『ローカル・カラー/観察記録 犬は吠える』(早川書房) vol.1
【観察記録】(1959)
「アイザック・ディネーセン」
ひと目見れば、経歴を一切知らなくても、彼女が本物の人物だと分かる。
「私が死んだ後は、建物を鳥小屋にし、庭を公園にして、ここを小鳥の聖域にするつもりなの」
「私が小説を書き始めたのは、耐え難いことを忘れるため。戦時中もそうだった」
「お医者さんはどうしてそれで生きていられるんか分からないと言ったわ。
だけどそれは昔から知っていることなの。死が私の一番古い幼なじみですもの。
でも、どうしてこんなに体が弱いのかしら?」
客は帰る時、彼女のお気に入りの小説『アフリカの日々』をプレゼントされる。「これは真実の物語よ」
「私は答える カレン・ブリクセン」
「私は答える、美しいモットーでしょう。人間だれでも自分の中に答えを持っていると信じているからなのよ」
彼女自身の答えは、人生に対して「イエス」と言うことだった。
「メイ・ウェスト」
ある顔の広い若者がとんでもないティーパーティの計画を立てた。
メイ・ウェストを主賓に向かえ、デーム・イーディス・シットウエルをホステス役に招く。
夜の女王と、貴族の女流詩人というまったく別世界で有名な2人を見ようと、NYの人々は招待を願った。
デームが喉頭炎で出られないと電話がきて、客たちは騙されたかと不平を言い始めた。
7時、主賓が到着したが、それはミス・ウェストではなかった。
舞台の彼女の力業的性質、絶対的完璧さとは真逆で、保護領の外に連れ出された彼女はまったく無防備で、
長いつけまつ毛が触角のように震えていた。
熱心な若い娘が近づき「先週『ダイヤモンド・リル』を観ました。素晴らしかったわ」
「あら、そう? どこで観たの?」
「近代美術館で」
「で、いったいなんなのビジュツカンて?」
「ルイ・アームストロング」
きっとサッチのほうは忘れているだろう、彼は筆者の最初の友だちの1人だった。
1928年、4歳の時、ニューオリンズとセントルイス間を行き来する遊覧船で彼は演奏していた。
ニヤニヤ笑う仏陀が♪サニー・サイド・オヴ・ザ・ストリート をどなり始めながら、
トン!トン!と足で拍子をとる。サッチは私に優しくしてくれ、才能があるからヴォードヴィルに出るべきだと言ってくれた。
私に竹の杖とペパーミント色の飾りバンドのついたカンカン帽をくれた。
「淑女、紳士のみなさん、ただいまからアメリカの素晴らしい子どもの1人をお目にかけましょう。
彼のタップダンスをお楽しみください!」
私は客の間を回り、5セント玉、10セント玉を集めた。
10月になると、乗客は減り、遊覧船はおしまいになった。
私は彼が好きだった。今でも好きだ。
「ジャン・コクトーとアンドレ・ジッド」
道徳を説く不道徳家、誠実を愛し想像力を否定する作家アンドレ・ジッドは、コクトーをけして認めなかった。
アンドレの日記の抜粋。
「彼は相手と同じ悲しみをもって悲しみたいのだ。私は彼が立派な軍人になるだろうと思う」
筆者は2人の最後の出逢いをたまたま観察できた。
ジッド「静かにしてくれんか。君は目障りだぞ」
そのとおりだった。
ジャンは、17歳のアヘンを吸う天才児としてデビューして以来ずっとそうだった。
40年以上、この永遠の放浪児(ギヤマン)は、画家、デザイナー、小説家などに早変わりした。
もっとも有能だったのは仲介業者の時だ。他の人の思想と才能を世に出し宣伝する仕事である。
「ハンフリー・ボガート」
他人のヴォキャブラリーに注意深く耳を傾ければ、その人の性格の鍵となる言葉が繰り返し出てくることに気づく。
ボガートの場合、「ぐうたら(バム)」と「プロフェッショナル」だった。
NYの医師である父について「1万ドルの借金を残して死に、俺が返さなければならなかった。
女房子どもにちゃんと暮らしていけるだけのものを残さない奴なんて、ぐうたらだよ」
彼は理論を持たない俳優だった。
規律を守ることが芸術家として生き延びる道と心得ていたために長生きし、歴史に名を残した。
「エズラ・パウンド」
23歳の時、ジャガイモで飢えをしのぎながら処女詩集『消えはてた光にむかって』を出版。
それがイェーツとの熱い友情を結ばせた。
ヘミングウェーの証言。「パウンドは、自分の時間の1/5を詩作に捧げている。
残りの時間は、友人らの運命を物質的、芸術的に高める努力をしている」
彼の強い関心をひいていったのは経済学だった。そのために破滅へと導かれた。
