我々の生命(いのち)といいますか、生命
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと
又面倒なんですけれども。我々自身ですね。
この色んな性格を持ってる我々自身
というものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。
特に我々のまわりですとね、日本など、
そんな事をすると罰が当たるよとか、それも
微風を残す為に穏やかに、そんな事をしちゃ
いけないよと言うのならいいけれども、そう
じゃなくて、この頃ずうっと世の中を
見ておりますと、それは先祖の祟り
なんだとか、おまえの心がけが悪いからだとか
そういう何か、責めるといいますかね、苛める
と申しますか、そういう形で強制しようと
する。正していこうとする。自分の説いてる
道が一番正しいんだと言って、これを信じ
なければ駄目だという形で、我々の生命
というか心を向けさせようとする。
だけれども、何か強制されてですね、強い
られて心をそこへ向けたとしても、果たして
人間の気持ちというものが素直に、その人達の
言う、何だか分かりませんけれど、その
絶対者に向いていくかというと、そういう風
には人間の心というのは造られて
いないんですね。
人間の心というのは、唯ひたすらに素直に
なりたいというか、神様の方へ向いて行きたい
というか、それが本来なんですけれども、この
世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと
色んなことによって、素直になりたいけれども
素直になれない状況というものが自分の中に
生まれてきて、あるいは、まわりに生まれて
きて、とてもじゃないけれど、この世の中は
公平だとは思えない。とてもじゃないけれど、
今自分が幸せな状態だとは言えない。
という風なことが色々生まれて来ますとね、
これをこちらへ向けばこうなるんだ
というような、そういう強いられ方で
その絶対者に向けと言っても、向けられる
もんじゃないんですね。
で、簡単に申しますとね、人間の心
というものは本来自由です。何故自由か
というと、神様から来ている我々は分生命
なんですね。そして、我々はどんな
柵(しがらみ)からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと
我々の本体、本来の生命というものは、何もの
にも把われないものだから、この世の中は
表面的に何処かに属しているとか誰かを養って
いかなきゃいけないとか、色々な義務という
ものを負ってはおりますけれど、そうじゃ
なくって、自分の中で何ものも強いられる
ものがない、そして、何ものからも自由である。
それは何かというと、元々神様そのものが、
人間を強いるとか何かをしなければ生かして
いかないとかですね、そういう類の方では
ないからなんですね。
要するに、もう全くの無、無を突き抜けた
朗らかな心、それが神様の御心でありまして、
その御心から分かれて来たのが我々人間
でありますから、そこで、何をしないと
いけないとか、これをすると罰が当たるとか
当たらないとか、そういうことは
ないんですよね。
つまり、冥加(みょうが)という言葉が
ありますけれども、生命冥加とか何だとか。
冥加というのは何かというと、我々が
自覚しないところの神仏の加護なんですね。
神仏の守りなんです。つまり、自覚しない
ところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
神様というのはそうなんです。こちらが
眠ってる時でも、忙しくって神様の事を
忘れている時でも、何でもずっと守ってる。
愛している。ゆるしている。神様の方
からは、一度も罰を当てようとしたこと
というのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が
起こったか、何故人間と人間が争うのか、ね、
ノアの大洪水は、先生あれは何だっ
たんですか、色々聞かれるでしょうけれど。
それは、人間の業というものが、何度も
何度も掃除していかないといけないという、
その節目(ふしめ)節目というものが
ありまして、歴史の中で、そして、じゃあ
罰も何も無いんだったら、何の為に人間が
悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に平和に
やっていければいいのにと思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、深さ
ですね、神性。そういうものは何によって
浄められるか高められるかというと、人間の
苦を通してのね、涙を通しての経験によって
だけ高められるんですね。
苦労が一概に全部いいかというとそうでは
ないけれども、そうじゃなくって、それは何か
というと、自己ではない他己の生命、その人の
立場その人の気持ち、その人が何故そういう
ことを言ったか、何故そんな風に怒ったか、
自分に敵対したか、あるいは協力をして
くれたか、何故あそこまで骨惜しみせずに
