いつものように明けた2011年。
この正月は、京都の実家では雪が積もった。
1月の終わりに公開された映画「ワラライフ!」。
この映画について吉川は、「バカボンパパみたいな恰好で」「ちゃぶ台ひっくり返すような親父」と言っていた。私が見たのは2月に入ってからだったが、見たことのない吉川晃司がそこにいた。
頑固で意固地で涙もろい、昭和の父親。
すでに瑛太の父親役や仮面ライダーWのヒロイン・亜紀子の父親役などをやってはいたがこういうザ・お父ちゃんみたいな役は初めてだ。自分の父親がこうだと面倒臭いなとは思うけど、見ている分にはチャーミングなお父ちゃん。
あらためて、そんな「父親役」を演じる年になったんだなぁ…としみじみ思った。
吉川は確かこの年に新しいアルバムを出すと言っていたのだが、リリース予定はベスト盤。
25周年の時に出さなかったベストアルバム、KEEP ON KICKIN'!!!!! は、ファンからの投票を元にした選曲で、初心者に聴いてもらいたいものとして作られていた。
さてこの年、私の応援する東北楽天ゴールデンイーグルスは球団史上初めての地元仙台での開幕を控えていた。
チケットも万全。
ホテルも飛行機も予約した。
あとは寒さ対策をして開幕を待つばかりだった3月。
その日私は会社で仕事をしていた。
会社は大阪市内。その事務所が揺れ始めた。長い揺れだった。
ずっと噂されていた「南海トラフ地震」がついに来るのでは?!と思った関西の人間は多かったかもしれない。
慌ててTwitterのタイムラインをチェックした。
震源は東北。
まさか?東北の地震があんな強さで大阪に伝わってくるなんてことある?
もしや、同時多発的に日本中で揺れたのでは??
ほどなく、東北の海岸を巨大な津波が襲った。
約2週間後くらいには私も降り立つ筈だった仙台空港も狂暴な海水の塊に飲まれていった。
続いて翌日には、福島の原子力発電所1号機が水素爆発を起こす。
あとのことは、私がこのエントリで書くことではないだろう。
私の住む大阪では揺れはしたものの被害などはみられなかったが、この地震は首都圏でも大きな被害を齎した。
これまで生活している中で当たり前だったものが、もう戻ってこないかもしれないと思うほど遠くへ行ったような気がした。
スポーツ界やエンタメ界の様々な人たちが動きだしたのは早かったように思う。
そんな中、吉川晃司はしばらくの間消息も知れなかった。
阪神・淡路大震災の時に、特に目立った支援活動をした印象のなかった吉川だったし、全く興味がない、あるいは陰で目立たないように目立たない程度に何かやっているのかもしれないとは思っていた。
「何をしていたのか」がわかったのは当時の感覚で言うとけっこうな日数が経ってからのことだった。
生憎当時の記事などを探すことが出来ないので、それが判ったのが正確にはいつだったか今となってはわからない。
吉川晃司は、津波で甚大な被害を受けた石巻でボランティア活動をしていた。
地震の当日は地下のスタジオで、CMに使う曲のレコーディングをしていたらしい吉川。地下は地上よりも地震を感じにくいというが、そのスタジオ籠りが終わって地上に出てくるまで外の世界で何が起こったのか知らなかった。
スタッフの誰かが石巻の出身だとかで、災害ボランティアのエキスパートに助言を貰いながら現地に向かった。そこでは倒壊した建物の粉塵を避けるためもあり鼻口を覆って作業していたのでほとんど吉川晃司と気づかれることはなかったという。
そこでしばらくの間瓦礫の撤去を手伝ったり壊れた自転車を修理したり軽トラで人や物を運搬したりと様々な被災者の人たちと接し、絶望に満たされた風景と接してきた。
この後しばらくの間、ステージの上でも言っていたこと。
「今まであった『物差し』が全く使えなくなった。物差しが変わった」
吉川晃司は彼なりの信念やプライドを愚直なまでにしっかり背骨に仕込んで走ってきた男だと私は思う。
その吉川が、自分の物差しが変わってしまったのだと言う。
石巻でどれほどの絶望とどれほどの怒りと向き合ってきたのだろう。
それは震災から約1ヶ月半ほど経過した4月27日のことだった。
開幕を遅らせはしたもののなんとか開幕したプロ野球。滋賀県・皇子山球場で開催された西武ライオンズと楽天イーグルスの試合を見に私たちは大津まで行った。
が、その日の試合は開始前から降り始めた雨がすぐに激しくなり、1回表裏を終えたあたりでノーゲームとなってしまった。
仕方ないのでその試合を千葉から観戦に来ていた野球仲間と、山科駅前で飲むことにした。
