メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

先人たちの底力 知恵泉 「宮沢賢治“好き”こそ苦しみと生きる道」

2018-09-01 14:24:43 | 
【ゲスト】
精神科医、筑波大学教授…斎藤環,増田英彦,大東文化大学教授、文芸評論家…千葉一幹

【司会】二宮直輝
【声】三木眞一郎,佐々木日菜子






予録のまとめ見シリーズ

知っている賢治の姿と、ゲストの掘り下げる意見を聞くと
意外な側面も見えてきて、また深く知ることが出来た番組だった


「作家別」カテゴリー内「宮沢賢治」に追加します


【内容抜粋メモ】

賢治の短い生涯、37年間は、自分はどう生きるべきか葛藤した日々だった
家業の質屋は、貧しい人たちからの搾取ではないかと疑問に思った少年時代

そんな家業は継ぎたくないと、24歳の時、東京に家出
しかしわずか半年で戻ってきた

農村を豊かにしたいと、西洋の花や野菜作りに挑戦したが、周囲には理解されず
現実社会に矛盾を感じ、行動を起こしても空回りするばかり

自分の無力さに悩み苦しんだ賢治が取り組んだのが詩や童話など文学の創作
社会や自分自身を見つめ、言葉で表現することが
前を向いて生きる力を与えてくれる唯一の手段だった


「社会的ひきこもり」
精神科医の斎藤環さんは、自分の居場所を見出せずに苦しむ多くの若者たちに向き合ってきた
「社会的ひきこもり」の存在にいち早く気づき、その深い悩みを社会に発信
苦しみの中で文学を生み出した賢治の生き方が、現代の若者たちにもヒントになるのではないかと考えている

斉藤さん:
「創造的なひきこもり」「クリエイティブなひきこもり」を肯定するというベクトルも温存しておきたい

アナ:斉藤先生から見て、宮沢賢治とはどういう人物だと思われますか?

斉藤さん:
すごく変わった人だという感じがあります
ひきこもったわけではないですけど、ひきこもり的なところがあった

「コミュニケーション力」が高くない
ちょっと変わった考え方をしてみたり、空気が読めなかったり
今僕が会っているひきこもりの若者と共通するところがあるという親近感をずっと持っています



【今日のコース】

「好きこそ 苦しみと生きる道」

増田英彦(ますだおかだ):
僕は、小さい頃から漫才師になりたくて でも、1回サラリーマンをやっている
どうせ苦労するんだったら、好きなことでしんどい思いをしようと思って漫才師のほうを選んだ
でも、好きなほうを選んでしまうと、妥協できないし、より苦しい


【コースメニュー】

1.出口の見えない不安から抜け出すには
2.うまくいかない現実と闘うには
3.大事な人の喪失と向き合うには


1.出口の見えない不安から抜け出すには
賢治は給料が出た時、「一杯やろう」と同僚と飲むのはサイダーだったそう
(賢治サイダー飲みたい!て思ったけど、これは演出で瓶に名前を書いただけか?


【1896年 岩手県花巻市に生まれる】
その年、岩手県は、洪水や地震など、自然災害の多い年で、
賢治が生まれる2ヶ月前には、三陸海岸を襲った大津波で2万人もの人が亡くなった

さらに人々を苦しめたのは、農作物の不作
賢治が9歳の時には冷害で大凶作となり、
1905年(明治38年)娘の身売りが横行 餓死者まで出たという


大きな質屋と古着商を営んでいた父との葛藤
そうした東北の地方都市の質屋と古着商を営んでいた、真面目で厳格だった父・政次郎は
開通したばかりの汽車に乗り、遠く関西や四国まで出向いて、
古着などの買い付けをして店を大きく発展させた

5人兄弟の長男として何不自由なく恵まれた環境で育った賢治は
小学校4年の時の作文にこう書いている

「私は、お父さんの後を継いで、立派な質屋の商人になります」

幼少期の賢治は親の期待に応えようとする大人びた子どもだった


【1909年(明治42年)盛岡中学校に入学】
初めて家を離れて寮生活をすることになった賢治

父に伴われ、寮を監督する舎監たちに初めて挨拶した時、賢治に転機となることが起こった
父が舎監の前で銀製の懐中時計のネジを巻いたところ、
一人の舎監が馬鹿にするような笑い声を上げたという