ローマのラジオを通してファシスト的論説を放送しはじめ、アメリカの反逆者として告発された。
裁判の前夜、彼は狂人だと発表された。芸術家精神をもつあらゆる詩人そうであるように。
1958年、72歳になったパウンドは、自分が“不治の精神異常”だという宣告を聞いた。
そこで彼は発言した。「アメリカで生きていけるものはみんな精神異常だ」
そしてイタリアに行く準備をした。
「マリリン・モンロー」
モンロー? ただの白痴だ。だらしない女神だ。
実生活といわれるものにおいてザ・モンローはなかなか正体を見破られない。
事実、モンローと言われなければ分からないことがしばしばある。
その典型的な外見に関わらず、ザ・モンローはその種の女ではなく、そうなれるほどタフではない。
それどころか感受性を集中することのできる女だ。
彼女は精神においても、実際においても“孤児”である。
だれ一人信用せず、そのくせみんなを喜ばせようと農夫のように働く。
我々ひとり一人を愛情深い保護者にしたがる。
彼女の不安の深さは(約束の時間に1時間以上遅れて来るのは心配と不安のためで、虚栄心のためではない)
一も二もなく同情心を起こさせる。
ザ・モンローは1つの“公共物”であり“シンボル”だと聞かされてきた。
現在の夫アーサー・ミラーでさえそのような文章を書いている。
しかし、公共物は陰気なものになりがちで、シンボルはさらに生気のないものになりやすい。
もしこのイキイキとした愛すべき女が、そんなじめじめした言葉の牢獄を真面目に受け入れたら、
どんなに暗い日々が訪れることか。
「ジェイン・ボウルズ」(1966)
彼女は永遠のいたずらっ子のように見えるが、血管には血よりも冷たい物質が流れ、
その知恵は、どんな不思議な奇跡の子(ヴユンダーキント)ももったことのないエキセントリックな叡智だった。
ジェインは言葉の大家だ。それは、彼女の放浪癖の産物なのである。
いまでは永住するタンジール人と言っても間違いではないだろう。
ジェインについて私のもっとも嬉しい記憶は、1951年パリの冬、みすぼらしいホテルの隣り同士の部屋で過ごした1ヵ月だ。
何年か後に私は『エデンへの道の1つ』という短篇を書いたが、気づかないうちに、その女主人にジェインのいくつかの特徴を与えていた。
私は熱烈な演劇ファンではない。たいていの舞台は一度として最後まで観ていることができない。
でも『夏の別荘にて』は3度も観た。義理ではなく、鋭いウィットという新鮮なピリっとする味があったから。
書くことは簡単ではない。
誰も知らないかもしれないが、それはなにより難しい仕事だ。
悲劇的な見方が彼女のヴィジョンの核心にあるとはいえ、ジェインは一種のユーモリストだ。
「セシル・ビートン」(1969)
※逐語:翻訳・解釈などで、原文の一語一語の意義を忠実にたどること。逐字。
セシルは写真以外のいくつかの媒体における才能で名を残したいと思っているのではなかろうか。
過去20年間のもっとも優れた写真家たちの作品に与えた影響、彼ら認めようと認めまいと、
意識さえしていなかろうと、国籍を問わず、彼の恩恵を受けていないものはほとんど一人もいるまい。
カルティエ・ブレッソンを例外にして、ファッション雑誌や広告代理店まで仕事を広げずに
純粋に自分の専門だけで生計を立てている写真家を、私は即座に一人として思い出せない。
ビートンも、純粋に商業的や要素に規制されたおかげで興味深い写真のいくつかを生み出している。
だが、写真家という種族は、そのような仕事場での労働からはあまり満足を得ていないらしい。
ビートンは別だ。彼は立派な職人で、見栄を張る男ではないので、
どんな形であれ自分の作品が生かされれば有り難いと思うのだ。
ビートンが“時間の連続場面(タイムシークエンス)”と呼ぶ一連の作品。
その主題は彼が40年にもわたって撮る機会のあったピカソである。
ビートンの優れた多彩な業績の1つは“戦争写真集”だ。
ビートンが戦時中従軍したインドと中国の写真についても言える。
専門的写真家は、必然的に専門的旅行者だ。
編集者は委託料を与えて彼らをジェット機に急がせ、世界中を飛び回ってなにかへの追求の旅へと急がせる。
どんなに才能の貧しい者もこうした援助を受けている。
セシルは常にハッキリとした意志をもつ放浪者だった。
我々は時々、共同作業をした。彼の写真に私の文章を添えるという形で。
それぞれの写真家の仕事ぶりのなんと違うことか!