あの人は生きることが出来るんだろうか
とか・・・。それはやっぱり、相手の立場
というものを想いやるということがないと
やれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境
以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、
理解してね寄り添ってそして生きて祈って、
そうだなあと思いながら、共に生きる
というのはなかなか難しいんです。
それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで
苦しむ。例えば病気になる。父と息子が
うまいこといかないとかですね。嫁と姑が
駄目になってるとか。何か平和じゃない、
そういう状況というものを通して、ああ本当に
大変だなあー、これは本当に一緒にやっていく
ということは大変だなあー、家族というものは
重たいものだなあーとか、色々なことを身に
染みる訳ですね。そうすると、自分の身近で
そういう風な人を見ると、あああの人も大変
だろうなあーと、同じような経験を持てば、
やっぱりその時に、我しらずその心が分かって
寄り添える訳なんですね。その時に、その人の
為に、ああ本当にあの人が幸せになりますよう
に、天命が完うされますように、よろしく
お願いしますという風に言えるようになる。
ところが、悲しいことに人間というのは、
自分の経験以外の事というのは、そういう
何か思い知らされる様な事がないと、他の
人の複雑な苦しい辛い気持ちというのは、
なかなか分からないように今なっている。
で、それを曇らされてるのは、もちろん
大きく言えば、肉体の我だけれども、その人
その人の環境や、お金があればあるで、
お金が無いなら無いで、あるにも無いにも
何か不足が出てくる、欲が出てくる。色々な
ところで苦しむ。そういうものがある訳
なんです。社会的な状況もある訳なんです。
それは霊の生命からいったら余分なもの
なんだけれども、だけれども、余分なもの
だといって、我々はそれを捨て去ることは
出来ない訳ですね。その中で生きて
いかなきゃいけないから。
それではどうすれば良いかというと、やはり
祈りの中でね、祈りの時には、自分が何億
持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所
じゃないですね。祈りの時間というのは、
神様と私の時間なんですね。神様に私の心を
開いていただく、そういう時間なんです。
そうして、自分の本来心を解き放って行って、
そして、自分はこの世の中にあっては、とても
じゃないけどたまらないような状況に
あるけれども、だんだん解き放って行くと、
ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、
静かなものがあるなあー、神様ありがとう
ございます、と言える時に思える時に、神様と
一致することが出来る。だからそれは、
「世界人類が平和でありますように」という
あの祈り言の中に全部入ってる訳ですね。
教義にありますけれども、個人も人類も
真の救いを体得できるものであるという
あの祈りですね。あの祈りを唱える時に、
我々というのは目には見えませんけれども、
自分の中にある余分なものがその時パーッと
掃除をされる訳なんですね。で掃除をした
ところで、色々な経験を積んでいって、そして
色々な場所で、例えば、支部じゃなくったって
集会じゃなくったって、宗教的なものを
離れたってね。色んな人に会って色んな立場の
人の話を聞くことがあるかもしれない。悩みを
聞くことがあるかも知れない。そういう時に、
どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういう
ことを無になって聞けるかということ、
やっぱりそれが大事なんですね。
祈りの場というものは、人間が作る様に思う
けれども、本当は、人間というのは見えない
ところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が
意識しようとしまいと、本体というのはずっと
祈りの座についていて、自分というのは神界に
いて、光になって祈ってる。神界にも
自分自身がいる訳ですから。そうして、御心と
一体になって、こっちに光を送ってる。こっち
からも光を送ってる。光の呼びかけ合い、
呼び合いをやってる訳です。呼び返しの中で
我々は生きてる訳なんですね。
それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。だから罰も何も無い。罰を
当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、
そんないい加減な世界じゃなくって、その光の
シャワーを浴びてる時というのは、人間は
本当に自由になってる。本当に神の御心の中に
入っている自分自身になってる。それは、
自分が意識しようとしまいとそうなんです。
そうやって人間というのは生きているん
