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カラマーゾフの叫びは「唯一の真剣な無神論」―マクグラス『キリスト教神学入門』より

2010年01月28日 | 宗教・スピリチュアル
マクグラス『キリスト教神学入門』(378p)より、ドストエフスキーがキリスト教界に与えたインパクトについて。「神の不可受苦性」から「苦しむ神」へ。

>二十世紀の後半に、苦しむ神について語ることは「新しい正統信仰」となった。ユルゲン・モルトマンの『十字架につけられた神』(1974年)は、この思想を説き明かした最も重要で影響力のある書物と広く見做された。激しい議論の的にもなった。苦しむ神という思想の再発見へと導いたものは、一体、何であったのであろうか。三つのことが挙げられるが、そのどれもが第一次世界大戦直後の時代にかかわっている。これら三つの要因が集まって、神の不可受苦性に関する伝統的な観念に対する懐疑を広く呼び起こしたのである。

>(1)抗議する無神論の登場。第一次世界大戦の非常な恐怖は、西方の神学的考察に深い影響を与えた。時代の苦難によって広く認められるようになったのは、自由主義プロテスタンティズムが人間の本性についての楽観的な見解によって致命的な妥協をしていたということであった。こうして受けた傷の余波の中で弁証法神学が台頭したのは、偶然ではない。もう1つの重要な応答は「抗議する無神論」として知られる運動である。これは、神への信仰に対する深刻な道徳的抗議をするものであった。世界におけるあのような苦難・苦痛を超えている神など、どうして信じることが出来ようか、というのである。

>こうした思想の跡は、19世紀のフョードル・ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』に見出される。それは20世紀になってより十全に発展させられたが、しばしばドストエフスキーの生み出したイワン・カラマーゾフがモデルとして用いられた。カラマーゾフの神(あるいは、もっと正確に言えば、神の「観念」)に対する反抗は、無垢の子供の苦難が正当化され得るということの拒否から始まっている。アルベール・カミュは、そうした思想を『反抗的人間』において展開しているが、そこではカラマーゾフの抗議を「形而上学的反抗」という視点から表現している。ユルゲン・モルトマンなどの思想家は、「弱くない神」に対するこの反抗に、「唯一の真剣な無神論」を認めた。この非常に道徳的な形態の無神論は信頼出来る神学的応答を要求した。それが、苦しむ神の神学である。(378p)

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