後に賢治は、その時のことを詩にした

「父よ 父よ などて舎監の前にして かのとき銀の時計を捲きし」

父に対して、どうしてあの時、時計を見せびらかすようなことをしたのかと非難した


大東文化大学教授・千葉さん:
笑ったその舎監は、富の象徴を持っている人への羨みの思いと同時に
成金趣味に対する軽蔑の意識の表れもあった
賢治はその両方を感じとったと思う


成長とともに社会の仕組みを知り、質屋や古着商という生業に疑いを持つようになった賢治は、
後年、家業に対する思いを次のように語った

「零細な生活者である階級の人たちを相手に、
 その利息などで一家が生きてゆくなどという家を継ぎたくない」


しかし、中学校を卒業すれば、長男として家を継ぐことは定められた道
そのことに悩む賢治は、次第に学業に身が入らなくなっていった


旧友にこんな姿が目撃されている
教科書を前に立て、授業そっちのけで、机に岩手山を彫っていた
反抗的な態度も目立つようになった


宮沢賢治の知恵その1:短歌で孤独な自分を見つめる
将来に希望が持てず無気力になっていた中学生の賢治
この頃同じ盛岡中学の卒業生だった石川啄木の影響もあり「短歌」に取り組み始める
短歌は賢治にとって文学の出発点となるものだった

賢治は日々目に飛び込んでくる周囲の自然を心に刻み、日記をつけるように短歌を作っていった
そこに歌われたのは、見たものそのままではなく、
賢治の孤独で不安な心情が映しこまれた景色だった

「西ぞらのきんの一つ目 うらめしく われをながめてつとしづむなり」

「うしろよりにらむものあり うしろよりわれをにらむ 青きものあり」


千葉さん:
何か悪いことしたか分からないけれども睨まれている
これはやっぱり賢治の「原罪意識」(自分がこの世にいることが悪ではないかという意識)
この世に生まれてきたことそのものに負い目を持たねばならないのではないか
という意識が短歌にも表れている

「褐色のひとみの奥に何やらん 悪しきをひそめて われを見る牛」

短歌で自分を見つめる何者かをうたう日々



盛岡高等農林に首席で合格
やがて中学の卒業が近づくと賢治は変わる
学業に対する無気力さがなくなり、高校へ進学したいと主張するようになった
父から進学を許されると、1915年(大正4年)賢治28歳 盛岡高等農林に首席で合格

友人もでき、文芸同人誌作りに夢中になるなど、
しばし家業の跡継ぎになるなどの宿命を遠ざけることができた


増田:ネガティブな気持ちですよね 決して楽しそうな短歌作りではなさそう

宮沢賢治文学の専門家・千葉さん:
特に中学校時代っていうのは、発表しないで、本当に日記みたいな感じだった

アナ:賢治の短歌の特徴は?

千葉:
後ろから見られるとか「受け身性」というのが賢治の特徴
作品を作る場合、普通、自己主張するのが中心だと思いますが
「睨まれている」とか「見られてる」とか、
何か周りからやってくるものを受け止めて、外に出していく

アナ:賢治の中ではいつもモヤモヤした不安があった?

斉藤:
不安にイメージを与えることで自分を癒そうとしていたかもしれない
僕はセラピー的にやっていたんじゃないかと思う

得体の知れない不安に言葉を与えるのは精神科治療の第一歩なんです
誰かが見ているという構図に落とし込んで「言語化」するのは
ワケの分からない不安よりはマシということがある

千葉:
賢治の中では自分自身を見つめる中で資質に目覚めていく
ものを書く能力があるんじゃないか、
表現行為をすることによって、自分の生きる道があるんじゃないか

アナ:そういったことが現代に生きづらさを感じる若者と通じるものがありますか?