ですね。ちょうどこの我々の肉体というものが、
飲んだり食べたり眠ったり、ある程度動いたり
しないと、この肉体の生命を保っていけない
ように、我々の奥の複雑な霊妙な体という
ものは、神様の光を受けていかないと生きて
いけない。
これは随分と申し上げて来たこと
ですけれども、その光というものは何から
出来ているかというと、ゆるしから出来てる
訳ですね。あるいは愛から出来てる訳です。
愛とゆるしというのは何処から出てるか
というと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛
なんですね。
それは、我々がこの地球に降りて来た時は、
この地球を、神様の御心に従って、神様の
御心が顕現されるような、そういう方針に
するべく、我々はここに降りて来て、やってた
訳なんだけれども、それが、霊性が働いて
いる間はよかったけれども、だんだん肉体を
被っていく内に、それを忘れちゃって、人が
霊止にならなくなって、つまり、霊止まる
という霊止(ひと)の方を忘れて、人間の
人(にん)という、そっちの方の肉体の方の
人だけが残っちゃって。だけど消えては
いないんです。霊止というのはね。何故か
というと、霊が無ければ我々は生きていない
訳ですから。ただそれが何か、我(が)の世界の
中に今はなっていて、それが押し込められてる
感じなんですね。その押し込められてる、
ちょっとしか顔を覗かして今は生きていけない、
息が出来ない、その状態を何とか解きほどいて、
解き放ってやっていかないと、今はもう地球も
大変だし、自分自身も大変だし、世界人類も
大変だし、ひいては宇宙も大変だしね。人間
だけじゃない宇宙生命そのものだって
大変なんです。
という時に、じゃあ、その全部の生命を
健やかに柔らかに、有るがままの有りの
ままの生命を宣り出そうというその祈り
というのは、「世界人類が平和であります
ように、日本が平和でありますように、
私達の天命が完うされますように、守護霊
さま守護神さまありがとうございます」
というあれなんですね。あれで全部救われて
いく訳なんですね。だから、あの祈り
というものは、大変な光明体なんです。
その光明体を我々は持ってるんです。
それは唯単に、白光の人があの祈りを
するから救われるとかそういう事では
なくて、元々の神様の御心を祈り言にしたら
ああいうことになる。そうして、その元々の
神様の御心の光そのものというのは、どんな
人の中にも、例えば無神論者の人の中にも、
物質主義者の人の中にもね、皆入ってる
訳なんです。
この世の中でいえば、信仰しない人は
救われないとか色々言うけれども、そんなん
じゃないんです。
それだったらもう小乗(しょうじょう)以下
なんですね、大乗(だいじょう)と小乗と
あって、大乗というのは勝れた乗り物
という意味だけれども、勝れた乗り物
というのは神様の大きな大きな大愛で、その
愛とゆるしの光そのものなのです。その愛と
ゆるしからいうと、神様というのはついぞ
人間を責めた事がない。ついぞ人間を裁いた
ことがない。
その裁いた事がない神様に、我々がこの
生命を、この心を捧げて生きていくことが
出来たら、その時に、神様の方の喜びも大きく
なるし、我々の方にいただいている光だって
ますますその輝きを増して、この世の中で
成してゆくべき仕事ですね、肉体の中で
関わっていかなきゃならないこと、悩まな
ければならないこと、苦しまなければ
ならないこと、あるいは喜(よろこ)び事、
そういうものも、何といいますか、スーッと
来てスーッと通り過ぎるんです。
決して私の申し上げてる事は、ご利益の
宗教じゃないんです。人間が果たしていか
なきゃいけない務め、そうして、どうしても
果たしていかなきゃならない宿題という
ものはあるんです。その為に、肉体の時間が
随分くっちゃって、もうとてもじゃないけど
五井先生どうにもなりませんという人の
嘆きを一杯聞きますけれども。どうにも
なりませんというのは、肉体の我の方の叫び
なんでして、その我というのを溶かして、
そして祈りの中へ入り込んでしまうと、
まだまだ、自分の中に、永遠の生命としての
人間の本来心がそこに顔を覗かせてきまして、
そうして、その切羽つまってどうにも
ならないというところから反転して、今度は、
大生命の生命の道へスーッと入って
いくんですね。
そのスーッと入らせていく、入らせて
いただく、それが「神様」という素直な
呼びかけであり、我々は一人として一度
として、罰っせられた事がない、責められた
ことがない、ずっとゆるされてる、そういう
存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、
白光の人であろうとなかろうと、世界人類が
全部、どんな人であっても、例えば、
どんなに罪を犯したと、この世で裁かれて
いる人であっても、そうじゃない人で
あってもね、皆光なんです。皆光明ですから、
そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで
祈る、一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。
一人で祈っても共に祈っても、その
ひびきが世界中をかけ巡る。宇宙全体
ひびき合う。
そういう祈りですから、その祈りに乗って
宇宙神の御心の中にふっと入っていくと、
穏やかになって気が楽になって。そうして、
本当に余分なこと、思い煩い、そういう
ものはね、肩の力を抜いて、なるべくこう
受けとめていったら、本当に重荷という
ものも重くならないで軽くなっていくもんだ
というと、これは私の人間としての経験
からも申し上げることができると思うん
ですね。
重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を
軽くするのが神様なんです。ですから、今
どんなに打ちひしがれてる人でも、どんなに
どうにもならないと思ってる人でも、
どうにもならないと思ってることが、それが
消えてゆく姿なんですよね。
どうにもならないというのは、だから、
それを押し込めるんじゃなくて、自分は
白光の教えを聞いてるのに何でこんなん
だろうと責めるんじゃなくて、あー
そうなんだ、消えてゆく姿なんだと思って、
そして、それを思いっきり出して、泣くなら
泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
いただいて、そして又生命をいただいてね、
ゆるし放しの愛と平和の元の神様という
ものに礼拝をし直して、いただき直しの
生命で、毎日を明るく生きていくという
ことが、一番我々がこの困難の中から
救われていく大元の元になっていく
訳なんです。
そこを赤子のように信仰してゆきますと、
絶対に神様というのは我々をいやな所に
変な所に導いていかない。必要なものは
下さる。絶対に下さる。この生命という
ものを使って下さる時がある。その使われ方
というのはどういう使われ方をするか
分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、
その一筋の生命というのは、何の滞りもない
朗らかな何の障りもないものなんだという
ことを確認できる時に、我々というのは
解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我という
ものに染み込ませる。そうして、霊肉共に
救われていく、その祈りが、世界人類が平和
でありますようにという世界平和の祈り
なのでありまして、この光の祈りという
ものは、益々これから色々な人に覚えられて
いく祈りだと思いますけれども、私共は益々
謙虚になって、この祈りのもとに、神様の
愛を仰いですすんでまいりたいと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと
又面倒なんですけれども。我々自身ですね。
この色んな性格を持ってる我々自身
というものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。
特に我々のまわりですとね、日本など、
そんな事をすると罰が当たるよとか、それも
微風を残す為に穏やかに、そんな事をしちゃ
いけないよと言うのならいいけれども、そう
じゃなくて、この頃ずうっと世の中を
見ておりますと、それは先祖の祟り
なんだとか、おまえの心がけが悪いからだとか
そういう何か、責めるといいますかね、苛める
と申しますか、そういう形で強制しようと
する。正していこうとする。自分の説いてる
道が一番正しいんだと言って、これを信じ
なければ駄目だという形で、我々の生命
というか心を向けさせようとする。
だけれども、何か強制されてですね、強い
られて心をそこへ向けたとしても、果たして
人間の気持ちというものが素直に、その人達の
言う、何だか分かりませんけれど、その
絶対者に向いていくかというと、そういう風
には人間の心というのは造られて
いないんですね。
人間の心というのは、唯ひたすらに素直に
なりたいというか、神様の方へ向いて行きたい
というか、それが本来なんですけれども、この
世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと
色んなことによって、素直になりたいけれども
素直になれない状況というものが自分の中に
生まれてきて、あるいは、まわりに生まれて
きて、とてもじゃないけれど、この世の中は
公平だとは思えない。とてもじゃないけれど、
今自分が幸せな状態だとは言えない。
という風なことが色々生まれて来ますとね、
これをこちらへ向けばこうなるんだ
というような、そういう強いられ方で
その絶対者に向けと言っても、向けられる
もんじゃないんですね。
で、簡単に申しますとね、人間の心
というものは本来自由です。何故自由か
というと、神様から来ている我々は分生命
なんですね。そして、我々はどんな
柵(しがらみ)からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと
我々の本体、本来の生命というものは、何もの