アヴェンドンはなによりもまずスタジオ写真家だ。
彼は完全に機能する機械と助手に囲まれている時、もっとも創造的くつろぎの状態にあるように見える。
私は彼とアメリカ中西部で仕事をした。
午前中のすべてを奴隷のように働き、暑さと埃の中を何マイルも車を走らせた。
モーテルに戻った時、アヴェドンは突然われわれの労働が無駄だったと発表した。
助手なしで仕事をするのは久しぶりだったため、その日本製カメラにフィルムを入れ忘れたのだった。
カルティエも同じ穴のムジナだ。失敗を自給自足するのである。
神経質で、陽気で、身も心も献じて、芸術的“孤独者”で、ややファナティックだ。
「白昼の亡霊たち――『冷血』の映画化」(1967)
私が初めてペリー・スミスと話し合ったのは、1960年のはじめだった。
彼はよそよそしく、疑い深かったが、
「映画を書いたことはねえのかい?」
「あるよ、一度だけ。『悪魔をやっつけろ』だ」
「ああ、覚えてるぜ。ハンフリー・ボガートが出ていたから観たんだ。
大好きな俳優だよ。『黄金』を何回も繰り返し観たな。理由の1つは、気違いじみた金鉱捜しの役で
ウォルター・ヒューストンが出てたろ? あいつが俺のおやじに似てたんだ。
テックス・スミスに。ソックリだったよ、まいったねえ」
ペリーは、自分が逮捕された時「あそこにシネマの連中が来ていたかい?」と聞いた。
人に“認められる”ことを喜ぶ虚栄心を隠して誤魔化そうとした。
その事件の映画を撮っていることに苦笑するTC。
私が二度と繰り返したくない経験だった。
ペリーを演じる役者を見た時、亡霊が彷徨い出てきたと思った。彼はペリーだった。
TCはホテルに戻り医者に注射を打ってもらったが、障害は精神にある、と日記に記す。
あらゆる芸術は、選択されたディテールから構成されている。
私の本が出版されるとすぐ、多くの監督らが映画化を希望した。
TCはリチャード・ブルックスに仲介役をしてほしいと決めていた。
モノクロ映画にすることと、無名のキャストを使うことを希望。
各シーンをすべて現場で撮影すること。
アシスタントは、運び出されていた家具を苦労して取り戻した。
このようにして現実は、1つの物体を通して、芸術へと広がっていく。
殺害シーンでは強力な懐中電灯を使った。ふつう懐中電灯は、記録できるほどの光を作り出せないため。
どんな監督も作家が後ろから見つめていることには我慢できないものだ。TCはスタッフに任せて去る。
1959年。私がそこに着いた時、私は誰一人知らなかったし、数人以外は誰一人私の名前を聞いてなかった。
地方紙の編集長は“我々は悲劇を忘れたい、ところがこのNYの作家は忘れさせまいとしている”という思いから挑戦的態度で、
撮影反対のキャンペーンもしたが、西カンザスの人々は協力的だった。
ブルックスは非常に秘密主義な男だ。台本を一人で抱え、フィルムも他人には一切見せないまま、TCと試写室に入る。
「この映画にかかってからいろいろ辛い時もあったが、今日が一番辛い」
映画には本に使った「対位法的技法」が使われていた。
途中でフィルムが燃えるアクシデントがある
映画が終わるとTCは再び自分がどこにいるのか分からなくなり、やっとブルックスを認めると、言った。
「それはそうと、ありがとう」
「自画像」(1972)(問と答のインタビュー方式だけど、自問自答?
Q:1つの場所に住まなければならないとしたら?
A:寒気がする考えだ。ほんとうに選ばなければいけないなら、きっとNYだろうね。
NYなら多様な人間になれます。10種類の人間になって、10組の友人を持って、重なり合わずに済むのです。
Q:人より動物が好き?
A:どちらも同じくらい好き。人より動物のほうに温かい気持ちをもつ人にはひそかな残酷さがあると思う。
Q:友だちに求める資格は?
A:頭が鈍ければダメです。友だちになれるかどうかは、会った途端に分かります。
Q:暇をつぶすには何が一番。
A:私は読書が好き。初期のサリンジャーとか、、、( この2人どこか似てるのに名前が出てこないのがフシギだと思ってた
映画も大好きです。途中で出ることもしょっちゅうですが。一人で、空いている昼間にかぎる。
どんな女性でも私はなかなか満点をつけません。
エリザベス・テーラーについて「神経過敏、自力で学んだ、タフだが本質的には無邪気~男と寝たら結婚しなきゃならない~を見せる女」て!
私は社交的だと思われているが、一人でいるのが好き。一度だけ精神分析医に診てもらったことがある。
Q:一番恐れるものは?