斉藤:
何かに熱中することは、自己肯定感に繋がってくる
今の若い世代は「自己否定的」な感情を持ちやすい

学校の評価でも、就職活動でも、ネガティブな評価をつけることが非常に多くて
「自分が好きになれない」という苦しみが中心にあって

これを解決してくれるのが、何かに夢中で没頭すること
それを通じて、自分をもう1度好きになれるはずなんですけれども
その手前で止まってしまう

「自分はダメなんだから、そんなことに熱中する資格はない」とか、
足踏みしてしまうのは本当に残念なこと
賢治のように突き抜けてほしいと思います



職業という問題
賢治は21歳の時(1918年 大正7年)盛岡高等農林を卒業
同時に、質屋を継ぐという現実が待ち構えていた

賢治は家業の転換を思いつく
学校で学んだ知識を活かし、セメントの材料となる石灰岩や石材の生産販売を父に提案
しかし経営の見通しがあまりにも甘く、父を説得することはできなかった

ついに家業を手伝うようになった賢治
店番をやっても全く仕事にやる気が起きず、自暴自棄になっていく

賢治 親友への手紙:
私は実はならず者 ごろつき 詐欺師 ねじけもの 嘘つき 語りの隊長
前科無数犯 弱虫の意気地なし ずるもの 悪者 偽善会会長です


そんな無気力な息子の姿を見かねた父は厳しく叱ることもあった

「貴様は世間のこの苦しい中で、農林の学校を出ながら何のざまだ
 何か考えろ みんなのためになれ
 貴様はきっと、人生の第一義を忘れて、邪道に踏み入った」


賢治 親友への手紙:
O,JADO! O,JADO! 私は邪道をいく
見よこの邪険者の姿 学校で習ったことは もう 糞をくらへ


(凄い こんな反抗期があったのか/驚
 でも、この頃から言葉の使い方がパンクでカッコいい



社会変革を唱える新興教団の思想に共鳴
「南妙法蓮華経」と太鼓を叩いて歩く賢治
賢治は、自分が今不遇なのは、社会が間違っているからだと考えるようになる(うん、同意

やがて、法華経を中心教義とする、社会変革を唱える新興教団の思想に共鳴していく
賢治はその教えを盾に、父の考え方は古く、
自分の方が正しい道を知っていると、何度も口論を挑んだ

私なんかこの頃は 毎日ブリブリ憤ってばかりいます
 何も癪に障るはずがさっぱりないのですが

 机に座って誰かの物を言うのを思い出しながら、急に身体全体で机を殴りつけそうになります
 私はほとんど狂人にもなりそうなこの発作を、
 機械的に、その本当の名称で呼び出し、手を合わせます

 人間の世界の修羅の成仏


【24歳 1921年(大正10年) 家を出て上京】
家業や父の存在に耐えきれなくなった賢治は、冬のある日、突如家を出て上京する
ここでも再び文学が賢治の支えになってゆく

東京に出た賢治はアルバイトをしながら、教団の活動を手伝う
夜は、下宿で童話の制作に没頭した
法華経の教えを童話で分かりやすく伝えようと考えた

後に弟に話したところでは1ヶ月に3000枚のペースで書き、原稿用紙の文字が飛び跳ねたと語る



童話の中の様々な動物



この頃に書いた童話の数々は、まとめて自費出版した
賢治は童話の中に様々な動物を登場させて、人間社会の愚かさを風刺し、
既成の価値観を根底からひっくり返そうとした

『どんぐりと山猫』もその一つ
どんぐりの社会で裁判長を務める山猫は、無能な権力者の象徴として描かれている
争うどんぐりらのもとに、人間の子どもの一郎が現れて見事に解決する

「そんなら、こう言ったらいいでしょう
 この中で一番バカで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが一番偉い」



千葉さん:
弱者が強者であり、強者が弱者という、逆転の発想がここに示されている
実際、我々は赤ちゃんのオムツを替えて笑ってくれると、お母さんも嬉しい
逆に自分が救われるような感覚になるのと同じ

最底辺の者が救われるということが、我々の社会に存在する
単純に「弱者救済」とか「平等主義」ではなく、それを超えるような視点があった



生涯で1冊だけ売れた『雪渡り』
童話の中に理想の社会を作り上げることで、それまでの鬱積した思いを晴らしていた賢治
ほとんどの作品が評価されない中、雑誌に売れたのは『雪渡り』