にも把われないものだから、この世の中は
表面的に何処かに属しているとか誰かを養って
いかなきゃいけないとか、色々な義務という
ものを負ってはおりますけれど、そうじゃ
なくって、自分の中で何ものも強いられる
ものがない、そして、何ものからも自由である。
それは何かというと、元々神様そのものが、
人間を強いるとか何かをしなければ生かして
いかないとかですね、そういう類の方では
ないからなんですね。
要するに、もう全くの無、無を突き抜けた
朗らかな心、それが神様の御心でありまして、
その御心から分かれて来たのが我々人間
でありますから、そこで、何をしないと
いけないとか、これをすると罰が当たるとか
当たらないとか、そういうことは
ないんですよね。
つまり、冥加(みょうが)という言葉が
ありますけれども、生命冥加とか何だとか。
冥加というのは何かというと、我々が
自覚しないところの神仏の加護なんですね。
神仏の守りなんです。つまり、自覚しない
ところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
神様というのはそうなんです。こちらが
眠ってる時でも、忙しくって神様の事を
忘れている時でも、何でもずっと守ってる。
愛している。ゆるしている。神様の方
からは、一度も罰を当てようとしたこと
というのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が
起こったか、何故人間と人間が争うのか、ね、
ノアの大洪水は、先生あれは何だっ
たんですか、色々聞かれるでしょうけれど。
それは、人間の業というものが、何度も
何度も掃除していかないといけないという、
その節目(ふしめ)節目というものが
ありまして、歴史の中で、そして、じゃあ
罰も何も無いんだったら、何の為に人間が
悩んで苦しむのか、全くずっと平穏に平和に
やっていければいいのにと思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、深さ
ですね、神性。そういうものは何によって
浄められるか高められるかというと、人間の
苦を通してのね、涙を通しての経験によって
だけ高められるんですね。
苦労が一概に全部いいかというとそうでは
ないけれども、そうじゃなくって、それは何か
というと、自己ではない他己の生命、その人の
立場その人の気持ち、その人が何故そういう
ことを言ったか、何故そんな風に怒ったか、
自分に敵対したか、あるいは協力をして
くれたか、何故あそこまで骨惜しみせずに
あの人は生きることが出来るんだろうか
とか・・・。それはやっぱり、相手の立場
というものを想いやるということがないと
やれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境
以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、
理解してね寄り添ってそして生きて祈って、
そうだなあと思いながら、共に生きる
というのはなかなか難しいんです。
それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで
苦しむ。例えば病気になる。父と息子が
うまいこといかないとかですね。嫁と姑が
駄目になってるとか。何か平和じゃない、
そういう状況というものを通して、ああ本当に
大変だなあー、これは本当に一緒にやっていく
ということは大変だなあー、家族というものは
重たいものだなあーとか、色々なことを身に
染みる訳ですね。そうすると、自分の身近で
そういう風な人を見ると、あああの人も大変
だろうなあーと、同じような経験を持てば、
やっぱりその時に、我しらずその心が分かって
寄り添える訳なんですね。その時に、その人の
為に、ああ本当にあの人が幸せになりますよう
に、天命が完うされますように、よろしく
お願いしますという風に言えるようになる。
ところが、悲しいことに人間というのは、
自分の経験以外の事というのは、そういう
何か思い知らされる様な事がないと、他の
人の複雑な苦しい辛い気持ちというのは、
なかなか分からないように今なっている。
で、それを曇らされてるのは、もちろん
大きく言えば、肉体の我だけれども、その人
その人の環境や、お金があればあるで、
お金が無いなら無いで、あるにも無いにも
何か不足が出てくる、欲が出てくる。色々な
ところで苦しむ。そういうものがある訳
なんです。社会的な状況もある訳なんです。
それは霊の生命からいったら余分なもの
なんだけれども、だけれども、余分なもの
だといって、我々はそれを捨て去ることは
出来ない訳ですね。その中で生きて
いかなきゃいけないから。
それではどうすれば良いかというと、やはり
祈りの中でね、祈りの時には、自分が何億
持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所
じゃないですね。祈りの時間というのは、
神様と私の時間なんですね。神様に私の心を
開いていただく、そういう時間なんです。