A:死ではない。苦しむのは嫌だが。ある晩眠って目を覚まさないというなら別。
1966年に自動車事故で危うく死ぬところだった。
その後、がんの手術を受けたこともある。
永遠に生きたいと思う人なんていますか? それは馬鹿げた考えです。人生の飽和点というものがある。
そこに達するとすべて苦労だけになり、完全な繰り返しになるような点が。
お金について。私は俗物ではないと言ってるのではない。ただ貧乏を恐れない。
1点だけ、愛情の裏切りは今でも外傷のように私の心を傷つける。
Q:あなたにショックを与えるものは?
A:子どもを殴る人、動物をいじめる人、、、
Q:『冷血』後の活動は?
A:ドキュメンタリーフィルム『死の市街USA』はABCの依頼で作ったのにアメリカでは放映されていない。
『冷血』を書くのに5年、そこから回復するのに1年かかった。今でもあの体験のシーンが心に影を落とさない日は1日とてない。
今は『叶えられた祈り』にとりかかっている。
だが文学とは、それ自身の生命をもち、自身のリズムで踊ることを主張する。
Q:作家でなかったら、何をしていた?
A:最高裁判事らから“君は法廷弁護士になれる”と言われた。
Q:もし忘れ難い人という文章を依頼されたら誰を書く?
A:アメリカの詩人ロバート・フロスト。彼は私の最初で最後のサラリーマンの仕事をクビにし、恩恵を与えた。
それで私は『遠い声 遠い部屋』を書いたから。
10歳になるまで、私はアラバマの田舎で親類にあたる独身のお婆さんミス・スーク・フォークと暮らした。
それは『クリスマスの思い出』『感謝祭の客』に書いた。
私は女優、男優がそう好きではない。
もっとも無口な者がもっとも才能に恵まれている。
ボブ・ディランについても語ってる/驚
ボブは、純情な、革命的だが、センチメンタルなヒルビリーを装う、すれっからしの音楽的詐欺師だ(w
Q:一番希望に満ちた言葉は?
A:愛
Q:政治的関心は?
A:私はロナルド・レーガンが好きです。私がよく知っていた2人の政治家はケネディ大統領とその弟ロバート。
政治には何の関心もない。投票したこともない。
Q:変身できるなら何になりたい?
A:透明人間。
Q:あなたの悪徳は? 美徳は?
A:私は悪徳など持っていません。主な美徳は感謝の念でしょう。
Q:あなたの答えには矛盾があるように思われます。
A:首尾一貫して、矛盾しないような人の頭はビスケットでできているのです。
Q:死ぬ直前に、人生の大事なシーンが心をよぎるそうですが、どんなイメージがよぎると思いますか?
A:まずアラバマの暑い1日(子どもの頃の思い出)、、、
10年後、一番好きなアメリカの歌手、ミス・ビリー・ホリデー。「おはよう、頭痛さん、また来たのね・・・」
地中海。私がよく知っている人が「さようなら」と言った。
黒い乱れ髪の若者。20分後、彼はロープの先にぶらさがって死にました。
もう一度、あの小川です。しなやかな死の死者、白い毒蛇モカシン。だが私は恐れはしません。恐れるものですか。
(TCはその時噛まれた
【観察者としてのカポーティ/川本三郎 内容抜粋メモ】
カポーティほど作品と作家本人の公的イメージがかけはなれてしまった作家はいない。
公的イメージは「タイニーテラー(小さな厄介者)」と呼ばれたスキャンダラスな有名人だ。
孤独な少年(作品)とノイジーな道化(作家)。この極端な差がカポーティ文学を複雑で分かりにくいものにしている。
「私はアル中だ。私はヤク中だ。私はホモセクシュアルだ。私は天才だ」
「私の中には2人の人間がいるようだ。1人は非常に知的で想像力豊かな大人、もう1人は14歳の子どもだ」
彼はジャーナリストとして都市や人物を描写する。
本書は、そうした観察者に徹した姿勢がうかがえる。
それがあったからこそ、ノンフィクションノヴェル『冷血』が書けたのだ。
本書が出版されたのは1973年だが、文章はそれよりずっと以前に書かれている。
(私が借りた初版は昭和63年、1988年
1959年に出版された時の『観察日記』は、カメラマンのリチャード・アヴェドンとの共著で、
アヴェドンの写真に、カポーティの文章が添えられた写文集だった(だから短いのか
すべて“年のいった芸術家”であるところが特色。
1959年に出版された時には、ココ・シャネル、チャップリン、ピカソなどもあったが、再録時に割愛された(読みたかった!
