砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

2018-08-15 01:20:59 | 日本の小説


実家に帰っていてやることがない。
もちろん、まったくないと言えば嘘になる。
木魚を叩き、ジョジョとハンター×ハンターを読み返した。
でもそれも終わってしまって、この時間どうしても寝られない。
今は時間を持て余していてブログを書いている。
やれやれ、というわけで今回は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を。


この作品は1988年に出版された、『羊をめぐる冒険』(以下『羊』)の続編にあたる小説だ。とはいえこの作品だけ読んでも十分楽しめるつくりになっている。前作との繋がりが強調されているのは序盤までで、そこからは前作との関連性は薄くなり、独自の物語が展開されていく。『羊』を読んでいなくてもいいかも知れない。

今回帰省する際、新幹線で何の本を読むか迷って結局これを手に取った。この作品を読み返すのは今回で3回目だ。彼の作品を読み返したのは本作と、『スプートニクの恋人』『レキシントンの幽霊』『騎士団長殺し』くらいで、正直言ってものすごいファンというほどではない。でも折に触れて読み返したくなるのは、私にとってはこの『ダンス・ダンス・ダンス』だったりする。


『色彩を持たない多崎つくる』とか『女のいない男たち』などの最近の作品に比べたら、無駄と感じられる部分が目立つ。彼特有のもってまわった比喩も多いし、音楽に関する独りよがりな話もずいぶん出てくる。ゴシック体のくどい演出も繰り返される。それに食傷気味になる人もきっといるだろう。一言で言えばかなり「混沌としている」のだ。でも混沌としているのがいい。あの時代をうまく描いているというか、本作で描かれているような情報過多、高度資本主義社会、それにうんざりする気持ち。そういったものを反映しているようにも思う。もちろん今読んでも面白いのだけれど。


ざっくりしたストーリーを言うと、前作『羊』のなかで色々なものを失った「僕」は、夢や羊男の導きのもと、なんとか喪失から立ち直ろうとする。そして奇妙な人物たち―「眼鏡の似合う女の子」、「ユキ」、「五反田君」―と関わっていくなかで、失ったものが何かを見定め、取り戻そうとする。うまく言えないけどそんな感じの話だ。文句があるならとりあえず読んで欲しい。

この作品のキーワードは「繋がっている」だ。
作品では何度も繰り返されている。ふとしたきっかけで前作で行方の分からなくなった女性「キキ」の手がかりを、高校の同級生「五反田君」が出ている映画で得たり、偶然知り合った少女「ユキ」の親に招待されたハワイ旅行でキキの姿を目撃したり。とにかく色々な出来事が少しずつ繋がりを見せ、そこにある種の手ごたえが生じていく。

本作を読んでいて思うのは、私たちの人生において「繋がっている」と思う出来事はどれくらいあるのだろう?ということ。
些細なことならたくさんあるはずだ。それを偶然とせせら笑う人もいるだろうし、実際偶然に過ぎないのかもしれない。でもきっと、どんな人にも「繋がっている」と感じる瞬間があるはずだ。個人的な話では、広い東京でたまたま高校の友達に遭遇したり、好きな作家やミュージシャンとばったり会って話したり、自分が考えていたのと同じようなことが小説に書かれていたり。そういった瞬間に「繋がっている」と思う。それにどんな意味を見出すかは人によって異なるだろうけど。

「繋がっている」
大切なのはそれに自覚的かどうかということなのではないだろうか。「単なる偶然」と冷笑するのは簡単だ。そういう人は確率論的な世界で生きていればよろしい。別に馬鹿にしているのではない。世の中に右利きの人と左利きの人がいるのと同じことだ。
私が言いたいのは、自分が「繋がっている」と思うことがどんなことなのか、それが自分にどういった意味を持つのか、考えてみるのは面白いだろうな、ということ。そうやって生きている方が、自分で意味を見出そうとするのは、徒労に終わるかもしれないけど面白いと思いませんか、好奇心を掻き立てませんか。どうせ死ぬのだから、何か見出そうとするのは面白いじゃない。きっとみんな、どこかでそういう願望を持っているんじゃないか。だからこの小説も300万部近く売り上げたんじゃないだろうか、そういった部分を刺激してくるからね。


まだ3回目は読み終わっていないが、帰りの新幹線で読み終わるだろう。
少し悲しくなったのは、昔読んだときに比べたらあまり楽しめなかったということ。私が年をとったからだろうか。虚無感あふれる本作だが、時にまぶしいくらいの「無垢さ」や「思春期のこころ」が描かれている。そういった部分に少しずつ入れ込めなくなってきた。特に「ユキ」をめぐるやり取り。でも読み返すことで、自分が今何を求めているのか、何と繋がっているのか、そういったことに意識的になれる作品だと思う。きっとまた読み返すのだろう。そのときどんな気づきがあるか、楽しみでもある。


くっさい話になってしまって申し訳ない。でもこれが私がこの作品を語るときに言えることだと思う。村上春樹は「ウワー村上春樹読んでるの?ウワー」と拒絶反応を示す人もいれば、「へーハルキ好きなんだ。何好き?何の作品のどの部分好き?どこのどういったところが好き?ドコドコドコドコドコ」と熱心な方もいる。こんなに好き嫌いが分かれる作家も、そんなにいないのかもしれない。森鴎外とかでそんな評判聞いたことないもの。彼が読み手をある程度選んでるだけかも知れないけど。
あ、でも太宰治や三島由紀夫は好き嫌いがずいぶん分かれる気がする。そう考えると「自意識」をどこまで描写するかが、好き嫌いをはっきりさせる要素の一つと考えてもいいのだろうか。村上春樹も彼らも、かなり自意識が強いタイプだと思うし。そういう私も自意識が強いタイプであることは否めない、やれやれである。