純真な幼い兄弟がキツネと心を通わせる物語で、
生涯で唯一、原稿料の5円(現在の約3000円)を手にする

賢治は周囲の人に対し、
「もしこれらの童話が出版されたら、日本の文壇を驚かせるのに十分な傑作になるはずだ」と豪語した
賢治は文学で認められることで、家業や父という現実を乗り越えることができると信じていた


斉藤:
賢治自身はダメな人だったと思う ニート もしくはパラサイト
甘えながら逆らっている感じがちょっとある

東京に家出したと言いますけれども、お父さんの知り合いに頼ったということだったし、
仕送りもらっていたりとか

その辺はお父さんの手のひらから出られなかった
手のひらの上で一生懸命反抗している感じ
それも賢治の鬱屈につながっていたとは思いますけれども



なぜ童話だったのか?

千葉:
賢治の童話作品の特徴は「擬人法」
動物や木が喋ったり、風も喋るし、土や山も喋る

小説はどうしても人間が中心なので、人間しか出てこない
賢治は動物も石も風も全部に喋らせたい そういうジャンルは当時としては童話しかない
今はファンタジーが作れるわけですが、賢治が生きた頃というのは、そういう発想がなかったので

アナ:ファンタジーということは、「虚構」であって、現実逃避の部分もあるのでは?

斉藤:
ある意味、「虚構性」というのは、現実を支える土台だと思う
我々が生きる時に「こうでない世界」とか「こうでない生き方」
という回路を確保することによって現実を生きやすくする
ちょっと気持ちの余白が生まれるというか

だからこそ人々はドラマや映画を観たりすることをやめないわけですね
やっぱり生きていくには、そういうことが必要だと思うし、
賢治にとって切実なニーズがあったと思う

アナ:生涯で1作しか売れなかったというのが結構、衝撃だったんですけれども

増田:
日の目を見ずに十何年も芸人活動をやってる人がいて
その人の考え方として「全然売れない」と思うか
「まだ売れてない」と思うか、それによって全然違う

両パターンがいる ネガティブな考えとポジティブの考え
賢治で言ったら「まだ売れてない」ということですかね


斉藤:
逆に言うと、誰からも理解されないことが賢治を勢いづけていたというか
ある意味、思春期を引きずっている すごい「万能感」

「筆で世界を変える」とか、そのぐらいを考えていたと思いますし
当時の人が見たら、「こいつイっちゃってるな」と思っちゃうくらいの
思い込みで突っ走っていたと思います


ますだ:
誰にも見られていないから、どんどん自分の世界に入って作品を書けたという部分があるのか

斉藤:
自分の好きなものに没頭することが、自分を受け入れることにつながっていく



3.大事な人の喪失と向き合うには

【1921年(大正10年)賢治24歳】
童話は一向に売れず、仕送りに頼っていた賢治
家出から7ヶ月後 電報を受け取ると急いで花巻に戻った
妹のトシが結核で倒れたと言う

賢治の2歳下の妹トシは聡明で、兄の苦悩をよく理解し、常に良き相談相手だった
賢治は人に紹介されて、地元の農学校の教師となり、授業の傍ら懸命にトシの看病を続けた
しかし花巻に戻って1年後、トシは24歳の若さで亡くなる

死の直前、トシは家族を前にこう話したと言う



「うまれでくるたて こんどは こたにわりやのごとばかりで
 くるしまなあよにうまれてくる」
 詩「永訣の朝」

(今度生まれて来たら、自分のことだけでなく、他人のために尽くす人になりたい


優しい妹は、なぜ若くして死ななければならなかったのか
理不尽な死を前に、賢治の深い悲しみの感情の中から幻想が次々に湧き上がった







宮沢賢治の知恵 その3:詩作で大事な人の喪失と向き合う
トシの死から8ヶ月後、賢治は樺太に向けて一人旅に出る
生徒の就職の依頼が目的だったが、賢治にとってはトシの魂を追い求める旅だった