「アイザック・ディネーセン」は映画『愛と哀しみの果て』の原作者として知られる(驚
カポーティは、明るさ、温かさの裏に隠された腐敗、退廃、虚無、失意に視線を向ける。
そこには「孤児」「南部出身」「ホモセクシュアル」という独得の負性を背負ったデカダンス感覚がある。
彼は、孤独、苦悩という普通の人なら負性になるものこそ、芸術家の条件だと考え続けた(同感
*
また1冊読み終えてしまったよ、カポーティさん。
【観察記録】(1959)
「アイザック・ディネーセン」
ひと目見れば、経歴を一切知らなくても、彼女が本物の人物だと分かる。
「私が死んだ後は、建物を鳥小屋にし、庭を公園にして、ここを小鳥の聖域にするつもりなの」
「私が小説を書き始めたのは、耐え難いことを忘れるため。戦時中もそうだった」
「お医者さんはどうしてそれで生きていられるんか分からないと言ったわ。
だけどそれは昔から知っていることなの。死が私の一番古い幼なじみですもの。
でも、どうしてこんなに体が弱いのかしら?」
客は帰る時、彼女のお気に入りの小説『アフリカの日々』をプレゼントされる。「これは真実の物語よ」
「私は答える カレン・ブリクセン」
「私は答える、美しいモットーでしょう。人間だれでも自分の中に答えを持っていると信じているからなのよ」
彼女自身の答えは、人生に対して「イエス」と言うことだった。
「メイ・ウェスト」
ある顔の広い若者がとんでもないティーパーティの計画を立てた。
メイ・ウェストを主賓に向かえ、デーム・イーディス・シットウエルをホステス役に招く。
夜の女王と、貴族の女流詩人というまったく別世界で有名な2人を見ようと、NYの人々は招待を願った。
デームが喉頭炎で出られないと電話がきて、客たちは騙されたかと不平を言い始めた。
7時、主賓が到着したが、それはミス・ウェストではなかった。
舞台の彼女の力業的性質、絶対的完璧さとは真逆で、保護領の外に連れ出された彼女はまったく無防備で、
長いつけまつ毛が触角のように震えていた。
熱心な若い娘が近づき「先週『ダイヤモンド・リル』を観ました。素晴らしかったわ」
「あら、そう? どこで観たの?」
「近代美術館で」
「で、いったいなんなのビジュツカンて?」
「ルイ・アームストロング」
きっとサッチのほうは忘れているだろう、彼は筆者の最初の友だちの1人だった。
1928年、4歳の時、ニューオリンズとセントルイス間を行き来する遊覧船で彼は演奏していた。
ニヤニヤ笑う仏陀が♪サニー・サイド・オヴ・ザ・ストリート をどなり始めながら、
トン!トン!と足で拍子をとる。サッチは私に優しくしてくれ、才能があるからヴォードヴィルに出るべきだと言ってくれた。
私に竹の杖とペパーミント色の飾りバンドのついたカンカン帽をくれた。
「淑女、紳士のみなさん、ただいまからアメリカの素晴らしい子どもの1人をお目にかけましょう。
彼のタップダンスをお楽しみください!」
私は客の間を回り、5セント玉、10セント玉を集めた。
10月になると、乗客は減り、遊覧船はおしまいになった。
私は彼が好きだった。今でも好きだ。
「ジャン・コクトーとアンドレ・ジッド」
道徳を説く不道徳家、誠実を愛し想像力を否定する作家アンドレ・ジッドは、コクトーをけして認めなかった。
アンドレの日記の抜粋。
「彼は相手と同じ悲しみをもって悲しみたいのだ。私は彼が立派な軍人になるだろうと思う」
筆者は2人の最後の出逢いをたまたま観察できた。
ジッド「静かにしてくれんか。君は目障りだぞ」
そのとおりだった。
ジャンは、17歳のアヘンを吸う天才児としてデビューして以来ずっとそうだった。
40年以上、この永遠の放浪児(ギヤマン)は、画家、デザイナー、小説家などに早変わりした。
もっとも有能だったのは仲介業者の時だ。他の人の思想と才能を世に出し宣伝する仕事である。
「ハンフリー・ボガート」
他人のヴォキャブラリーに注意深く耳を傾ければ、その人の性格の鍵となる言葉が繰り返し出てくることに気づく。
ボガートの場合、「ぐうたら(バム)」と「プロフェッショナル」だった。
NYの医師である父について「1万ドルの借金を残して死に、俺が返さなければならなかった。
女房子どもにちゃんと暮らしていけるだけのものを残さない奴なんて、ぐうたらだよ」
彼は理論を持たない俳優だった。
規律を守ることが芸術家として生き延びる道と心得ていたために長生きし、歴史に名を残した。
「エズラ・パウンド」
23歳の時、ジャガイモで飢えをしのぎながら処女詩集『消えはてた光にむかって』を出版。
それがイェーツとの熱い友情を結ばせた。
ヘミングウェーの証言。「パウンドは、自分の時間の1/5を詩作に捧げている。
