ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

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植物への愛と「沈潜」感覚-ルソー『孤独な散歩者の夢想』より

2010年01月21日 | 日記
ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』は、私が高校時代から好きな本でした。とても静謐な感じがして、読んでいると何か、ツブツブと身体ごと沈んでいくような心地よい「沈潜」感覚があるのです。

ルソーの植物への愛がぞんぶんに語られています。

私も20代の前半くらいまでは、道端に咲いている小さな花を見ただけでクラッと「陶酔感」が得られたりして、かなり安価に「自然」から快楽を引き出せるという、今思えば安上がりで「便利な体質」を持ち合わせていましたが、近頃はそうでもないので生活がパサパサしていて、少し哀しいです。

まあこれは単純に年を取ったということでもありますし、20代の頃、日本の「社会」に「適応」するためにはこのままじゃダメで、意識的に「美しさ」を感じる感性を抑制しようと努力した、ということもどこかで影響しているかと思います。作家の橋本治が『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本の中で、若い頃、「生活」しにくくなるから「美しい」を感じないように努力した、という旨のことを書いていますが、私もそれとどこか似たような状況があったな、と思い出します。

20代の初め、牧野富太郎の植物図鑑が欲しくて、京都のある古本屋で「買いたいな」と思って棚を眺めていたら、古本屋のおじさんが話しかけてきてくれて、私にお金ができるまで、牧野の図鑑を売らないで取っておいてやる、ということを言ってくれました。さすが学生街の京都です。今思うと、ああいう古本屋のおじさんたちも含めて、京都の街の独特の「文化の香り」を構成する雰囲気が作り出されていたのでしょう。

しかし私はそれ以来、その古本屋に出向くことがなかったので、結果的に、店主の好意を無駄にしてしまったことになります。申し訳ないです。10年以上前のことですが、今ここで謝っておきます。

しかし、あのときは、阪神大震災とオウム真理教事件が起きた直後で、私もやたらに情緒的・精神的な不安定性に悩んでいた頃で、しばらくすると、もう「植物への愛」どころではなくなっていた、という事情もありました。ま、それは挨拶にいかなかった言い訳にはなりませんが。

ほかに、「植物への愛」が呼び戻されるような本としてよかったのは、これもかなり以前に読んだいとうせいこうの『ボタニカル・ライフ』ですかね。ベランダの植物や、道端を歩いている時に歩道まではみ出す、「おばさん」たちが植えた発泡スチロールの鉢の上で繁茂している植物たちも、私の目を楽しませてくれます。

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『孤独な散歩者の夢想』
第五の散歩より

「僕のこれまで住んだあらゆる土地のなかで、ピエンヌ湖中のサン・ピエール島くらい、僕を真に幸福にし、そしていつまでもそこをなつかしむ情を残した土地はないだろう。」

「石を投げつけられて、モティエから追い出され、僕が逃げ込んだのが、この島だったのである。」

「毎朝、朝食はみな集まって一緒にしたが、それがすむと、僕は虫眼鏡片手に、愛読書の『植物学分類法』を腕にはさんで、目ざす地区に向かって出かけるのだ。とういのは、あらかじめ僕は島をいくつかの小さな正方形に区切っておいて、季節ごとに、順々にそれらを跋渉しようという考えだったからだ。僕は植物の構造や組織を観察したり、またその方法を知ったのもそのときが全然初めてだったのだが、結実のためのおしべ・めしべの遊戯を観察したりするごとに、僕の覚える恍惚、陶酔くらい、不思議なものはなかったろう。それまで僕には念頭にさえなかった、植物における通有性の識別は、それらを同じ種類のものについて調べているうちに、僕を有頂天にさせたのだが、いよいよ珍奇な通有性が現れてくるにおよんで、僕の驚嘆はひとかたでなかったのである。ウツボグサの二本の長いおしべに叉のあること、イラクサやヒカゲミズのおしべには弾力のあること、ホウセンカの実や、ツゲのさくは破裂すること、その他、初めて僕の観察した、結実に関する無数の小さな遊戯は、僕をすっかり悦ばせるのだった。そして、ラ・フォンテーヌがアバキュークを読んだかと会う人ごとにたずねたように、僕は諸々方々へ行っては、ウツボグサの角を見たことがあるかとたずねたものだ。」

第七の散歩より

「僕は自分自身を忘れるときにのみ、はじめてこころよく思いにふけり、思いに沈む。いわば、万物の組織のなかに溶けひたり、自然とまったく同化することに、僕はえも言えぬ歓喜恍惚を感ずるのである。」

「もはや、僕は感覚しかもっていないのだ。そして、もはやこの世では、この感覚を通じてしか、苦痛も快楽も僕まで達しえないのである。あたりの目に映る楽しい物象に心を惹かれて、僕は彼らを眺める、考える、比較する、はては、分類することを知る、こうして僕はいきなり植物学者になってしまった。それは、自然を愛する新しい理由をたえず見い出すためにのみ、自然を研究しようと欲する人なら、そうならざるをえぬような植物学者に。」

「植物が、地上いたるところ、あたかも大空の星のように、惜しみなく蒔き散らされてあるのは、自然の研究への愉楽と好奇心の餌で人間を誘っているためではないかと思われる。しかしながら、星辰はわれわれから遠いところにある。それに達し、われわれの手近にちかづけるためには、予備知識が、器具が、機械が、相当長い梯子が必要である。」

「植物学は、ひまで、怠けものの孤独者にはうってつけの学問である。」

「植物学は、僕のイマジネーションのために、そのイマジネーションがなお一層よろこぶようなあらゆるイデーをかき集め、想起させるのである。つまり、牧場、水、森、寂寞、とりわけ、平和、および、それらの中に見い出される、安らぎ、これら一切は植物学のおかげで、僕の記憶にたえず思い浮かんでくるのである。」

「むかし、僕が一緒に生活した人々のような、素朴で善良な人たちのいる、平和な土地に連れていってくれる。それは、僕の幼い日のことや、無邪気な楽しみごとを思い出させてくれる。人間が生きながらにして受けうる最上の悲しい運命の中にあっても、なおかつ、その昔の楽しみを味わわせ、そして、今もって僕を幸せにしてくれる。」

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