学が出て来たり
色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。
落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、
色んな人の言うことなどが気になって、自分の評判は
どうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、
そういう心配や不安、不平やら不満などですね、
色んなものがこう重なって、おりみたいに
なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
というところまでいかない訳なんです。
それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と
一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。
それで、芸術なんかと同時に、慰め以上のもの
として、やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、それから
キリストだとかですね、色んな人が出て来て、そうして
道を説いてる。何を説いてるかというと、祈るという
ことについて説いてる訳です。
私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に
対する全託という風なことを申しますけれど、それは
真実ではありますけれども、この今生きてる人間が
肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ
といったって、そんなに完全になれる訳は
ないのですから、この在りのまんまで、神様の
み心の中へ入れちゃう。任せてしまう。弱いまんまで
いいんですね。不平不満を抱いているまんまで
いいわけ。そうして、生命の洗濯というものを本当に
していただいて。その為に祈りのエレベーターに
乗って、神様を呼んで、そうして、自分の中の本来の
ほがらかな生命の元の根っこのところを
見つめてですね、その根っこのところというのは
これは宇宙神とつながっておりますから、その
宇宙神とつながっているそういうところを見ていると、
これは光明そのものなんですから、光明そのものの
自分を見るということにもなる訳なんです。
宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、
それからありとあらゆる息しているものね。動物にしろ
植物にしろすべて生命あるものね。それから、鉱物
にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様が
いて、そうしてそれを導いていく、そういう用命を
持ってる神霊方がいる訳で、それは皆光明を持ってる
訳なんです。この宇宙の宇宙子というものは皆光明を
帯びてる。その光明を帯びてる同志が、奥の生命
でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和という
ものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を
保ってる。そういうものにもなってる訳です。
ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない
兄弟と申しておりますように、霊妙な光明波動
というものがなかなか届いてこない。
人間というのは、自分の我でもって生きるから、
自分が光明そのものだなんて思えないけれども、
しかし、ずーっと日常の中で悩んだり苦しんだり
悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして
何か、本来の生命の中に自分を入れていきますとね、
そうしますと、自分が光であること、人も光であること、
それからこの自然全体の中にとけ入ってる生命の
一部であること、自分自身がですね。そういうことが
分かる訳です。
そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が
分かるかというと、神様が愛であるということが
分かってくる訳ですね。
例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い
人とある。それから、お金持ちな人とそうじゃない人
とある。色んな環境の違いというものはあるけれども、
しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、
人間の生命というのは、何時も申しますように、今
だけの生命ではない。ずーっと前生、前々生から
ずーっと生き通して来ている。そこで獲得してきた
色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の
環境が出来てきている訳です。ですから、順境
にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を
豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも
愛深く生きるということがなかなか難しい訳です。
ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、
そうして、不完全な自分ではあるけれども、それを一回
お願いしますといって神様の前に投げ出してしまった
時に、神様がよしと引き受けてですね、引き取ってね、
光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
そうして本当に、その時には心が平和になって
くるわけ。
祈りの根本というのはそうなんですけれども、
南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろですね、
主の祈りにしても他の祈りにしても、皆祈りという
ものは、そういう奥深いものをもってる訳
ですけれども。じゃあ南無阿弥陀仏といったって、
なかなか今先入観があって、極楽浄土のことしか
浮かんで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮かんで来ない。じゃあ日蓮宗だけ
信じていれば、他の所は全部駄目なのかというと、
そうじゃない。
人間というのは、神様の生命の分かれですから、
皆神の子ですから、そういうものではない訳なんです。
そういう所から見ますとね、生命の奥の祈りの
もっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋
というのは、色々あっていいんだけれども、しかし、
人間が本当にこの世に今現代に生きてる我々が、
ああそうだなあと納得ができる、つまり、理論的にも
納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起こす祈り
としては、世界人類が平和でありますようにという
祈りが一番心を落ち着かせる。静かにさせる祈り
である。と私は思う訳ですね。この光明心という
ものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も
浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家に
なったりしなくっても、要するに、これをやっていれば
菩薩行をやっている様なことになる訳です。皆
知らない内にやる訳ですね。
いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げて
いますけれども、何時の間にか心が落ち着いていく。
何時の間にか心が静かになる。そういうことが大事
なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、
何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。
例えば、胸がドキドキすると、ドキドキするのを
何とか治めなくちゃあと思うけれども治まらないと、
興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり
心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。
平和にしよう平和にしようと思ってる間は、本当には
平和にならないんですね。
今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、
すいません、このままでよろしくお願いしますと
言ってしまいますと、もう神様というのは、こちらから