残りの時間は、友人らの運命を物質的、芸術的に高める努力をしている」
彼の強い関心をひいていったのは経済学だった。そのために破滅へと導かれた。
ローマのラジオを通してファシスト的論説を放送しはじめ、アメリカの反逆者として告発された。
裁判の前夜、彼は狂人だと発表された。芸術家精神をもつあらゆる詩人そうであるように。
1958年、72歳になったパウンドは、自分が“不治の精神異常”だという宣告を聞いた。
そこで彼は発言した。「アメリカで生きていけるものはみんな精神異常だ」
そしてイタリアに行く準備をした。
「マリリン・モンロー」
モンロー? ただの白痴だ。だらしない女神だ。
実生活といわれるものにおいてザ・モンローはなかなか正体を見破られない。
事実、モンローと言われなければ分からないことがしばしばある。
その典型的な外見に関わらず、ザ・モンローはその種の女ではなく、そうなれるほどタフではない。
それどころか感受性を集中することのできる女だ。
彼女は精神においても、実際においても“孤児”である。
だれ一人信用せず、そのくせみんなを喜ばせようと農夫のように働く。
我々ひとり一人を愛情深い保護者にしたがる。
彼女の不安の深さは(約束の時間に1時間以上遅れて来るのは心配と不安のためで、虚栄心のためではない)
一も二もなく同情心を起こさせる。
ザ・モンローは1つの“公共物”であり“シンボル”だと聞かされてきた。
現在の夫アーサー・ミラーでさえそのような文章を書いている。
しかし、公共物は陰気なものになりがちで、シンボルはさらに生気のないものになりやすい。
もしこのイキイキとした愛すべき女が、そんなじめじめした言葉の牢獄を真面目に受け入れたら、
どんなに暗い日々が訪れることか。
「ジェイン・ボウルズ」(1966)
彼女は永遠のいたずらっ子のように見えるが、血管には血よりも冷たい物質が流れ、
その知恵は、どんな不思議な奇跡の子(ヴユンダーキント)ももったことのないエキセントリックな叡智だった。
ジェインは言葉の大家だ。それは、彼女の放浪癖の産物なのである。
いまでは永住するタンジール人と言っても間違いではないだろう。
ジェインについて私のもっとも嬉しい記憶は、1951年パリの冬、みすぼらしいホテルの隣り同士の部屋で過ごした1ヵ月だ。
何年か後に私は『エデンへの道の1つ』という短篇を書いたが、気づかないうちに、その女主人にジェインのいくつかの特徴を与えていた。
私は熱烈な演劇ファンではない。たいていの舞台は一度として最後まで観ていることができない。
でも『夏の別荘にて』は3度も観た。義理ではなく、鋭いウィットという新鮮なピリっとする味があったから。
書くことは簡単ではない。
誰も知らないかもしれないが、それはなにより難しい仕事だ。
悲劇的な見方が彼女のヴィジョンの核心にあるとはいえ、ジェインは一種のユーモリストだ。
「セシル・ビートン」(1969)
※逐語:翻訳・解釈などで、原文の一語一語の意義を忠実にたどること。逐字。
セシルは写真以外のいくつかの媒体における才能で名を残したいと思っているのではなかろうか。
過去20年間のもっとも優れた写真家たちの作品に与えた影響、彼ら認めようと認めまいと、
意識さえしていなかろうと、国籍を問わず、彼の恩恵を受けていないものはほとんど一人もいるまい。
カルティエ・ブレッソンを例外にして、ファッション雑誌や広告代理店まで仕事を広げずに
純粋に自分の専門だけで生計を立てている写真家を、私は即座に一人として思い出せない。
ビートンも、純粋に商業的や要素に規制されたおかげで興味深い写真のいくつかを生み出している。
だが、写真家という種族は、そのような仕事場での労働からはあまり満足を得ていないらしい。
ビートンは別だ。彼は立派な職人で、見栄を張る男ではないので、
どんな形であれ自分の作品が生かされれば有り難いと思うのだ。
ビートンが“時間の連続場面(タイムシークエンス)”と呼ぶ一連の作品。
その主題は彼が40年にもわたって撮る機会のあったピカソである。
ビートンの優れた多彩な業績の1つは“戦争写真集”だ。
ビートンが戦時中従軍したインドと中国の写真についても言える。
専門的写真家は、必然的に専門的旅行者だ。
編集者は委託料を与えて彼らをジェット機に急がせ、世界中を飛び回ってなにかへの追求の旅へと急がせる。
どんなに才能の貧しい者もこうした援助を受けている。
セシルは常にハッキリとした意志をもつ放浪者だった。
我々は時々、共同作業をした。彼の写真に私の文章を添えるという形で。
それぞれの写真家の仕事ぶりのなんと違うことか!
