この本は、ずいぶん昔に知り合いに借りた本です。
読んだあとに、あまりにも絶賛したために、もらってしまいました~~~
チェロキーインディアン(現在では、ネイティブアメリカンという)
の子供、トリーが、両親に死に別れた後、偉大な自然に抱かれながら
おじいさんと、おばあさんと暮らすというストーリーです。
その描写は、流れるような文体でもなく、淡々としたものだけれど
それがゆえに、また、美しいストーリー。
たくさんの信頼できる犬たち、語りかける木々、おじいさんと
おばあさんの教え・・・・
食べるものも、着るものも、そういう価値観では豊かな生活では
ないけれど、(エンゲル係数とは無縁)
それ以外の豊かさは、すべて揃っている生活。
おじいさんは、森や山や川や、動物のすべてをトリーに教え、
トリーは幼いながらも、そこから、大きななにかを、つかんでいきます
朝の森の中で、大きな歓声をあげながら、
おじいさんと新しい太陽が産まれた事を喜び、分かち合う。
生きる喜びに、満ちた生活。
おばあさんと、おじいさんが、
「I kin ya 」(ごめんスペル違うかも?)
・・と、伝え合うのも、印象的でした。
このkinは、「理解する・愛する」と、同意語。
「Ilove you 」
「I understand you 」
おばあさんの言葉では
「理解は、愛と同じものなの」
これには、深く感銘しました
相手を良く理解し、包む愛情。
おじいさんと、おばあさんは、長い人生の時間を、深い森の中で
ともに過ごして、見つめあい、助け合ってそれを培ったんだろうと。
なんて成熟した愛情だろう
そして、その成熟した愛情は、犬たちや、森の動物や、大自然への
愛情でもあったのでした。
「誰でもふたつの心を持っているんだよ。ひとつは体の心(bodymind)
体がちゃんと生き続けるように、働く心。
もうひとつは霊の心(spiritmind)。
体が死ぬ時には、bodymindも一緒に死んでしまう。
でも、spiritmindだけは、生き続ける。
そして、生まれ変わる。
けれど、生きてる間にヒッコリーの実みたいに、ちっぽけな霊の心しか
持ってなかったら、やっぱり生まれ変わってもヒッコリーの実の大きさの
心しか、持てない。
それで、体の心だけがのさばると、霊の心はますます縮んじゃって
しまいには、豆粒くらいになって、見えなくなっちゃうかもしれない。
もう霊(spirit)をなくしちゃったのと同じだよね。
そうなったら、生きてるくせに、死んでる人ってことになるの。
霊の心ってものはね。
ちょうど筋肉みたいで、使えば使うほど、大きく強くなっていくんだ。
どうやって使うかというと、ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。
体の心の言うままになって、欲深になったりしないこと。
そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。
努力すればするほど、理解は深くなっていくんだよ。
理解は、愛と同じものなの。」
けれども、ネイティブへの、白人の迫害は「教育制度」という形で
この本には、現れました。
小さなトリーは、教育のために、森を離れて、全寮制の学校へ。
辛い目にあいながらも、耐えるトリー。
森でしていたように、木に話しかけながら・・・
哀れなトリーを、見るに見かねたおじいさんが、取り返しに来るシーンは
涙なくしては、読めませんでした
その後、ストーリーは、転落するように・・・悲しいお話に。
「ラストオブモヒカン」のラストを思い出すような
このストーリーのエンドでした。
今、現在も先住民族の問題は、大きいようです。
エスキモー(「生肉を食べる人」という意味で、現在はイヌイット)
たちの暮らし・・・
その自殺率の高さ・・・・
私たち、北海道にも「アイヌ」という先住民族が。
なぜ、あるがままではいけなかったのだろう?
私たち、人間はほんとに愚かしい。
なぜ、介入してはいけないものを、そのままにしておけないのか・・・
自然を壊し、人間を追い詰めて、その果てに手に入れたいものは
なんなんだろう??
