今日を含め残りの3試合で昇格にむけチームをまとあげる城。
2003年のJ2への移籍は昨年のカズほどではないが衝撃的なものだった。
その後チームの成績はふるわず昨年はカズ、山口の加入も12チーム中11位と一部サポーターから罵声をあびる日々だった。
専用コートもシャワー室ももたない経営状況等、現在の順位に辿り着いた裏には決して楽なチーム事情ではなかったことも容易にうかがえる。
前園、小倉、ヒデにつづき90年中期以降日本のサッカーを支えた功労者の1人がまたピッチを去る。
記録的な勝利を狙うJ1の華麗な舞台の裏でまた一つの物語が終わろうとしている。
横浜FC2006年度残り試合
11/23徳島(三ツ沢 )13:00
11/26鳥栖(鳥栖 ) 14:00
12/2愛媛(三ツ沢 )14:00
↓
城彰二
誕生日 1975年6月17日
出身地 北海道室蘭市
身長 179cm
体重 72kg
血液型 O型
J1での通算得点は95得点、中山雅史、三浦知良、藤田俊哉に次ぐ現在第4位。
1991年-1994年 鹿児島実業高等学校
(選手権大会ベスト4)
1994年-1996年 ジェフユナイテッド市原
(高卒ルーキーとしてデビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴール)
1997年-1998年 横浜マリノス
1999年 横浜F・マリノス
2000年1月-2000年7月 バリャドリード(スペイン)15試合出場2得点
2000年7月-2001年 横浜F・マリノス
2002年 ヴィッセル神戸
2003年- 横浜FC(J2)
1990年 ジュニアユース代表
1992年 ユース代表
1996年 アトランタオリンピック日本代表
1998年 ワールドカップフランス大会日本代表
国際Aマッチ36試合7得点
城は今季45試合中40試合に出場し12得点。横浜FCをJ2首位に押し上げた功労者の1人だ。高木琢也監督も献身的なプレーを高く評価しており、城自身も「もう一度J1でプレーしたい」気持ちでチームを引っ張ってきた。
しかし、左ひざは限界だった。高校時代に前十字じん帯を断裂。00年の日本代表の中国戦で再度痛めるなど古傷になっている個所だ。だましだましプレーしているが、試合後数日たっても痛みが消えないこともある。納得いくプレーができないことに悩み、8月ごろには「このひざではJ1で満足にプレーすることはできない」と今季限りでの現役引退を決意。そしてシーズン終盤にさしかかり、J1昇格の可能性が高まったことから、今月に入って奥寺康彦社長、高木監督ら幹部に引退の意思を伝えた。
クラブ側はまだ31歳で来季も十分に戦力として働ける上に、カズと並ぶチームの顔であることから慰留に努めた。城の希望に沿い、23日の徳島戦の試合後にサポーターに直接、引退を報告することになった。
城はJリーグ開幕2年目の94年に市原(現千葉)でデビュー。96年アトランタ五輪ではブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こした。日本代表として97年11月のW杯フランス大会最終予選イラン戦「ジョホールバルの奇跡」で貴重なゴールを決め、日本が初出場した98年W杯フランス大会ではエースストライカーとして3試合に先発。
00年にはスペインのバリャドリードに移籍、日本人として初めてスペイン1部リーグでプレーした。今年引退した中田英寿氏、川口(磐田)らとともに日本サッカー躍進の歴史をつくってきた。
引退後は指導者を目指す。既にC級ライセンスを取得済みで、B級を経て順調にいけば08年にはJリーグで監督ができるS級ライセンスが取得できる。関係者には「史上最年少でS級ライセンスを取得したい」と話し、監督としてのJリーグ復帰を目指しているという。
2003年のJ2への移籍は昨年のカズほどではないが衝撃的なものだった。
その後チームの成績はふるわず昨年はカズ、山口の加入も12チーム中11位と一部サポーターから罵声をあびる日々だった。
専用コートもシャワー室ももたない経営状況等、現在の順位に辿り着いた裏には決して楽なチーム事情ではなかったことも容易にうかがえる。
前園、小倉、ヒデにつづき90年中期以降日本のサッカーを支えた功労者の1人がまたピッチを去る。
記録的な勝利を狙うJ1の華麗な舞台の裏でまた一つの物語が終わろうとしている。
横浜FC2006年度残り試合
11/23徳島(三ツ沢 )13:00
11/26鳥栖(鳥栖 ) 14:00
12/2愛媛(三ツ沢 )14:00
↓
城彰二
誕生日 1975年6月17日
出身地 北海道室蘭市
身長 179cm
体重 72kg
血液型 O型
J1での通算得点は95得点、中山雅史、三浦知良、藤田俊哉に次ぐ現在第4位。
1991年-1994年 鹿児島実業高等学校
(選手権大会ベスト4)
1994年-1996年 ジェフユナイテッド市原
(高卒ルーキーとしてデビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴール)
1997年-1998年 横浜マリノス
1999年 横浜F・マリノス
2000年1月-2000年7月 バリャドリード(スペイン)15試合出場2得点
2000年7月-2001年 横浜F・マリノス
2002年 ヴィッセル神戸
2003年- 横浜FC(J2)
1990年 ジュニアユース代表
1992年 ユース代表
1996年 アトランタオリンピック日本代表
1998年 ワールドカップフランス大会日本代表
国際Aマッチ36試合7得点
城は今季45試合中40試合に出場し12得点。横浜FCをJ2首位に押し上げた功労者の1人だ。高木琢也監督も献身的なプレーを高く評価しており、城自身も「もう一度J1でプレーしたい」気持ちでチームを引っ張ってきた。
しかし、左ひざは限界だった。高校時代に前十字じん帯を断裂。00年の日本代表の中国戦で再度痛めるなど古傷になっている個所だ。だましだましプレーしているが、試合後数日たっても痛みが消えないこともある。納得いくプレーができないことに悩み、8月ごろには「このひざではJ1で満足にプレーすることはできない」と今季限りでの現役引退を決意。そしてシーズン終盤にさしかかり、J1昇格の可能性が高まったことから、今月に入って奥寺康彦社長、高木監督ら幹部に引退の意思を伝えた。
クラブ側はまだ31歳で来季も十分に戦力として働ける上に、カズと並ぶチームの顔であることから慰留に努めた。城の希望に沿い、23日の徳島戦の試合後にサポーターに直接、引退を報告することになった。
城はJリーグ開幕2年目の94年に市原(現千葉)でデビュー。96年アトランタ五輪ではブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こした。日本代表として97年11月のW杯フランス大会最終予選イラン戦「ジョホールバルの奇跡」で貴重なゴールを決め、日本が初出場した98年W杯フランス大会ではエースストライカーとして3試合に先発。
00年にはスペインのバリャドリードに移籍、日本人として初めてスペイン1部リーグでプレーした。今年引退した中田英寿氏、川口(磐田)らとともに日本サッカー躍進の歴史をつくってきた。
引退後は指導者を目指す。既にC級ライセンスを取得済みで、B級を経て順調にいけば08年にはJリーグで監督ができるS級ライセンスが取得できる。関係者には「史上最年少でS級ライセンスを取得したい」と話し、監督としてのJリーグ復帰を目指しているという。