深く内省する中で、賢治はその時々の思いを多くの詩に書いていく
賢治は行く先々で、トシの魂が辿ったであろう光景を懸命に想像しようとする

「あいつはこんな寂しい停車場を たった一人で通って行ったろうか
 どこへ行くとも分からないその方向を
 どの種類の世界へ入るともしれないその道を
 たった一人で寂しく歩いて行ったろうか」 詩「青森挽歌」


妹のことを思い続けることは本当に正しいことなのだろうか
トシの魂を探し求めながら自問自答してしまう自分もまたいた

「海がこんなに青いのに 私がまだトシこのことを考えていると
 なぜお前はそんなに 一人ばかりの妹を 悼んでいるかと
 遠い人々の表情がいい また私の中で言う」 詩「オホーツク挽歌」




旅から戻っても、トシを失った悲しみは消えることはなかった

そして1年後、賢治の中でトシへの思いは少しずつ変化していった



「声のいい 製糸場の工女たちが私を嘲るように歌って行けば
 その中には 私の亡くなった妹の声が 確かに二つも入っている

 愛しく思うものが そのままどこへ行ってしまったか分からないことが
 何といういいことだろう」  「薤露青」

賢治は詩の中にトシの死を受け止めようとするかのような言葉を書いた


千葉:
どこに行ったかわからない、ということは、ある意味
全ての人間にトシを見なさい あなたがトシを愛したように
全ての人間の中にトシを見て
トシを愛したように 全ての人間を愛しなさい

それは死者を忘れることにつながるが、同時にその死を抱え続けて生きていくことになる



同じ頃、賢治は自分とトシをモデルにした童話を書いている

「手紙四」

病気で亡くなったポーセを懸命に探そうとするチュンセに対して
謎の人物が諭すように語りかける



また畑で働いている人でも
汽車の中でリンゴを食べている人でも
また歌う鳥や 歌わない鳥
青い家 黒い家のあらゆる魚

あらゆるけものも あらゆる虫も
みんな みんな 昔からのお互いのきょうだいなのだから




チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら
大きな勇気を出して、全ての生き物の本当の幸福を探さなければいけない



全ての生き物の本当の幸福
賢治は生涯、生き方を模索した

【1931年(昭和6年)賢治35歳】
やがて賢治が結核を発症
亡くなる2年前、病の床で、手帳にあの言葉を書き残した








「雨ニモマケズ」

「雨ニモマケズ カゼニモマケズ
 東に病気の子どもがあれば行って看病してやり
 西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い

 みんなにデクノボーと呼ばれ
 褒められもせず クニモサレズ
 そういうものに私はなりたい」 


ますだ:
好きなことを死ぬまで続けられる才能の持ち主だったのかな
死ぬ間際に、相方に「もうええわ」って言ってもらって死ぬぐらいの人生ですよね
それが出来たっていうことは幸せな人だったのかもしれませんね



「モーニングワーク(喪の作業)」

アナ:妹の死にも詩を使って向き合おうとしていたわけですけれども

斉藤:
近親者が若くして亡くなるのは理不尽な経験なんですよね 納得ができない
これをどう納得させるか 納得させるために詩作が必要だった


賢治の詩の中にはいわゆる「モーニングワーク(喪の作業)」
人の感情をたどるルートというものがあって

最初は否認だったりとか、怒りとか、死者の幻影を追い求める感情とか
色々な感情が段階的に進んでいき、最終的に受け入れる

死を受容する境地に至ると言われていますけれども
賢治の詩にはそれが全部入っている、と読んでいて痛感します


アナ:
旅から1年後に「どこにいったかわからないことがいいことだ」とちょっと不思議な言葉だったですけれども

千葉:
実はこの詩は大変面白くて、賢治は鉛筆書きを全部消しゴムで消している
全集を編む時にコピーをとったら、浮き上がってきた

本来、賢治は詩として残したくなかったかもしれない
「いいことなんだ」と書いた後、それを消している
それは自分の心の中に留めなきゃいけないと思ったのかもしれない

賢治の父や母、兄弟たちに迷惑になる
「妹が死んだことがいいことだ」とか言っておかしいんじゃないの?て

でも生きていく上では、どうしても切り離して考えなければいけないから
自分は生きている トシは死んだ これは歴然とした違いがある
どこかで切れ目を入れなければいけない