見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、
そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを
持っていって下さる訳です。
自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
我々の中で知っているように思うのは、それは感情
なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
声が聴こえるというか、神様がこう望んで
いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
いうものは本当の意味では公平なんだなということが
分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
分かってる訳なんです。
ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れ
といったって、それは無理な話だから、そのこだわりは
こだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に
子供みたいに祈っていくと、道というのは開けて
いくものなんですね。
だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
そして、その奥のことというのは本当に人間には
分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
生きちゃったり、そういうこともある訳です。
だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に
大宇宙の中の大きな流れの中の一滴として、人間の
生命を器を使う。公平に使うということが大大大奥には
ある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの
階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私を
そのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、
続けていく。そうすると、いつの間にか平静になって、
心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、
まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に
祈る気持ちが起こったり、親切にする気持ちが
起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。
心というものは放ったらかしておくと、本当に
喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
心というのは神様と繋がっているものですから。
そういう心を我々はいただいて、そして平和に
生きるようになってるものなんですから、平和に
ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、ああ
あそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は失くなっ
たけど、あそこで宝を貰ったなあ、とかということが
5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。
喜びそうな事言って五井先生は連れていく
というけれども。
そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず
自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。
自分がやると思うからとっても大変なんですね。
自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
これは借りものなんですから、いただいてるもの
なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
じゃない。全部神様からいただいてるものです。
それで、私はこういう風に生きたいんですと
こちらで自分の人生を設計して、そうして、
どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
神様の方で見て、ああここはちょっと道が
曲がってるよなんていうことになると、ある計画が
ストップになったりですね、こっちで折角何かしよう
と思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で
現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの
方が危ないと思ってるからストップをかけてる、
というのが私には分かる訳ですね。ですから、個々
色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、
それをひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて
行く。祈ること即ち行なんです。行というものは光に
繋がる訳ですね。とに角何でもかまいません。べつに、
世界人類が平和でありますようにでなくとも
構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、
太陽を拝んで、ああ今日も一日ありがとうございました
と言ったら、その時その人は光明になっているんです。
そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に
明るく生きていければいい訳なんです。ただ私は、その
立場立場のその方達の心の本心を開くお手伝いをする。
それが五井昌久の天命ですから、そういう事を白光の
方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、
これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、
その人の世界の言葉でしゃべる。その人の世界の
言葉でこちらから語りかけて、そうして、頑なになってる
心であればそれを抱くようにする。その時には私も
そばに居ますから。
決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
いるんだということを、しっかりそこだけを間違わ
ないで、そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
この世の中の生活というものも大事ですから、その
生活の中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、
そうだ、あの人と喧嘩をしていたっけという様な、
そういう心になっていく訳なんです。
それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さん
とか守護神さんとか私とか、色々あるんですよ
ということを、世界人類が平和でありますようにという
何の把われもない言葉の中に全部込めて、語り込んで
ある。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると
心は確かに平和になる訳です。
色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
平和でありますようにの中に込められるようなそういう
ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
もう光明化していくということは出来ない。
ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
神様に返してしまって、預けてしまって、それから
無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
なって、光というのは出て来る訳なんです。
もちろん、祈りというものは肉体だけではない。
その奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるん
ですけれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする
為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形
というものがいる訳です。私から見ていると、形