数々の過去に解散していたロックバンドなどが再結成を発表して、復興支援のために何かしようと動き始めていた頃だ。
野球好きでもあり音楽好きでもある彼が聞いた。
「それで、complex(の再結成)はどうなの?」
私は殆ど即答で、むしろ食い気味に、
「まあ、無いやろね」
と答えていた。
───新聞に「complex再始動」の一面広告が掲載されたのは翌朝のこと。
COMPLEX20110730・31 日本一心[2011/7/30]
この2日間の収益の殆どは被災地へ寄付された。
吉川は、知っていたに違いない。
自分一人でやるよりもCOMPLEXでやる方が人を多く集められることを。
つまりより多くの寄付が出来るということを。
COMPLEXの方が──そんなことはきっとこの時の彼には些細なことだったのだ。
この時掲げられた「日本一心」というスローガンを、吉川はしばらく掲げることになる。
このCOMPLEX再始動(2日限り)ライブの後すぐ。
8月の頭に、前年に広島・府中小の子どもたちと作った歌「あの夏を忘れない」が吉川歌唱によってリリースされた。配信限定だったので、急遽のことだったのかもしれない。
「あの夏を忘れない」は、原爆によって破壊された小さな幸せの日常を歌ったものだった。
そこに震災に伴う原発事故を受けて「原子力はいらない」というメッセージが乗ったようなMVが作られたのだった。
震災によって、小さな日常の幸せを破壊されたことには通じるものがあるかもしれない。
ただ、あの歌は原爆という兵器そのものというより、戦争によって奪われる日常の悲劇を歌ったものの筈だった。
それが原爆という悪魔的な兵器であったからクローズアップされるけれど、たとえば各地の空襲で奪われた日常や生命、もっと言えば戦時というだけで奪われた日常という悲劇を含んだものとされる方がずっとすんなり胸に落ちるのだが──
原発と原爆ではどこかニュアンスが違う。そんな違和感がずっと、今も、私の中に凝っている。
「二度と繰り返してはならない」のは「戦争」だったはずなのにな、と。
ただ、歌詞を書いた子どもたちがそういう意味合いも含んだ歌へと成長させることをよしとしたのだからそれは私がとやかく言うことではないのだろう。
その後、4月にリリースされたベストアルバム・KEEP ON KICKIN'!!!!!と対になるようなベストアルバムが9月にリリースされた。「あの夏を忘れない」はこの中にも収録されている。
KEEP ON SINGIN'!!!!!~日本一心~。
そして、(シンバルを)蹴り続けるし歌い続けるぜ!と宣言したこの2枚のアルバムを引っ提げて10月終わりからツアーが始まった。
KIKKAWA KOJI LIVE 2011 「KEEP ON KICKIN' & SINGIN'」~日本一心~
〔2011/10/30~12/31〕
【サポートメンバー】
GUITAR : 菊地英昭 (ex.THE YELLOW MONKEY)
GUITAR : 伊藤可久
BASS : 小池ヒロミチ
KEYBOARDS : 矢代恒彦
DRUMS : 坂東慧 (T-SQUARE)
このツアーでは珍しくホッピー神山でなく矢代恒彦が復帰。
そして前年の冬から二人目のギターとして入った伊藤可久がメンバー入りという感じ。
結果的に、弥吉淳二が吉川とステージで共演したのは2010年の夏が最後ということになった。
──まさか、それが永遠の「最後」になるとは思いもしなかったのだけど。
この時のセトリ(初日横浜アリーナ)
01. 1990
02. RAMBLING MAN
03. IMAGINE HEROES
04. 恋をとめないで
05. VENUS~迷い子の未来
06. RAIN-DANCEがきこえる
07. ジェラシーを微笑みにかえて
08. 終わらないSun Set
09. INNOCENT SKY 2011
10. Cloudy Heart
11. Black Corvette '98
12. SEX CRIME
13. MODERN VISION 2007
14. TARZAN
15. サバンナの夜
16. LA VIE EN ROSE 2011
17. SPEED
18. Mr. Body & Soul
19. Fame & Money
20. TOKYO CIRCUS
21. Juicy Jungle
- encore -
22. KISSに撃たれて眠りたい
23. あの夏を忘れない
ファイナルまでに部分的に入替あり。