アヴェンドンはなによりもまずスタジオ写真家だ。
彼は完全に機能する機械と助手に囲まれている時、もっとも創造的くつろぎの状態にあるように見える。
私は彼とアメリカ中西部で仕事をした。
午前中のすべてを奴隷のように働き、暑さと埃の中を何マイルも車を走らせた。
モーテルに戻った時、アヴェドンは突然われわれの労働が無駄だったと発表した。
助手なしで仕事をするのは久しぶりだったため、その日本製カメラにフィルムを入れ忘れたのだった。
カルティエも同じ穴のムジナだ。失敗を自給自足するのである。
神経質で、陽気で、身も心も献じて、芸術的“孤独者”で、ややファナティックだ。
「白昼の亡霊たち――『冷血』の映画化」(1967)
私が初めてペリー・スミスと話し合ったのは、1960年のはじめだった。
彼はよそよそしく、疑い深かったが、
「映画を書いたことはねえのかい?」
「あるよ、一度だけ。『悪魔をやっつけろ』だ」
「ああ、覚えてるぜ。ハンフリー・ボガートが出ていたから観たんだ。
大好きな俳優だよ。『黄金』を何回も繰り返し観たな。理由の1つは、気違いじみた金鉱捜しの役で
ウォルター・ヒューストンが出てたろ? あいつが俺のおやじに似てたんだ。
テックス・スミスに。ソックリだったよ、まいったねえ」
ペリーは、自分が逮捕された時「あそこにシネマの連中が来ていたかい?」と聞いた。
人に“認められる”ことを喜ぶ虚栄心を隠して誤魔化そうとした。
その事件の映画を撮っていることに苦笑するTC。
私が二度と繰り返したくない経験だった。
ペリーを演じる役者を見た時、亡霊が彷徨い出てきたと思った。彼はペリーだった。
TCはホテルに戻り医者に注射を打ってもらったが、障害は精神にある、と日記に記す。
あらゆる芸術は、選択されたディテールから構成されている。
私の本が出版されるとすぐ、多くの監督らが映画化を希望した。
TCはリチャード・ブルックスに仲介役をしてほしいと決めていた。
モノクロ映画にすることと、無名のキャストを使うことを希望。
各シーンをすべて現場で撮影すること。
アシスタントは、運び出されていた家具を苦労して取り戻した。
このようにして現実は、1つの物体を通して、芸術へと広がっていく。
殺害シーンでは強力な懐中電灯を使った。ふつう懐中電灯は、記録できるほどの光を作り出せないため。
どんな監督も作家が後ろから見つめていることには我慢できないものだ。TCはスタッフに任せて去る。
1959年。私がそこに着いた時、私は誰一人知らなかったし、数人以外は誰一人私の名前を聞いてなかった。
地方紙の編集長は“我々は悲劇を忘れたい、ところがこのNYの作家は忘れさせまいとしている”という思いから挑戦的態度で、
撮影反対のキャンペーンもしたが、西カンザスの人々は協力的だった。
ブルックスは非常に秘密主義な男だ。台本を一人で抱え、フィルムも他人には一切見せないまま、TCと試写室に入る。
「この映画にかかってからいろいろ辛い時もあったが、今日が一番辛い」
映画には本に使った「対位法的技法」が使われていた。
途中でフィルムが燃えるアクシデントがある
映画が終わるとTCは再び自分がどこにいるのか分からなくなり、やっとブルックスを認めると、言った。
「それはそうと、ありがとう」
「自画像」(1972)(問と答のインタビュー方式だけど、自問自答?
Q:1つの場所に住まなければならないとしたら?
A:寒気がする考えだ。ほんとうに選ばなければいけないなら、きっとNYだろうね。
NYなら多様な人間になれます。10種類の人間になって、10組の友人を持って、重なり合わずに済むのです。
Q:人より動物が好き?
A:どちらも同じくらい好き。人より動物のほうに温かい気持ちをもつ人にはひそかな残酷さがあると思う。
Q:友だちに求める資格は?
A:頭が鈍ければダメです。友だちになれるかどうかは、会った途端に分かります。
Q:暇をつぶすには何が一番。
A:私は読書が好き。初期のサリンジャーとか、、、( この2人どこか似てるのに名前が出てこないのがフシギだと思ってた
映画も大好きです。途中で出ることもしょっちゅうですが。一人で、空いている昼間にかぎる。
どんな女性でも私はなかなか満点をつけません。
エリザベス・テーラーについて「神経過敏、自力で学んだ、タフだが本質的には無邪気~男と寝たら結婚しなきゃならない~を見せる女」て!
私は社交的だと思われているが、一人でいるのが好き。一度だけ精神分析医に診てもらったことがある。
Q:一番恐れるものは?