というものは全く無意味と言ったら何ですけれども。
でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを
致しましょう。ね。私などが導師になってやる。
あるいは村田さんなんかがやる。昌美がやる。と
いうのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じく
して祈る。覚えて祈る。ということによって、
本心の中にスーッと入っていく、自分の中の本心に
スーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。と
いうそこを目指している訳です。
ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
というのは、実は、我々はここにいて本当は分かって
いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
なってるんだ。
だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
やっていく人間なのか、これは字面だけを
とりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。
ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと
日本に離れていても、知らない人とある日出会う
ことがあるかもわからない。それと同じように、実は
我々は霊的には皆知り合いなんですね。この
世の中に生きてる人達というのは皆、今の時代に
会う人も会わない人も、皆知り合いなんです。ですから、
ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け
静かに働いていく。質実に自分を高めていく。そういう
事をしていると、それが人類全体のひびきになっていく
訳ですね。
いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、
テンサイと言ったって凡才天才のテンサイじゃ
ないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や雪
などの天気というものね。天気というものは、今
悲しいことに、人間の業によって大水が出たり
何だかんだで浄めなければいけない、そこまで
来ている。つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。
人類の心の空気を汚れさせている。だから、
世界平和の祈りというのは、そういうのを光明波動
でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、
とに角我々一人一人が誠実に自分の持ち場で
ずっとやっていると、それが自分一人だけのことに
返って来ないで、そのひびきがずっと全体に
まわっていって、そうして、宇宙そのものからも
光明がくる。
さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が
花開いていくというのは、これは真実なことなんですね。
そこまで人間というものは大きくて深い。自分の
身の丈何尺何寸とか昔いいましたけれどね、今で言えば、
160とか170とか、180センチになったら
高い方だとかいいますけれど、人間の大きさというのは
本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程
大きな光明体なんですね。ですから、本当に深い人を
霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、この家
いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって
皆がそうなんです。皆が光なんです。ですから、
その光を集めて、そうして何かやったら
これはすごいことになる訳です。
だから、我々がやってる世界平和を祈る運動
というのは、世界人類が平和でありますようにという
祈りを国と国も、人と一緒にやる。そうすると、
その人達の言葉を、外国人であるとか英語である
とか独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心の
ひびきで祈るもんですから、その人の本心と私の
本心とがひびき合って、そうして、そこから愛と平和
というものが生まれてくる訳なんです。
私共の目指している平和というものはそういう
ものなんでして、そしてそれは絵空ごとでも何でも
なくて、人間というものを真実に深めて、じいっと
見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい
素晴らしい働きというものが人間の中にはあるんだ
ということね。それは霊肉が一致してやっていける。
昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるという
ことを目指して生きた。だから、飢えてそのまま
死んじゃったりした人がいますよね。お坊さんでもね。
本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏の
ミイラのそばにいったら、食べたくて食べたくて
しようがなくなった人がいる。
それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、
一方信仰心で押さえて死んじゃったもんだから、
その食べたいという餓鬼道の餓鬼のようなああいう
心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、
その人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲が
おさまったなんて話があるけれども、あれはやはり
どこか自然なものじゃないですね。不自然なもの
なんですね。人間というのは、霊が非常に大きいから
といって皆自殺する訳にはいかない。皆、この肉体を
もって辛いことがあっても、家族とぶつかろうが
何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。
それは何の為かといえば、自分の生命の為なんです。
自分の生命というのは、明るい朗らかなもの
なんだから、本当は、だから、本当に明るい朗らかな
ものを導き出して、そして、抱き合う為に我々は
何をするかといえば、祈る訳ですね。とに角、祈る
ことによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す
訳なんです。その為に我々は心を合わせて祈る
訳なんですね。
だから、一人だけでポツンと祈ってるように
みえてもね、目に見えない世界で、誰も会ったことも
ないような人達の霊体なんかがすっとあなたの
そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて
一緒になって世界人類がーとやってる。あるいは
アーメンとやってる。そういうことは、私なんかの
目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、
皆共に生きてる生命であって、そして、その生命
であるということを確認するんだ、それが世界人類が
平和でありますようにという祈りなんです。
世界中の人と友達であるかないかなんていうのを
確かめる為に、世界旅行に出るなんてことは
できません。それを、霊的にも色んな意味で、
深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
世界人類がということを口にしただけで、あーと
思えるというのは、本当にあーそうだ、私は
世界人類の一人なんだなと。その時には、国とか民族
とか家族とか柵とか、というそういう余分なものは
もう取っ払っています。もっと大きな視野に
立ったところから自分を見ています。個を見ています。
そうして全体を見ていくものなんですね。
ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きて
いくんだということをみますと、ここで平和になる
ということがそれ程絵空ごとでもなく、力むでもなく、
自然にやっていけるようになるということがわかる
と思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久
出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
一日の間にでも、色々悲しい事が起こったり、厭な
ことが起こったり、悔しい事が起こったりして、
心の中を平和に保つということは、まことに難しい事