セットリスト自体はアルバムツアーではないしベストアルバム発表後のため「ベストアルバムに入っていそうな」曲構成で、COMPLEX再始動の東京ドームに足を運んだ、あるいは行きそびれていた、吉川晃司のソロを初めて・あるいは近年体験していなかった人にも入りやすいものだった。
なのに、どうしてもどこか悲壮感が漂っていて──この頃は特にこれまで政治的な発言などしてこなかった反動でもあるかのように政府の震災復興や原発事故への対応に苦言を呈したりあからさまに怒ったりしていることも増えていたせいか──「吉川晃司のライブ」なのにどうにもずっしりと心に何か重たいものが残ってしまうようなツアーになった。
ベースの小池ヒロミチが、自らのブログで
「日本一心なんて重い旗を背負ってしまって大丈夫かな」
と心配するエントリを上げていたのが印象的だった。
慣れない方向へ突っ走ってぶっ壊れてしまわないか、
それでもなんだかんだ言ってもバランス感覚はある人だろう、
一応は自分がコントロールを失うと遠心力で味方に突っ込んで大破しかねない厄介な車であることに自覚もあるようだし、
大丈夫だろう
大丈夫だろう
そう思いながらも、どうしても心配になってしまうのだ。
そんな心配は、デビュー30周年を迎える2014年になるまで払拭されることはなかった。いや、しばらくは心配は増す一方だった。
若い頃ならもしかしたら、この重苦しさに負けて離れてみようとしていたかもしれない。
でも、もう、今更離れることは出来なかったのだ。
彼が彼である限り──見届けよう。
ツアーは年末の2daysで終わった。
1年前と同じ代々木第二体育館。
去年と同じように迎えたはずの年末だった。
この1年で起こったことを思えば、同じ会場で同じように迎えられた年末は奇跡だった筈だ。
けれど、それはやはり「いつもの年末」では決して無かった。
単純に1年の垢を落としてすっきりして帰る、そんなライブでは有り得なかった。
ただ馬鹿騒ぎして楽しかったといって終わることにまだ少しばかりの罪悪感が伴うような、まだそんな頃でもあった。
このライブの収益が被災地のために寄付されるから、そんな言い訳を自分にしなければならないような、まだまだそんな頃でもあったのだ。
ライブそのものはいつものように楽しかったはずなのに、会場を後にして私は寂しさとも不安ともつかないせつない気持ちを抱えて夜行バスに乗った。
去年までのような、 突き抜けて馬鹿臭い歌を歌う男と馬鹿騒ぎして
楽しかったー!とただ笑って帰れるライブに。
再び出会える日が来るのだろうか。
そんな不安を抱えながら。
---吉川晃司と私 buck number---
【1】(1984~85)~出会う前~
【2】(1986)~鮮烈すぎる出会い~
【3】(1986~1988)~解体への…~
【4】(1989~1990)~COMPLEX~
【5】(1991)~LUNATIC LUNACY~
【6】(1992)~Shyness Overdrive~
【7】(1993)~10th Anniversary~
【8】(1994)~My Dear Cloudy Heart~
【9】(1995)~FOREVER ROAD~
【10】(1996)~BEAT∞SPEED~
【11】(1996~97)~0015→HEROIC Rendezvous~
【12】(1999)~HOT ROD~
【13】(2000)~HOT ROD MAN RETURNS~
【14】(2001)~SOLID SOUL~
【15】(2002)~PANDORA~
【16】(2003)~Jellyfish&Chips~
【17】(2004)~20th Anniversary~
【18】(2005)~エンジェルチャイムが鳴る夜に~
【19】(2006)~Savannah Night~
【20】(2007)~TARZAN~
【21】(2008)~SEMPO,and・・・~
【22】(2009)~25周年、両刃の剣を携え~
【23】(2010)~夏と冬のGROOVE~
【24】(2011)~日本一心~
【25】(2012)~愚~
【26】(2013)~SAMURAI ROCK~
【27】(2014)~反発の30年~
【28】(2015)~骨折してもシンバルキック~
【29】(2016)~WILD LIPS~
【30】(2017)~ライブこそ人生~
【31】(2018)~武道館で、笑顔の再会を~
【32】(2019)~吉川晃司、起動。~
【33】(2020)~空に放つ矢のように~
【34】(2021)~BELLING CAT~
【35】(2022)~OVER THE 9~
この正月は、京都の実家では雪が積もった。
