めちゃくちゃ金のことを考えているのである。
亡者や守銭奴になっているわけではないが、つい金のことを考えてしまう。
生活に余裕がないわけではない。
なんたって週6日労働しているし、慣れない家計簿をつけて、なるべく清貧に生きている。
勉強会も必要性が高いものに絞って参加している。
ときどき酒も飲むが、もっぱら発泡酒だ。
それなのに。
この先どのくらい金が必要になるのか、という不安が漠然と漂っている。
自分が資本主義の渦に飲み込まれてしまっている気もする。
『モモ』に出てくる灰色の男たちに、すっかりそそのかれてしまっているような。
少し立ち止まって深呼吸する必要がありそうだ。あと、たまにはビールを飲む必要がありそうだ。
贅沢は言わないので、ときどきタリスカーも飲みたい。
根底には他者比較もある。
先日、金をもりもり稼いでいる他業種の方々と飲酒する機会があった。
初対面の人が多くて人見知りが炸裂してしまい、この年になって自分のやばさを再認するに至った…恥ずかしい限りである。
それはさておき。
ものすごく稼いでいる人の話を聞いて、腰を抜かしてしまいそうになった。1人10万くらいする恵比寿のフレンチに行く人。でかいバレンシアガのバッグを持っている人、美容整形に情熱を注ぐ人。稼いだお金でお馬さんに命を懸けている人。
いろんな人がいた、多種多様な生きざまがあるのだと感じた。
彼らは幸せなんだろうか。余計なお世話だが、なんだかそんなことを考えてしまった。
もちろん、この気持ちの大半は貧乏人のひがみに由来している。
私も彼らと同じように稼げていたら、そんなことを考えないのだろう。
ちなみに私はしょっちゅう「今、幸せかなあ」と考えるが、発泡酒を飲むと瞬時に幸せを感じられる身体なので、そこまで不幸でもない気がしている。たまにはビールも飲みたいけどね。
私の身近なところに、お金のことに取りつかれ、ハイパーオーバーワークになってしまった人がいる。
お金はめちゃくちゃ稼いでいたけど、一緒に飲んでもあまり幸せそうには見えなかった。ひどい飲み方をしていた。
その人はやがて心身のバランスを崩し、家庭生活もうまくいかなかった。結果的に、いろんな人に迷惑をかけていた。私はその姿を見て、その人には悪いけど、少し安心してしまったのだ。
だってずっと無理をしていて、つらそうに見えたから。
先日、とある組織に勤めている人と話をした。
その組織が虚無であった。規模が大きいのもあるが、上層部がスターリンよろしく粛清人事を行うため、周囲の人がイエスマンになり、上にお伺いをたてて物事を進めるようになってしまった。末端の些末な事柄さえ、いちいち上にあがって承認を待たなくてならない。
そうなると。
決めるまでの時間が多くかかったり、たくさんの人の目に触れるために重箱の隅をつつくような指摘が発生し、その作業に疲弊したりしてしまうのだという。
なんて官僚的で、非人道的な状況なのだろうか。カフカの不条理を凝縮したような働き方だ。
採用にあたって『城』を読んだ人だけが募集になるのか?と疑いたくなるくらいだった。
第一に、その人が気の毒であった。
自分もかつて虚無的な業務を担当していた時期があり、その時期が非常につらかった。
だから、その人も同じようにつらい思いをしているのではないか、と心が痛んだ。
そして。
2024年にもなって、人類が虚無的な労働をしているのはどうしてなんだろうか。
生成AIなどの技術が発展してきて、いわゆるブルシット的なジョブはそちらに任されるようになるのか、と思っていたが、どうもそうではないらしい。いわゆる「仕事をしている」ための仕事というか、そういうものが多岐に渡って人類に生じているようなのである。
予算を使いきるために工事をするようなものだ。せっせと仕事をしていないと、その業務が削減されてしまうから、そうならないように一生懸命仕事をしているというか、そうでもしないと自分の存在意義を見失ってしまうというか。何のために働いているんだか、いよいよわからなくなってしまいそうだ。