だからであります。
が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、美術を
鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ
戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、
それでどうにもならなくなっちゃう。こんな事では、
いくらお金を使ってお稽古事をやったって、何かもう
自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ
ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
するのを聞いてますとですね、自分の内の色んな
ゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、
今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。
例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、
山の頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
人間のその生命の萎びている状態をなんとかしなきゃ
というので、何が出て来たかというと、文学が出て来たり
色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。
落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、
色んな人の言うことなどが気になって、自分の評判は
どうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、
そういう心配や不安、不平やら不満などですね、
色んなものがこう重なって、おりみたいに
なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
というところまでいかない訳なんです。
それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と
一緒の心になれるかといったら、そうはいかない。
それで、芸術なんかと同時に、慰め以上のもの
として、やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、それから
キリストだとかですね、色んな人が出て来て、そうして
道を説いてる。何を説いてるかというと、祈るという
ことについて説いてる訳です。
私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に
対する全託という風なことを申しますけれど、それは
真実ではありますけれども、この今生きてる人間が
肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ
といったって、そんなに完全になれる訳は
ないのですから、この在りのまんまで、神様の
み心の中へ入れちゃう。任せてしまう。弱いまんまで
いいんですね。不平不満を抱いているまんまで
いいわけ。そうして、生命の洗濯というものを本当に
していただいて。その為に祈りのエレベーターに
乗って、神様を呼んで、そうして、自分の中の本来の
ほがらかな生命の元の根っこのところを
見つめてですね、その根っこのところというのは
これは宇宙神とつながっておりますから、その
宇宙神とつながっているそういうところを見ていると、
これは光明そのものなんですから、光明そのものの
自分を見るということにもなる訳なんです。
宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、
それからありとあらゆる息しているものね。動物にしろ
植物にしろすべて生命あるものね。それから、鉱物
にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様が
いて、そうしてそれを導いていく、そういう用命を
持ってる神霊方がいる訳で、それは皆光明を持ってる
訳なんです。この宇宙の宇宙子というものは皆光明を
帯びてる。その光明を帯びてる同志が、奥の生命
でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和という
ものが宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を
保ってる。そういうものにもなってる訳です。
ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない
兄弟と申しておりますように、霊妙な光明波動
というものがなかなか届いてこない。
人間というのは、自分の我でもって生きるから、
自分が光明そのものだなんて思えないけれども、
しかし、ずーっと日常の中で悩んだり苦しんだり
悲しんだりしている中で、自分をお任せして、そうして
何か、本来の生命の中に自分を入れていきますとね、
そうしますと、自分が光であること、人も光であること、
それからこの自然全体の中にとけ入ってる生命の
一部であること、自分自身がですね。そういうことが
分かる訳です。
そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が
分かるかというと、神様が愛であるということが
分かってくる訳ですね。
例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い
人とある。それから、お金持ちな人とそうじゃない人
とある。色んな環境の違いというものはあるけれども、
しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、
人間の生命というのは、何時も申しますように、今
だけの生命ではない。ずーっと前生、前々生から
ずーっと生き通して来ている。そこで獲得してきた
色々な環境の末に、今の想いが重なって、今の
環境が出来てきている訳です。ですから、順境
にしても逆境にしてもですね、一番難しいのは、心を
豊かにしてそうして愛深く、自分にも愛深く人にも
愛深く生きるということがなかなか難しい訳です。
ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、
そうして、不完全な自分ではあるけれども、それを一回
お願いしますといって神様の前に投げ出してしまった
時に、神様がよしと引き受けてですね、引き取ってね、
光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
そうして本当に、その時には心が平和になって
くるわけ。
祈りの根本というのはそうなんですけれども、
南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろですね、
主の祈りにしても他の祈りにしても、皆祈りという
ものは、そういう奥深いものをもってる訳
ですけれども。じゃあ南無阿弥陀仏といったって、
なかなか今先入観があって、極楽浄土のことしか
浮かんで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮かんで来ない。じゃあ日蓮宗だけ
信じていれば、他の所は全部駄目なのかというと、
そうじゃない。
人間というのは、神様の生命の分かれですから、
皆神の子ですから、そういうものではない訳なんです。
そういう所から見ますとね、生命の奥の祈りの
もっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋
というのは、色々あっていいんだけれども、しかし、
人間が本当にこの世に今現代に生きてる我々が、
ああそうだなあと納得ができる、つまり、理論的にも
納得し共感が出来て、そうして愛を呼び起こす祈り
としては、世界人類が平和でありますようにという
祈りが一番心を落ち着かせる。静かにさせる祈り
である。と私は思う訳ですね。この光明心という
ものをずーっと散蒔いていきますと、自分自身も
浄まっていく、まわりも浄まっていく。別に宗教家に
なったりしなくっても、要するに、これをやっていれば
菩薩行をやっている様なことになる訳です。皆
知らない内にやる訳ですね。
いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げて
いますけれども、何時の間にか心が落ち着いていく。
何時の間にか心が静かになる。そういうことが大事
なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、