1月の終わりに公開された映画「ワラライフ!」。
この映画について吉川は、「バカボンパパみたいな恰好で」「ちゃぶ台ひっくり返すような親父」と言っていた。私が見たのは2月に入ってからだったが、見たことのない吉川晃司がそこにいた。
頑固で意固地で涙もろい、昭和の父親。
すでに瑛太の父親役や仮面ライダーWのヒロイン・亜紀子の父親役などをやってはいたがこういうザ・お父ちゃんみたいな役は初めてだ。自分の父親がこうだと面倒臭いなとは思うけど、見ている分にはチャーミングなお父ちゃん。
あらためて、そんな「父親役」を演じる年になったんだなぁ…としみじみ思った。
吉川は確かこの年に新しいアルバムを出すと言っていたのだが、リリース予定はベスト盤。
25周年の時に出さなかったベストアルバム、KEEP ON KICKIN'!!!!! は、ファンからの投票を元にした選曲で、初心者に聴いてもらいたいものとして作られていた。
さてこの年、私の応援する東北楽天ゴールデンイーグルスは球団史上初めての地元仙台での開幕を控えていた。
チケットも万全。
ホテルも飛行機も予約した。
あとは寒さ対策をして開幕を待つばかりだった3月。
その日私は会社で仕事をしていた。
会社は大阪市内。その事務所が揺れ始めた。長い揺れだった。
ずっと噂されていた「南海トラフ地震」がついに来るのでは?!と思った関西の人間は多かったかもしれない。
慌ててTwitterのタイムラインをチェックした。
震源は東北。
まさか?東北の地震があんな強さで大阪に伝わってくるなんてことある?
もしや、同時多発的に日本中で揺れたのでは??
ほどなく、東北の海岸を巨大な津波が襲った。
約2週間後くらいには私も降り立つ筈だった仙台空港も狂暴な海水の塊に飲まれていった。
続いて翌日には、福島の原子力発電所1号機が水素爆発を起こす。
あとのことは、私がこのエントリで書くことではないだろう。
私の住む大阪では揺れはしたものの被害などはみられなかったが、この地震は首都圏でも大きな被害を齎した。
これまで生活している中で当たり前だったものが、もう戻ってこないかもしれないと思うほど遠くへ行ったような気がした。
スポーツ界やエンタメ界の様々な人たちが動きだしたのは早かったように思う。
そんな中、吉川晃司はしばらくの間消息も知れなかった。
阪神・淡路大震災の時に、特に目立った支援活動をした印象のなかった吉川だったし、全く興味がない、あるいは陰で目立たないように目立たない程度に何かやっているのかもしれないとは思っていた。
「何をしていたのか」がわかったのは当時の感覚で言うとけっこうな日数が経ってからのことだった。
生憎当時の記事などを探すことが出来ないので、それが判ったのが正確にはいつだったか今となってはわからない。
吉川晃司は、津波で甚大な被害を受けた石巻でボランティア活動をしていた。
地震の当日は地下のスタジオで、CMに使う曲のレコーディングをしていたらしい吉川。地下は地上よりも地震を感じにくいというが、そのスタジオ籠りが終わって地上に出てくるまで外の世界で何が起こったのか知らなかった。
スタッフの誰かが石巻の出身だとかで、災害ボランティアのエキスパートに助言を貰いながら現地に向かった。そこでは倒壊した建物の粉塵を避けるためもあり鼻口を覆って作業していたのでほとんど吉川晃司と気づかれることはなかったという。
そこでしばらくの間瓦礫の撤去を手伝ったり壊れた自転車を修理したり軽トラで人や物を運搬したりと様々な被災者の人たちと接し、絶望に満たされた風景と接してきた。
この後しばらくの間、ステージの上でも言っていたこと。
「今まであった『物差し』が全く使えなくなった。物差しが変わった」
吉川晃司は彼なりの信念やプライドを愚直なまでにしっかり背骨に仕込んで走ってきた男だと私は思う。
その吉川が、自分の物差しが変わってしまったのだと言う。
石巻でどれほどの絶望とどれほどの怒りと向き合ってきたのだろう。
それは震災から約1ヶ月半ほど経過した4月27日のことだった。
開幕を遅らせはしたもののなんとか開幕したプロ野球。滋賀県・皇子山球場で開催された西武ライオンズと楽天イーグルスの試合を見に私たちは大津まで行った。
が、その日の試合は開始前から降り始めた雨がすぐに激しくなり、1回表裏を終えたあたりでノーゲームとなってしまった。
仕方ないのでその試合を千葉から観戦に来ていた野球仲間と、山科駅前で飲むことにした。
数々の過去に解散していたロックバンドなどが再結成を発表して、復興支援のために何かしようと動き始めていた頃だ。