A:死ではない。苦しむのは嫌だが。ある晩眠って目を覚まさないというなら別。
1966年に自動車事故で危うく死ぬところだった。
その後、がんの手術を受けたこともある。
永遠に生きたいと思う人なんていますか? それは馬鹿げた考えです。人生の飽和点というものがある。
そこに達するとすべて苦労だけになり、完全な繰り返しになるような点が。
お金について。私は俗物ではないと言ってるのではない。ただ貧乏を恐れない。
1点だけ、愛情の裏切りは今でも外傷のように私の心を傷つける。
Q:あなたにショックを与えるものは?
A:子どもを殴る人、動物をいじめる人、、、
Q:『冷血』後の活動は?
A:ドキュメンタリーフィルム『死の市街USA』はABCの依頼で作ったのにアメリカでは放映されていない。
『冷血』を書くのに5年、そこから回復するのに1年かかった。今でもあの体験のシーンが心に影を落とさない日は1日とてない。
今は『叶えられた祈り』にとりかかっている。
だが文学とは、それ自身の生命をもち、自身のリズムで踊ることを主張する。
Q:作家でなかったら、何をしていた?
A:最高裁判事らから“君は法廷弁護士になれる”と言われた。
Q:もし忘れ難い人という文章を依頼されたら誰を書く?
A:アメリカの詩人ロバート・フロスト。彼は私の最初で最後のサラリーマンの仕事をクビにし、恩恵を与えた。
それで私は『遠い声 遠い部屋』を書いたから。
10歳になるまで、私はアラバマの田舎で親類にあたる独身のお婆さんミス・スーク・フォークと暮らした。
それは『クリスマスの思い出』『感謝祭の客』に書いた。
私は女優、男優がそう好きではない。
もっとも無口な者がもっとも才能に恵まれている。
ボブ・ディランについても語ってる/驚
ボブは、純情な、革命的だが、センチメンタルなヒルビリーを装う、すれっからしの音楽的詐欺師だ(w
Q:一番希望に満ちた言葉は?
A:愛
Q:政治的関心は?
A:私はロナルド・レーガンが好きです。私がよく知っていた2人の政治家はケネディ大統領とその弟ロバート。
政治には何の関心もない。投票したこともない。
Q:変身できるなら何になりたい?
A:透明人間。
Q:あなたの悪徳は? 美徳は?
A:私は悪徳など持っていません。主な美徳は感謝の念でしょう。
Q:あなたの答えには矛盾があるように思われます。
A:首尾一貫して、矛盾しないような人の頭はビスケットでできているのです。
Q:死ぬ直前に、人生の大事なシーンが心をよぎるそうですが、どんなイメージがよぎると思いますか?
A:まずアラバマの暑い1日(子どもの頃の思い出)、、、
10年後、一番好きなアメリカの歌手、ミス・ビリー・ホリデー。「おはよう、頭痛さん、また来たのね・・・」
地中海。私がよく知っている人が「さようなら」と言った。
黒い乱れ髪の若者。20分後、彼はロープの先にぶらさがって死にました。
もう一度、あの小川です。しなやかな死の死者、白い毒蛇モカシン。だが私は恐れはしません。恐れるものですか。
(TCはその時噛まれた
【観察者としてのカポーティ/川本三郎 内容抜粋メモ】
カポーティほど作品と作家本人の公的イメージがかけはなれてしまった作家はいない。
公的イメージは「タイニーテラー(小さな厄介者)」と呼ばれたスキャンダラスな有名人だ。
孤独な少年(作品)とノイジーな道化(作家)。この極端な差がカポーティ文学を複雑で分かりにくいものにしている。
「私はアル中だ。私はヤク中だ。私はホモセクシュアルだ。私は天才だ」
「私の中には2人の人間がいるようだ。1人は非常に知的で想像力豊かな大人、もう1人は14歳の子どもだ」
彼はジャーナリストとして都市や人物を描写する。
本書は、そうした観察者に徹した姿勢がうかがえる。
それがあったからこそ、ノンフィクションノヴェル『冷血』が書けたのだ。
本書が出版されたのは1973年だが、文章はそれよりずっと以前に書かれている。
(私が借りた初版は昭和63年、1988年
1959年に出版された時の『観察日記』は、カメラマンのリチャード・アヴェドンとの共著で、
アヴェドンの写真に、カポーティの文章が添えられた写文集だった(だから短いのか
すべて“年のいった芸術家”であるところが特色。
1959年に出版された時には、ココ・シャネル、チャップリン、ピカソなどもあったが、再録時に割愛された(読みたかった!
「アイザック・ディネーセン」は映画『愛と哀しみの果て』の原作者として知られる(驚
カポーティは、明るさ、温かさの裏に隠された腐敗、退廃、虚無、失意に視線を向ける。
そこには「孤児」「南部出身」「ホモセクシュアル」という独得の負性を背負ったデカダンス感覚がある。
彼は、孤独、苦悩という普通の人なら負性になるものこそ、芸術家の条件だと考え続けた(同感
*
また1冊読み終えてしまったよ、カポーティさん。