トシが死んだことを肯定するためには、それは良かったという風に
強い言葉で書く必要があったのではないか



「好きこそ苦しみと生きる道」から我々は何を学べるか

斉藤:
賢治を見ていて思うのは「創造的な孤立」「クリエイティブな孤立」

何かを作るという行為は孤独なものですし、
あまりコミュニケーションばかりしていても、ものが作れないということがあると思う

孤立した時の創造力の高さは、今はちょっと忘れられているような気がして
若い人は特に人と繋がっていないと不安になる

言ったことに対して、すぐにレスポンスが返ってこないと不安になってしまうというのは
「コミュ力信仰」みたいなものが強いわけですけど

一人の時の創造性の豊かさみたいなものを、賢治の生き方から学びとって欲しいと思うし
好きなものをクリエイティブに追求するという過程から
自己肯定に至るということは、今でも十分にできるということを伝えたいですね


コメント

DREAMS COME TRUE×太陽の塔@SONGSスペシャル

2018-09-01 13:28:26 | 音楽&ライブ
DREAMS COME TRUE×太陽の塔@SONGSスペシャル

“1970年・日本万国博覧会の象徴、「太陽の塔」。
 その内部が48年ぶりに一般公開されたことを記念して、DREAMS COME TRUEが、スペシャルライヴを行った。

 さらに今回はなんと、ライヴの前日に、一般公開に先立ち、ドリカムの2人が太陽の塔の内部に潜入した。
 そこでは生命の進化が一本の樹木で表現される岡本太郎の立体芸術「生命の樹」が2人を迎える。

 ライヴで演奏される曲は、大阪とドリカムの関係をあらわす曲「大阪LOVER」。
 歌詩には「万博公園の太陽の塔 ひさびさ見たいなぁ!」という一節がある。”

ドリカムmember:吉田美和、中村正人


予録のまとめ見シリーズ 50分のスペシャル版

「太陽の塔」の内部映像と当時の万博映像は、けっこうこれまでの特集で観たけど
また違った角度、作品が映ったのは貴重v

地震被害はあれからどうなったかなあ?


公式サイト

岡本太郎“太陽の塔”~井浦新が見た生命(いのち)の根源~@日曜美術館



【内容抜粋メモ】

3月大阪府 吹田市 万博記念公園 48年ぶりの内部公開


【1970年 日本万国博覧会が開催】
その中心であり、象徴だったのが、テーマ館として建てられた「太陽の塔」
万博終了後、塔は残されたが、その内部は48年もの間閉ざされていた





そして今回、修復作業を終えて、当時に近い姿で公開されることとなった
この日一般公開に先立ち、2人は特別に内部に潜入する


塔を建てる前に描かれたデッサン
1967年から順番に並ぶ











な:これがだんだん形になってたんだな しかも避雷針まである
よ:一番最初が1967年6月1日 ここまでに3ヶ月!

な:上を見れるところがある! ここすごい! これお宝の目線ですよね




●この芸術作品を生み出したのは岡本太郎





「芸術はバクハツだ!!」








当時は、先祖世界の民族が受け継いできた仮面とともに飾られた


太郎は「太陽の塔」に4つの顔を創った

未来を象徴する「黄金の顔」



現在を象徴する「太陽の顔」



過去を象徴する「黒い太陽」



地下に眠る「地底の太陽」



「地底の太陽」は、実は万博終了後、行方不明となっている
48年ぶりに復元された地底の太陽



な:この無表情の表情っていうのは
よ:ごめんなさい
な:w つい謝ってしまうよね






「太陽の塔」内部公開記念ライヴ



この場所でライヴが行われるのは前代未聞(すごい人数!



よ:
ありがとう! もう今日はどうしようね 感激以外なにものもないね
言葉を通り越して、なにかだね

な:「太陽の塔」で演るのは、これが最初で最後です

よ:
今日、この瞬間、モーレツなお祭りにしませんか?
どんどんやりとりして、太陽に届くくらい
さらなるモーレツを目指しませんか?