野球好きでもあり音楽好きでもある彼が聞いた。
「それで、complex(の再結成)はどうなの?」
私は殆ど即答で、むしろ食い気味に、
「まあ、無いやろね」
と答えていた。
───新聞に「complex再始動」の一面広告が掲載されたのは翌朝のこと。
COMPLEX20110730・31 日本一心[2011/7/30]
この2日間の収益の殆どは被災地へ寄付された。
吉川は、知っていたに違いない。
自分一人でやるよりもCOMPLEXでやる方が人を多く集められることを。
つまりより多くの寄付が出来るということを。
COMPLEXの方が──そんなことはきっとこの時の彼には些細なことだったのだ。
この時掲げられた「日本一心」というスローガンを、吉川はしばらく掲げることになる。
このCOMPLEX再始動(2日限り)ライブの後すぐ。
8月の頭に、前年に広島・府中小の子どもたちと作った歌「あの夏を忘れない」が吉川歌唱によってリリースされた。配信限定だったので、急遽のことだったのかもしれない。
「あの夏を忘れない」は、原爆によって破壊された小さな幸せの日常を歌ったものだった。
そこに震災に伴う原発事故を受けて「原子力はいらない」というメッセージが乗ったようなMVが作られたのだった。
震災によって、小さな日常の幸せを破壊されたことには通じるものがあるかもしれない。
ただ、あの歌は原爆という兵器そのものというより、戦争によって奪われる日常の悲劇を歌ったものの筈だった。
それが原爆という悪魔的な兵器であったからクローズアップされるけれど、たとえば各地の空襲で奪われた日常や生命、もっと言えば戦時というだけで奪われた日常という悲劇を含んだものとされる方がずっとすんなり胸に落ちるのだが──
原発と原爆ではどこかニュアンスが違う。そんな違和感がずっと、今も、私の中に凝っている。
「二度と繰り返してはならない」のは「戦争」だったはずなのにな、と。
ただ、歌詞を書いた子どもたちがそういう意味合いも含んだ歌へと成長させることをよしとしたのだからそれは私がとやかく言うことではないのだろう。
その後、4月にリリースされたベストアルバム・KEEP ON KICKIN'!!!!!と対になるようなベストアルバムが9月にリリースされた。「あの夏を忘れない」はこの中にも収録されている。
KEEP ON SINGIN'!!!!!~日本一心~。
そして、(シンバルを)蹴り続けるし歌い続けるぜ!と宣言したこの2枚のアルバムを引っ提げて10月終わりからツアーが始まった。
KIKKAWA KOJI LIVE 2011 「KEEP ON KICKIN' & SINGIN'」~日本一心~
〔2011/10/30~12/31〕
【サポートメンバー】
GUITAR : 菊地英昭 (ex.THE YELLOW MONKEY)
GUITAR : 伊藤可久
BASS : 小池ヒロミチ
KEYBOARDS : 矢代恒彦
DRUMS : 坂東慧 (T-SQUARE)
このツアーでは珍しくホッピー神山でなく矢代恒彦が復帰。
そして前年の冬から二人目のギターとして入った伊藤可久がメンバー入りという感じ。
結果的に、弥吉淳二が吉川とステージで共演したのは2010年の夏が最後ということになった。
──まさか、それが永遠の「最後」になるとは思いもしなかったのだけど。
この時のセトリ(初日横浜アリーナ)
01. 1990
02. RAMBLING MAN
03. IMAGINE HEROES
04. 恋をとめないで
05. VENUS~迷い子の未来
06. RAIN-DANCEがきこえる
07. ジェラシーを微笑みにかえて
08. 終わらないSun Set
09. INNOCENT SKY 2011
10. Cloudy Heart
11. Black Corvette '98
12. SEX CRIME
13. MODERN VISION 2007
14. TARZAN
15. サバンナの夜
16. LA VIE EN ROSE 2011
17. SPEED
18. Mr. Body & Soul
19. Fame & Money
20. TOKYO CIRCUS
21. Juicy Jungle
- encore -
22. KISSに撃たれて眠りたい
23. あの夏を忘れない
ファイナルまでに部分的に入替あり。
セットリスト自体はアルバムツアーではないしベストアルバム発表後のため「ベストアルバムに入っていそうな」曲構成で、COMPLEX再始動の東京ドームに足を運んだ、あるいは行きそびれていた、吉川晃司のソロを初めて・あるいは近年体験していなかった人にも入りやすいものだった。