何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。
例えば、胸がドキドキすると、ドキドキするのを
何とか治めなくちゃあと思うけれども治まらないと、
興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり
心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。
平和にしよう平和にしようと思ってる間は、本当には
平和にならないんですね。
今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、
すいません、このままでよろしくお願いしますと
言ってしまいますと、もう神様というのは、こちらから
見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、
そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを
持っていって下さる訳です。
自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
我々の中で知っているように思うのは、それは感情
なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
声が聴こえるというか、神様がこう望んで
いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
いうものは本当の意味では公平なんだなということが
分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
分かってる訳なんです。
ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れ
といったって、それは無理な話だから、そのこだわりは
こだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に
子供みたいに祈っていくと、道というのは開けて
いくものなんですね。
だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
そして、その奥のことというのは本当に人間には
分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
生きちゃったり、そういうこともある訳です。
だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に
大宇宙の中の大きな流れの中の一滴として、人間の
生命を器を使う。公平に使うということが大大大奥には
ある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの
階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私を
そのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、
続けていく。そうすると、いつの間にか平静になって、
心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、
まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に
祈る気持ちが起こったり、親切にする気持ちが
起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。
心というものは放ったらかしておくと、本当に
喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
心というのは神様と繋がっているものですから。
そういう心を我々はいただいて、そして平和に
生きるようになってるものなんですから、平和に
ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、ああ
あそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は失くなっ
たけど、あそこで宝を貰ったなあ、とかということが
5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。
喜びそうな事言って五井先生は連れていく
というけれども。
そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず
自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。
自分がやると思うからとっても大変なんですね。
自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
これは借りものなんですから、いただいてるもの
なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
じゃない。全部神様からいただいてるものです。
それで、私はこういう風に生きたいんですと
こちらで自分の人生を設計して、そうして、
どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
神様の方で見て、ああここはちょっと道が
曲がってるよなんていうことになると、ある計画が
ストップになったりですね、こっちで折角何かしよう
と思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で
現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの
方が危ないと思ってるからストップをかけてる、
というのが私には分かる訳ですね。ですから、個々
色んな場合に色んな背景があるとは思いますが、
それをひっくるめて、とに角祈って祈って祈り抜いて
行く。祈ること即ち行なんです。行というものは光に
繋がる訳ですね。とに角何でもかまいません。べつに、
世界人類が平和でありますようにでなくとも
構わないんです。何にも宗教を信じていない人でも、
太陽を拝んで、ああ今日も一日ありがとうございました
と言ったら、その時その人は光明になっているんです。
そのように人間というのは赤ん坊みたいに、無邪気に
明るく生きていければいい訳なんです。ただ私は、その
立場立場のその方達の心の本心を開くお手伝いをする。
それが五井昌久の天命ですから、そういう事を白光の
方々も心がけて、そうして、ただ五井先生を拡めるとか、
これが一番いいお祈りですよとかいうのではなくて、
その人の世界の言葉でしゃべる。その人の世界の
言葉でこちらから語りかけて、そうして、頑なになってる
心であればそれを抱くようにする。その時には私も
そばに居ますから。
決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
いるんだということを、しっかりそこだけを間違わ
ないで、そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
この世の中の生活というものも大事ですから、その
生活の中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、
そうだ、あの人と喧嘩をしていたっけという様な、
そういう心になっていく訳なんです。
それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さん
とか守護神さんとか私とか、色々あるんですよ
ということを、世界人類が平和でありますようにという
何の把われもない言葉の中に全部込めて、語り込んで
ある。祈り込んである訳なんです。だから、あれを祈ると
心は確かに平和になる訳です。
色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
平和でありますようにの中に込められるようなそういう
ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
もう光明化していくということは出来ない。
ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
神様に返してしまって、預けてしまって、それから
無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
なって、光というのは出て来る訳なんです。
もちろん、祈りというものは肉体だけではない。
その奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるん
ですけれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする
為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形
というものがいる訳です。私から見ていると、形
というものは全く無意味と言ったら何ですけれども。
でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを
致しましょう。ね。私などが導師になってやる。
あるいは村田さんなんかがやる。昌美がやる。と
いうのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じく
して祈る。覚えて祈る。ということによって、
本心の中にスーッと入っていく、自分の中の本心に
スーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。と
いうそこを目指している訳です。
ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
というのは、実は、我々はここにいて本当は分かって
いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
なってるんだ。
だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
やっていく人間なのか、これは字面だけを
とりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。
ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと
日本に離れていても、知らない人とある日出会う
ことがあるかもわからない。それと同じように、実は
我々は霊的には皆知り合いなんですね。この
世の中に生きてる人達というのは皆、今の時代に
会う人も会わない人も、皆知り合いなんです。ですから、
ここで我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け
静かに働いていく。質実に自分を高めていく。そういう
事をしていると、それが人類全体のひびきになっていく
訳ですね。
いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、
テンサイと言ったって凡才天才のテンサイじゃ
ないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や雪
などの天気というものね。天気というものは、今
悲しいことに、人間の業によって大水が出たり
何だかんだで浄めなければいけない、そこまで
来ている。つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。
人類の心の空気を汚れさせている。だから、
世界平和の祈りというのは、そういうのを光明波動
でもってサーッと掃除をするというのはあるけれども、
とに角我々一人一人が誠実に自分の持ち場で
ずっとやっていると、それが自分一人だけのことに
返って来ないで、そのひびきがずっと全体に
まわっていって、そうして、宇宙そのものからも
光明がくる。
さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が
花開いていくというのは、これは真実なことなんですね。
そこまで人間というものは大きくて深い。自分の
身の丈何尺何寸とか昔いいましたけれどね、今で言えば、
160とか170とか、180センチになったら
高い方だとかいいますけれど、人間の大きさというのは
本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程
大きな光明体なんですね。ですから、本当に深い人を
霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、この家
いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって
皆がそうなんです。皆が光なんです。ですから、
その光を集めて、そうして何かやったら
これはすごいことになる訳です。
だから、我々がやってる世界平和を祈る運動
というのは、世界人類が平和でありますようにという
祈りを国と国も、人と一緒にやる。そうすると、
その人達の言葉を、外国人であるとか英語である
とか独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心の
ひびきで祈るもんですから、その人の本心と私の
本心とがひびき合って、そうして、そこから愛と平和
というものが生まれてくる訳なんです。
私共の目指している平和というものはそういう
ものなんでして、そしてそれは絵空ごとでも何でも
なくて、人間というものを真実に深めて、じいっと
見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい
素晴らしい働きというものが人間の中にはあるんだ
ということね。それは霊肉が一致してやっていける。
昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるという
ことを目指して生きた。だから、飢えてそのまま
死んじゃったりした人がいますよね。お坊さんでもね。
本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏の
ミイラのそばにいったら、食べたくて食べたくて
しようがなくなった人がいる。
それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、
一方信仰心で押さえて死んじゃったもんだから、
その食べたいという餓鬼道の餓鬼のようなああいう
心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、
その人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲が
おさまったなんて話があるけれども、あれはやはり
どこか自然なものじゃないですね。不自然なもの
なんですね。人間というのは、霊が非常に大きいから
といって皆自殺する訳にはいかない。皆、この肉体を
もって辛いことがあっても、家族とぶつかろうが
何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。
それは何の為かといえば、自分の生命の為なんです。
自分の生命というのは、明るい朗らかなもの
なんだから、本当は、だから、本当に明るい朗らかな
ものを導き出して、そして、抱き合う為に我々は
何をするかといえば、祈る訳ですね。とに角、祈る
ことによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す
訳なんです。その為に我々は心を合わせて祈る
訳なんですね。
だから、一人だけでポツンと祈ってるように
みえてもね、目に見えない世界で、誰も会ったことも
ないような人達の霊体なんかがすっとあなたの
そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて
一緒になって世界人類がーとやってる。あるいは
アーメンとやってる。そういうことは、私なんかの
目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、
皆共に生きてる生命であって、そして、その生命
であるということを確認するんだ、それが世界人類が
平和でありますようにという祈りなんです。
世界中の人と友達であるかないかなんていうのを
確かめる為に、世界旅行に出るなんてことは
できません。それを、霊的にも色んな意味で、
深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
世界人類がということを口にしただけで、あーと
思えるというのは、本当にあーそうだ、私は
世界人類の一人なんだなと。その時には、国とか民族
とか家族とか柵とか、というそういう余分なものは
もう取っ払っています。もっと大きな視野に
立ったところから自分を見ています。個を見ています。
そうして全体を見ていくものなんですね。
ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きて
いくんだということをみますと、ここで平和になる
ということがそれ程絵空ごとでもなく、力むでもなく、
自然にやっていけるようになるということがわかる
と思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久