そうして、自分の本来心を解き放って行って、
そして、自分はこの世の中にあっては、とても
じゃないけどたまらないような状況に
あるけれども、だんだん解き放って行くと、
ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、
静かなものがあるなあー、神様ありがとう
ございます、と言える時に思える時に、神様と
一致することが出来る。だからそれは、
「世界人類が平和でありますように」という
あの祈り言の中に全部入ってる訳ですね。
教義にありますけれども、個人も人類も
真の救いを体得できるものであるという
あの祈りですね。あの祈りを唱える時に、
我々というのは目には見えませんけれども、
自分の中にある余分なものがその時パーッと
掃除をされる訳なんですね。で掃除をした
ところで、色々な経験を積んでいって、そして
色々な場所で、例えば、支部じゃなくったって
集会じゃなくったって、宗教的なものを
離れたってね。色んな人に会って色んな立場の
人の話を聞くことがあるかもしれない。悩みを
聞くことがあるかも知れない。そういう時に、
どれだけ、祈りの場じゃない所で、そういう
ことを無になって聞けるかということ、
やっぱりそれが大事なんですね。
祈りの場というものは、人間が作る様に思う
けれども、本当は、人間というのは見えない
ところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が
意識しようとしまいと、本体というのはずっと
祈りの座についていて、自分というのは神界に
いて、光になって祈ってる。神界にも
自分自身がいる訳ですから。そうして、御心と
一体になって、こっちに光を送ってる。こっち
からも光を送ってる。光の呼びかけ合い、
呼び合いをやってる訳です。呼び返しの中で
我々は生きてる訳なんですね。
それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。だから罰も何も無い。罰を
当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、
そんないい加減な世界じゃなくって、その光の
シャワーを浴びてる時というのは、人間は
本当に自由になってる。本当に神の御心の中に
入っている自分自身になってる。それは、
自分が意識しようとしまいとそうなんです。
そうやって人間というのは生きているん
ですね。ちょうどこの我々の肉体というものが、
飲んだり食べたり眠ったり、ある程度動いたり
しないと、この肉体の生命を保っていけない
ように、我々の奥の複雑な霊妙な体という
ものは、神様の光を受けていかないと生きて
いけない。
これは随分と申し上げて来たこと
ですけれども、その光というものは何から
出来ているかというと、ゆるしから出来てる
訳ですね。あるいは愛から出来てる訳です。
愛とゆるしというのは何処から出てるか
というと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛
なんですね。
それは、我々がこの地球に降りて来た時は、
この地球を、神様の御心に従って、神様の
御心が顕現されるような、そういう方針に
するべく、我々はここに降りて来て、やってた
訳なんだけれども、それが、霊性が働いて
いる間はよかったけれども、だんだん肉体を
被っていく内に、それを忘れちゃって、人が
霊止にならなくなって、つまり、霊止まる
という霊止(ひと)の方を忘れて、人間の
人(にん)という、そっちの方の肉体の方の
人だけが残っちゃって。だけど消えては
いないんです。霊止というのはね。何故か
というと、霊が無ければ我々は生きていない
訳ですから。ただそれが何か、我(が)の世界の
中に今はなっていて、それが押し込められてる
感じなんですね。その押し込められてる、
ちょっとしか顔を覗かして今は生きていけない、
息が出来ない、その状態を何とか解きほどいて、
解き放ってやっていかないと、今はもう地球も
大変だし、自分自身も大変だし、世界人類も
大変だし、ひいては宇宙も大変だしね。人間
だけじゃない宇宙生命そのものだって
大変なんです。
という時に、じゃあ、その全部の生命を
健やかに柔らかに、有るがままの有りの
ままの生命を宣り出そうというその祈り
というのは、「世界人類が平和であります
ように、日本が平和でありますように、
私達の天命が完うされますように、守護霊
さま守護神さまありがとうございます」
というあれなんですね。あれで全部救われて
いく訳なんですね。だから、あの祈り
というものは、大変な光明体なんです。
その光明体を我々は持ってるんです。
それは唯単に、白光の人があの祈りを
するから救われるとかそういう事では
なくて、元々の神様の御心を祈り言にしたら
ああいうことになる。そうして、その元々の
神様の御心の光そのものというのは、どんな
人の中にも、例えば無神論者の人の中にも、
物質主義者の人の中にもね、皆入ってる
訳なんです。
この世の中でいえば、信仰しない人は
救われないとか色々言うけれども、そんなん