うれしい!たのしい!大好き!





ドリカム、久々ライヴで聴くけど、吉田美和さん、自在な声が変わらないなあ/驚
子どものような純真さ、自由奔放さ、ダンサーと一緒に飛び跳ねてるし
歳もとらないし、ホーン隊、コーラスも携えて、「太陽の塔」も喜ぶほどのパワー全開!

ここに来てる人たち全員、全国各地から集まったコアファンっぽい
バンバンラジオの西川さんは、この中にはいないかな?w




LOVE LOVE LOVE
前目は友だちがよく歌っていて、それでドリカムを知ったようなもの
この曲は、私がカラオケにハマり始めた頃、よく歌ったなあ





「太陽の塔」をバックに、これだけのお客さんを前に野外で歌うってスゲーなあ


ドリカムと「太陽の塔」 深い結びつき
万博の来場者は延べ6400万人 日本をあげての巨大プロジェクトだった

テーマは「人類の進歩と調和」 世界中の最先端技術が集結した




















その中心に建てられたのが「太陽の塔」


中村は当時、大阪に住む小学生だった
自転車で何度も何度も万博会場を訪れたという



な:
神のような存在と言いますか、僕の子ども時代のすべての夢の象徴なので
何度訪れても、新しい発見がありますね

僕は当時1970年に小学生だったので、万博、エキスポ'70自体が
未来が目の前に現れたと言うか、それぐらい衝撃を超えたイベントだったので







その中で、子ども心ながらにも、異様な存在であった「太陽の塔」は、シンボルと言うか
その頃の「太陽の塔」はじめ、万博って表現できないくらいの衝撃なんですよね
その衝撃が半年間にわたって続いた





開催期間中は、隣りにタイムマシンで行った世界があるような
現実と未来が同居して並行して進んでいくような時間だったので
何とも言えないですねこれは

ミワちゃんはまだちっちゃかった?

よ:
大人になって、ここに来て、初めてこれを見て、「なんだこれは!」と思って(太郎さんにかけてる?w
そこからものすごい好きになって、色々見たり調べたりして
家にも何体もこれが飾ってあるんです


ドリカムと「太陽の塔」のつながりは、この曲でさらに深まった
2007年のヒット曲大阪LOVER 大阪への愛をこめて作ったこの作品には
“万博公園の太陽の塔 ひさびさ見たいなあ”という歌詞が入っている





よ:
リハーサルの時に、スタジオで♪大阪LOVER をやってて
あーこの曲を「太陽の塔」の前で歌うのかと思ったら、リハの時点でもう涙が出た
(さり気なく、背中をさすってくれてる中村さん、優しい


「太陽の塔」は、どんな思いで生み出されたのか
制作者・岡本太郎は、昭和を代表する芸術家



「明日の神話」(1969)@渋谷は、核爆弾で燃え盛る炎 そして人間の姿を描く




生物の根源的な姿 生命のあり方をテーマとし 生涯向き合い続けた



その集大成として「太陽の塔」に挑んだ
「人類の進歩と調和」を掲げた万博のテーマ館だったが



太郎:
あのテーマの反対なんですよ
いわゆる進歩と調和というのは、逆だと思うんですよね

人間少しも進歩してないですよ
科学的に、工業的に、産業的に、様々な意味で進歩しているかもしれないけれども
人間的には、みんな卑しくなってますよ 機械の奴隷になってます


それから「調和」って言うとね、全部が機械で生産されたような
計算づくのものばっかりが並ぶだろうと

そうじゃない それとは正反対なものをバーンとぶつけてやると






●太郎が向き合い続けた生物生命の根源 「生命の樹」
そんな太郎のメッセージが凝縮されているのが「太陽の塔」の内部に作られた「生命の樹」



単細胞生物から、魚類、哺乳類などを経て、人類までの生命の進化が一本の樹木で表現された巨大なオブジェだ








【万博開催前の会議】



太郎:
人間、動物っていう、人間本位的な考えを、ここでいっぺん解消して
我々の不幸っていうのは、全ての人類の卑しさとか、人間という意識があるから
人間が不幸で、汚く、卑しくなっている