最近『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか バーンアウト文化を終わらせるためにできること』という本を読んでいる。これが面白いのである。
著者はかつてアカデミックなポストについていて、実際にバーンアウト状態に陥った経験がある人物だ。神学部の教授か何かを務めていたものの、大学の些末な業務や意味のない会議、やる気のない学生への授業ですり減り、燃え尽きてしまっていた。強いイライラと無気力を抱き、やがて仕事を辞した。
この著者が言うには「理想と現実のギャップ」がバーンアウトを引き起こす要因らしい。
「確かに」と思う部分もある。私も仕事に抱いていた理想と、現実のはざまで辟易していた時期があった。それはわかるけど、でもなんか納得がいっていないんだよな。
筆者の理屈を捻じ曲げて解釈すると、「仕事に対する理想を引き下げろ」という、労働者に責任を帰属させるだけの自己責任論になってしまうからである。もちろん著者はそんなこと言っていないけど、世の中には事実を曲解してしまう人がいるので、変な解釈が独り歩きしないよう注意を払わなければならない。
私の知人が消耗していった、カスみたいな労働環境を是正していくような、現実の仕事を少しマシにしていくような、社会全体の動きも今よりずっと必要なんじゃないだろうか、と思うのである。
はたしてそれにはどのような力が必要なのだろうか。
みんなが「自分のやっている仕事のここがクソだ」と、自由に言える雰囲気が大事なんじゃないかと思う。#教師のバトン、みたいなね。あれも教師のやりがいをアピールさせる狙いだったけど、結果的にはその劣悪な労働環境が浮き彫りになったのであった。
「#自分の労働のここがクソ」いいではないか。
もちろん労働の全部がクソではないと思うけど、少しでも幸せに生きていくために、クソはできる限り減らせるほうがいいんだろう、と思う。
亡者や守銭奴になっているわけではないが、つい金のことを考えてしまう。
生活に余裕がないわけではない。
なんたって週6日労働しているし、慣れない家計簿をつけて、なるべく清貧に生きている。
勉強会も必要性が高いものに絞って参加している。
ときどき酒も飲むが、もっぱら発泡酒だ。
それなのに。
この先どのくらい金が必要になるのか、という不安が漠然と漂っている。
自分が資本主義の渦に飲み込まれてしまっている気もする。
『モモ』に出てくる灰色の男たちに、すっかりそそのかれてしまっているような。
少し立ち止まって深呼吸する必要がありそうだ。あと、たまにはビールを飲む必要がありそうだ。
贅沢は言わないので、ときどきタリスカーも飲みたい。
根底には他者比較もある。
先日、金をもりもり稼いでいる他業種の方々と飲酒する機会があった。
初対面の人が多くて人見知りが炸裂してしまい、この年になって自分のやばさを再認するに至った…恥ずかしい限りである。
それはさておき。
ものすごく稼いでいる人の話を聞いて、腰を抜かしてしまいそうになった。1人10万くらいする恵比寿のフレンチに行く人。でかいバレンシアガのバッグを持っている人、美容整形に情熱を注ぐ人。稼いだお金でお馬さんに命を懸けている人。
いろんな人がいた、多種多様な生きざまがあるのだと感じた。
彼らは幸せなんだろうか。余計なお世話だが、なんだかそんなことを考えてしまった。
もちろん、この気持ちの大半は貧乏人のひがみに由来している。
私も彼らと同じように稼げていたら、そんなことを考えないのだろう。
ちなみに私はしょっちゅう「今、幸せかなあ」と考えるが、発泡酒を飲むと瞬時に幸せを感じられる身体なので、そこまで不幸でもない気がしている。たまにはビールも飲みたいけどね。
私の身近なところに、お金のことに取りつかれ、ハイパーオーバーワークになってしまった人がいる。
お金はめちゃくちゃ稼いでいたけど、一緒に飲んでもあまり幸せそうには見えなかった。ひどい飲み方をしていた。
その人はやがて心身のバランスを崩し、家庭生活もうまくいかなかった。結果的に、いろんな人に迷惑をかけていた。私はその姿を見て、その人には悪いけど、少し安心してしまったのだ。
だってずっと無理をしていて、つらそうに見えたから。
先日、とある組織に勤めている人と話をした。
その組織が虚無であった。規模が大きいのもあるが、上層部がスターリンよろしく粛清人事を行うため、周囲の人がイエスマンになり、上にお伺いをたてて物事を進めるようになってしまった。末端の些末な事柄さえ、いちいち上にあがって承認を待たなくてならない。
そうなると。
決めるまでの時間が多くかかったり、たくさんの人の目に触れるために重箱の隅をつつくような指摘が発生し、その作業に疲弊したりしてしまうのだという。
なんて官僚的で、非人道的な状況なのだろうか。カフカの不条理を凝縮したような働き方だ。
採用にあたって『城』を読んだ人だけが募集になるのか?と疑いたくなるくらいだった。
第一に、その人が気の毒であった。
自分もかつて虚無的な業務を担当していた時期があり、その時期が非常につらかった。
だから、その人も同じようにつらい思いをしているのではないか、と心が痛んだ。
そして。
2024年にもなって、人類が虚無的な労働をしているのはどうしてなんだろうか。
生成AIなどの技術が発展してきて、いわゆるブルシット的なジョブはそちらに任されるようになるのか、と思っていたが、どうもそうではないらしい。いわゆる「仕事をしている」ための仕事というか、そういうものが多岐に渡って人類に生じているようなのである。
予算を使いきるために工事をするようなものだ。せっせと仕事をしていないと、その業務が削減されてしまうから、そうならないように一生懸命仕事をしているというか、そうでもしないと自分の存在意義を見失ってしまうというか。何のために働いているんだか、いよいよわからなくなってしまいそうだ。
最近『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか バーンアウト文化を終わらせるためにできること』という本を読んでいる。これが面白いのである。
著者はかつてアカデミックなポストについていて、実際にバーンアウト状態に陥った経験がある人物だ。神学部の教授か何かを務めていたものの、大学の些末な業務や意味のない会議、やる気のない学生への授業ですり減り、燃え尽きてしまっていた。強いイライラと無気力を抱き、やがて仕事を辞した。
この著者が言うには「理想と現実のギャップ」がバーンアウトを引き起こす要因らしい。
「確かに」と思う部分もある。私も仕事に抱いていた理想と、現実のはざまで辟易していた時期があった。それはわかるけど、でもなんか納得がいっていないんだよな。
筆者の理屈を捻じ曲げて解釈すると、「仕事に対する理想を引き下げろ」という、労働者に責任を帰属させるだけの自己責任論になってしまうからである。もちろん著者はそんなこと言っていないけど、世の中には事実を曲解してしまう人がいるので、変な解釈が独り歩きしないよう注意を払わなければならない。
私の知人が消耗していった、カスみたいな労働環境を是正していくような、現実の仕事を少しマシにしていくような、社会全体の動きも今よりずっと必要なんじゃないだろうか、と思うのである。
はたしてそれにはどのような力が必要なのだろうか。
みんなが「自分のやっている仕事のここがクソだ」と、自由に言える雰囲気が大事なんじゃないかと思う。#教師のバトン、みたいなね。あれも教師のやりがいをアピールさせる狙いだったけど、結果的にはその劣悪な労働環境が浮き彫りになったのであった。
「#自分の労働のここがクソ」いいではないか。
もちろん労働の全部がクソではないと思うけど、少しでも幸せに生きていくために、クソはできる限り減らせるほうがいいんだろう、と思う。