じゃないんです。
それだったらもう小乗(しょうじょう)以下
なんですね、大乗(だいじょう)と小乗と
あって、大乗というのは勝れた乗り物
という意味だけれども、勝れた乗り物
というのは神様の大きな大きな大愛で、その
愛とゆるしの光そのものなのです。その愛と
ゆるしからいうと、神様というのはついぞ
人間を責めた事がない。ついぞ人間を裁いた
ことがない。
その裁いた事がない神様に、我々がこの
生命を、この心を捧げて生きていくことが
出来たら、その時に、神様の方の喜びも大きく
なるし、我々の方にいただいている光だって
ますますその輝きを増して、この世の中で
成してゆくべき仕事ですね、肉体の中で
関わっていかなきゃならないこと、悩まな
ければならないこと、苦しまなければ
ならないこと、あるいは喜(よろこ)び事、
そういうものも、何といいますか、スーッと
来てスーッと通り過ぎるんです。
決して私の申し上げてる事は、ご利益の
宗教じゃないんです。人間が果たしていか
なきゃいけない務め、そうして、どうしても
果たしていかなきゃならない宿題という
ものはあるんです。その為に、肉体の時間が
随分くっちゃって、もうとてもじゃないけど
五井先生どうにもなりませんという人の
嘆きを一杯聞きますけれども。どうにも
なりませんというのは、肉体の我の方の叫び
なんでして、その我というのを溶かして、
そして祈りの中へ入り込んでしまうと、
まだまだ、自分の中に、永遠の生命としての
人間の本来心がそこに顔を覗かせてきまして、
そうして、その切羽つまってどうにも
ならないというところから反転して、今度は、
大生命の生命の道へスーッと入って
いくんですね。
そのスーッと入らせていく、入らせて
いただく、それが「神様」という素直な
呼びかけであり、我々は一人として一度
として、罰っせられた事がない、責められた
ことがない、ずっとゆるされてる、そういう
存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、
白光の人であろうとなかろうと、世界人類が
全部、どんな人であっても、例えば、
どんなに罪を犯したと、この世で裁かれて
いる人であっても、そうじゃない人で
あってもね、皆光なんです。皆光明ですから、
そこでお互いを礼拝する。尊敬する。そこで
祈る、一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。
一人で祈っても共に祈っても、その
ひびきが世界中をかけ巡る。宇宙全体
ひびき合う。
そういう祈りですから、その祈りに乗って
宇宙神の御心の中にふっと入っていくと、
穏やかになって気が楽になって。そうして、
本当に余分なこと、思い煩い、そういう
ものはね、肩の力を抜いて、なるべくこう
受けとめていったら、本当に重荷という
ものも重くならないで軽くなっていくもんだ
というと、これは私の人間としての経験
からも申し上げることができると思うん
ですね。
重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を
軽くするのが神様なんです。ですから、今
どんなに打ちひしがれてる人でも、どんなに
どうにもならないと思ってる人でも、
どうにもならないと思ってることが、それが
消えてゆく姿なんですよね。
どうにもならないというのは、だから、
それを押し込めるんじゃなくて、自分は
白光の教えを聞いてるのに何でこんなん
だろうと責めるんじゃなくて、あー
そうなんだ、消えてゆく姿なんだと思って、
そして、それを思いっきり出して、泣くなら
泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
いただいて、そして又生命をいただいてね、
ゆるし放しの愛と平和の元の神様という
ものに礼拝をし直して、いただき直しの
生命で、毎日を明るく生きていくという
ことが、一番我々がこの困難の中から
救われていく大元の元になっていく
訳なんです。
そこを赤子のように信仰してゆきますと、
絶対に神様というのは我々をいやな所に
変な所に導いていかない。必要なものは
下さる。絶対に下さる。この生命という
ものを使って下さる時がある。その使われ方
というのはどういう使われ方をするか
分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、
その一筋の生命というのは、何の滞りもない
朗らかな何の障りもないものなんだという
ことを確認できる時に、我々というのは
解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我という
ものに染み込ませる。そうして、霊肉共に
救われていく、その祈りが、世界人類が平和
でありますようにという世界平和の祈り
なのでありまして、この光の祈りという
ものは、益々これから色々な人に覚えられて
いく祈りだと思いますけれども、私共は益々
謙虚になって、この祈りのもとに、神様の
愛を仰いですすんでまいりたいと思います。
昭和63年6月13日
五井 昌久