この本は、自然を愛する人、すべてに読んでみてほしい本です
時々、小さなトリーのように、私も木とお話してることが
あるのよ~~~
木々たちは、葉を落として、もうねむねむのご様子です
来年の春、目が覚めるまで、ゆっくり休んでね
新しい春が来たら、またお話しましょう
読んだあとに、あまりにも絶賛したために、もらってしまいました~~~
チェロキーインディアン(現在では、ネイティブアメリカンという)
の子供、トリーが、両親に死に別れた後、偉大な自然に抱かれながら
おじいさんと、おばあさんと暮らすというストーリーです。
その描写は、流れるような文体でもなく、淡々としたものだけれど
それがゆえに、また、美しいストーリー。
たくさんの信頼できる犬たち、語りかける木々、おじいさんと
おばあさんの教え・・・・
食べるものも、着るものも、そういう価値観では豊かな生活では
ないけれど、(エンゲル係数とは無縁)
それ以外の豊かさは、すべて揃っている生活。
おじいさんは、森や山や川や、動物のすべてをトリーに教え、
トリーは幼いながらも、そこから、大きななにかを、つかんでいきます
朝の森の中で、大きな歓声をあげながら、
おじいさんと新しい太陽が産まれた事を喜び、分かち合う。
生きる喜びに、満ちた生活。
おばあさんと、おじいさんが、
「I kin ya 」(ごめんスペル違うかも?)
・・と、伝え合うのも、印象的でした。
このkinは、「理解する・愛する」と、同意語。
「Ilove you 」
「I understand you 」
おばあさんの言葉では
「理解は、愛と同じものなの」
これには、深く感銘しました
相手を良く理解し、包む愛情。
おじいさんと、おばあさんは、長い人生の時間を、深い森の中で
ともに過ごして、見つめあい、助け合ってそれを培ったんだろうと。
なんて成熟した愛情だろう
そして、その成熟した愛情は、犬たちや、森の動物や、大自然への
愛情でもあったのでした。
「誰でもふたつの心を持っているんだよ。ひとつは体の心(bodymind)
体がちゃんと生き続けるように、働く心。
もうひとつは霊の心(spiritmind)。
体が死ぬ時には、bodymindも一緒に死んでしまう。
でも、spiritmindだけは、生き続ける。
そして、生まれ変わる。
けれど、生きてる間にヒッコリーの実みたいに、ちっぽけな霊の心しか
持ってなかったら、やっぱり生まれ変わってもヒッコリーの実の大きさの
心しか、持てない。
それで、体の心だけがのさばると、霊の心はますます縮んじゃって
しまいには、豆粒くらいになって、見えなくなっちゃうかもしれない。
もう霊(spirit)をなくしちゃったのと同じだよね。
そうなったら、生きてるくせに、死んでる人ってことになるの。
霊の心ってものはね。
ちょうど筋肉みたいで、使えば使うほど、大きく強くなっていくんだ。
どうやって使うかというと、ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。
体の心の言うままになって、欲深になったりしないこと。
そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。
努力すればするほど、理解は深くなっていくんだよ。
理解は、愛と同じものなの。」
けれども、ネイティブへの、白人の迫害は「教育制度」という形で
この本には、現れました。
小さなトリーは、教育のために、森を離れて、全寮制の学校へ。
辛い目にあいながらも、耐えるトリー。
森でしていたように、木に話しかけながら・・・
哀れなトリーを、見るに見かねたおじいさんが、取り返しに来るシーンは
涙なくしては、読めませんでした
その後、ストーリーは、転落するように・・・悲しいお話に。
「ラストオブモヒカン」のラストを思い出すような
このストーリーのエンドでした。
今、現在も先住民族の問題は、大きいようです。
エスキモー(「生肉を食べる人」という意味で、現在はイヌイット)
たちの暮らし・・・
その自殺率の高さ・・・・
私たち、北海道にも「アイヌ」という先住民族が。
なぜ、あるがままではいけなかったのだろう?
私たち、人間はほんとに愚かしい。
なぜ、介入してはいけないものを、そのままにしておけないのか・・・
自然を壊し、人間を追い詰めて、その果てに手に入れたいものは
なんなんだろう??
この本は、自然を愛する人、すべてに読んでみてほしい本です
時々、小さなトリーのように、私も木とお話してることが
あるのよ~~~
木々たちは、葉を落として、もうねむねむのご様子です
来年の春、目が覚めるまで、ゆっくり休んでね
新しい春が来たら、またお話しましょう