これでもっていっぺん単細胞になると、自分を還元したような気持ちになると
初めて生きがいを感じるのが、僕は単細胞の世界だろうと(会議場から笑いが起きる

これは単細胞っていうのは、もうサルだろうが、トカゲだろうが、ナントカだろうが同じじゃないかと
握手しているわけですよ、体の中では

つまり、いつも人間は単細胞に還元したいと言う
命そのもとにそのものに還元したいっていう情熱がある





復元された「生命の樹」を観るドリカムの2人





よ:キレイになったあ! マジ鳥肌立った(拍手
な:当時はもう人だらけでギュウギュウだったのにね 俺たち2人だけで観られるなんて

よ:これが抱えてるんだから なんてことだろう
な:この音楽も黛敏郎さんのオリジナルということで

館内には、当時と同じ黛敏郎さんのオリジナル曲「生命の讃歌」が流れる
照明、音楽、演出、すべて太郎が渾身の思いで設計した

な:子どもの頃、分かんなかったいろんなことが、今しみじみ
よ:私、今日、寝袋でここで寝る!





万博にフシギなゆかりのある歌を歌う

世界中からサヨウナラ

よ:
この曲ができた時に、タイトルを正人に相談したんだよね
世界の国からこんにちは っていう曲あった?って

な:あったもあった、70年万博のテーマソングです

よ:
じゃあ、♪世界中からサヨウナラ ていう曲があってもいいよねって言って
何も考えずにツアーやって、これの前でこの曲を歌うっていう
こんにちはと、さようならが、うまく1セットになるって
昨日、気がついてびっくりしちゃったの

な:すごい因縁ですね

歌いながら軽々と踊るミワさん
世界中の別れの挨拶の言葉が入った面白い曲








♪大阪LOVER は、大阪の女の子が主人公 もどかしい恋の物語





そのアンサーソングが生まれた あなたと同じ空の下
舞台は♪大阪LOVER の10年後、主人公たちのその後の姿を描く

(あら、セサミ! USJ? いいなあ、後ろに私の好きなアーニーとバートもいる






あなたと同じ空の下
USJを「ユニバ」って言うんだ
デートして、家族になってるってことは、物語の2人は遠距離でも結婚したのかな





そういえば、こんなに奔放に見えて、ミワさんて衣装のすごい細かいところまで気にして
ギリギリまでこだわるって中村さんが話してたことがあったな

これだけ長年、大勢のファンがついているのもその辺にワケがありそう

今回は、長いスカートが腰から幾重にも分かれていて、
動き回るたびに色とりどりに広がって、とってもカラフル



「生命の樹」の階段をのぼる
「原生類時代」、「三葉虫時代」「魚類時代」「両生類時代」「爬虫類時代」「哺乳類時代」「人類」



な:
わあ、三葉虫も元気になった! オウムガイもいっぱいいる 照明が変わるとまたヤバイ
世紀の日本の財産 この時代のあらゆる製作者の情熱がスゴイ勢いで襲ってくるね
(当時観て、再現した後も観れるってスゴイなあ

よ:もう恐竜の時代まで来たよ







な:
人類がすごく小さな存在に表現されていることに今気がついた
この短い間に万物の偉大さが体験できる


頂上には当時から掲げられる太郎の言葉がある



よ:
うちら明日はさあ、ライヴに猛烈な祭りをやってさ、
いろんなものと交歓し、その燃えるエネルギーを「太陽の塔」に捧げればいいんだね





情熱を胸に心をこめた歌を届ける

あなたのように
最初は3人で、2人になっても、ソウルメイトのような2人の姿は
単なるミュージシャンではない、現世での深い縁を感じる






ラストに大阪LOVER
ん?大阪のコじゃなく、東京のコなのか? いかさまの大阪弁て
すみません、中途半端なファンで/謝



よ:「太陽の塔」ありがとうううううう!

「太陽の塔」もこのお祭りにめっさ喜んでいる気がする 空は曇っているけれども

ファンの声援にも「はい、ありがとう!」と応えつつ
「太陽の塔」に3回投げキッスしてるミワさん

最後はみんな一列になって、手をつないで空にあげる







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