なのに、どうしてもどこか悲壮感が漂っていて──この頃は特にこれまで政治的な発言などしてこなかった反動でもあるかのように政府の震災復興や原発事故への対応に苦言を呈したりあからさまに怒ったりしていることも増えていたせいか──「吉川晃司のライブ」なのにどうにもずっしりと心に何か重たいものが残ってしまうようなツアーになった。
ベースの小池ヒロミチが、自らのブログで
「日本一心なんて重い旗を背負ってしまって大丈夫かな」
と心配するエントリを上げていたのが印象的だった。
慣れない方向へ突っ走ってぶっ壊れてしまわないか、
それでもなんだかんだ言ってもバランス感覚はある人だろう、
一応は自分がコントロールを失うと遠心力で味方に突っ込んで大破しかねない厄介な車であることに自覚もあるようだし、
大丈夫だろう
大丈夫だろう
そう思いながらも、どうしても心配になってしまうのだ。
そんな心配は、デビュー30周年を迎える2014年になるまで払拭されることはなかった。いや、しばらくは心配は増す一方だった。
若い頃ならもしかしたら、この重苦しさに負けて離れてみようとしていたかもしれない。
でも、もう、今更離れることは出来なかったのだ。
彼が彼である限り──見届けよう。
ツアーは年末の2daysで終わった。
1年前と同じ代々木第二体育館。
去年と同じように迎えたはずの年末だった。
この1年で起こったことを思えば、同じ会場で同じように迎えられた年末は奇跡だった筈だ。
けれど、それはやはり「いつもの年末」では決して無かった。
単純に1年の垢を落としてすっきりして帰る、そんなライブでは有り得なかった。
ただ馬鹿騒ぎして楽しかったといって終わることにまだ少しばかりの罪悪感が伴うような、まだそんな頃でもあった。
このライブの収益が被災地のために寄付されるから、そんな言い訳を自分にしなければならないような、まだまだそんな頃でもあったのだ。
ライブそのものはいつものように楽しかったはずなのに、会場を後にして私は寂しさとも不安ともつかないせつない気持ちを抱えて夜行バスに乗った。
去年までのような、 突き抜けて馬鹿臭い歌を歌う男と馬鹿騒ぎして
楽しかったー!とただ笑って帰れるライブに。
再び出会える日が来るのだろうか。
そんな不安を抱えながら。
---吉川晃司と私 buck number---
【1】(1984~85)~出会う前~
【2】(1986)~鮮烈すぎる出会い~
【3】(1986~1988)~解体への…~
【4】(1989~1990)~COMPLEX~
【5】(1991)~LUNATIC LUNACY~
【6】(1992)~Shyness Overdrive~
【7】(1993)~10th Anniversary~
【8】(1994)~My Dear Cloudy Heart~
【9】(1995)~FOREVER ROAD~
【10】(1996)~BEAT∞SPEED~
【11】(1996~97)~0015→HEROIC Rendezvous~
【12】(1999)~HOT ROD~
【13】(2000)~HOT ROD MAN RETURNS~
【14】(2001)~SOLID SOUL~
【15】(2002)~PANDORA~
【16】(2003)~Jellyfish&Chips~
【17】(2004)~20th Anniversary~
【18】(2005)~エンジェルチャイムが鳴る夜に~
【19】(2006)~Savannah Night~
【20】(2007)~TARZAN~
【21】(2008)~SEMPO,and・・・~
【22】(2009)~25周年、両刃の剣を携え~
【23】(2010)~夏と冬のGROOVE~
【24】(2011)~日本一心~
【25】(2012)~愚~
【26】(2013)~SAMURAI ROCK~
【27】(2014)~反発の30年~
【28】(2015)~骨折してもシンバルキック~
【29】(2016)~WILD LIPS~
【30】(2017)~ライブこそ人生~
【31】(2018)~武道館で、笑顔の再会を~
【32】(2019)~吉川晃司、起動。~
【33】(2020)~空に放つ矢のように~
【34】(2021)~BELLING CAT~
【35】(2022)~OVER THE 9~
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます