前回、話題となった古川柳「左見右見して鰻屋へ山の芋」に追加したいのは「山芋が鰻になる」という表現があるということである。意味は「物事が急に意外なものに変わること。また、身分の低い者が急に成り上がること」(「広辞苑」)
隠語の「山の芋=僧」という意味を知らないと笑うことが出来ない川柳と比べて「山芋が鰻になる」の方はいかにも文字通りで、頭を傾げる必要はなさそうだ。この表現と川柳がどういう関係なのかがよく分からないのは残念だが、江戸時代の庶民は「鰻」と聞いて「山芋」を連想したのだろう。
「左見右見(とみこうみ)」という言葉から二つの方向を見るという話となった。「あ・こ」のペアから「あれこれ」「あれやこれや」「あちこち」「ああ言えばこう言う」「ああでもないこうでもない」など、もう一方の「そ・こ」のペアでは「そうこうするうちに」「それやこれやで」など多くの表現があることを見たが、それとも関連する日本語の「別れの挨拶」を今回は考えてみたいと思う。
日本語の別れの表現というと、先ず筆頭に挙げられるのは「さようなら」だろう。何の疑問もなく使っている日常表現なのだが、その起源を考えるとなかなか面白いことがわかる。今やローマ字で書かれ外国語でも使われる「Sayonara」だが、言うまでもなく「左様ならば」が崩れたもので、意味は「そのようなら」。これもよく使われる「じゃそういうことで」と同じ発想の表現である。
「そのようなら」の「そ」は、明らかに「こ・そ・あ・ど」の「そ」であるから、対話の相手を指して「あなたがそうおっしゃるなら」という意味で、もっと簡単な「それじゃ」、それが詰まった「じゃね」も結局同じ発想の表現ということになる。
こう考えると「さようなら・それじゃ・じゃ・じゃね」などは極めて「他人志向」の表現だと言えるだろう。その「他力」ぶりは西洋語や中国語、朝鮮語などと比べるとさらに際立って顕著だ。「再び会いましょう」と再会を祈念するのが「再見(北京語)、Au revoir(仏語)、Auf Wiedersehen(独語)、Arrivederci(イタリア語)」など。「神様のご加護がありますように」と相手の無事を祈るのが「Good by(英語)、Adios(スペイン語)、Adieu(仏語)」など。神に言及はせずともやはり別れる相手の安寧・健康を祈る「Salut(仏語)、アンニョンヒー・カセヨ(ケセヨ)(朝鮮語)」などで、これらに見られる、話し手の積極的な意志性が「さようなら」には奇妙に欠如しているのだ。強いて探せば英語の「Well, then」、仏語の「Alors」などに近い。
「さよなら」は日常的でも、その源流の「左様ならば」まで遡れば俄然厳(いか)めしくなる。実は、日本人は歴史上一貫して他力の発想で別れの言葉を使ってきたのだ。「左様ならば」の別の言い方が「さあらば・さあらばよ」で、前者は「さらば」、後者は「あばよ」になった。つまり、武士の「さらばじゃ」から町人・侠客の「あばよ」まで、その底は「他人志向」という大きな流れで繋がっている。
思えば、子供の頃、北海道で育った私は「したらね」と言ってよく友達と別れたものだった。時間空間ともに故郷から遠く離れて今ではもはや使うことはないが、明らかに「そうしたらね」の「そ」が落ちた、これまた他力志向の表現である。高校で同期だった友人、新谷恭明君が最近出版した歌集「林檎の感触」にあった歌をご紹介しよう。昔日の言語空間が懐かしく胸に蘇ってくる。
したらねとあなたは小さく手を振つて二人の暮らしに終止符を打つ 新谷休呆
応援のクリック、どうぞよろしくお願い申し上げます。
隠語の「山の芋=僧」という意味を知らないと笑うことが出来ない川柳と比べて「山芋が鰻になる」の方はいかにも文字通りで、頭を傾げる必要はなさそうだ。この表現と川柳がどういう関係なのかがよく分からないのは残念だが、江戸時代の庶民は「鰻」と聞いて「山芋」を連想したのだろう。
「左見右見(とみこうみ)」という言葉から二つの方向を見るという話となった。「あ・こ」のペアから「あれこれ」「あれやこれや」「あちこち」「ああ言えばこう言う」「ああでもないこうでもない」など、もう一方の「そ・こ」のペアでは「そうこうするうちに」「それやこれやで」など多くの表現があることを見たが、それとも関連する日本語の「別れの挨拶」を今回は考えてみたいと思う。
日本語の別れの表現というと、先ず筆頭に挙げられるのは「さようなら」だろう。何の疑問もなく使っている日常表現なのだが、その起源を考えるとなかなか面白いことがわかる。今やローマ字で書かれ外国語でも使われる「Sayonara」だが、言うまでもなく「左様ならば」が崩れたもので、意味は「そのようなら」。これもよく使われる「じゃそういうことで」と同じ発想の表現である。
「そのようなら」の「そ」は、明らかに「こ・そ・あ・ど」の「そ」であるから、対話の相手を指して「あなたがそうおっしゃるなら」という意味で、もっと簡単な「それじゃ」、それが詰まった「じゃね」も結局同じ発想の表現ということになる。
こう考えると「さようなら・それじゃ・じゃ・じゃね」などは極めて「他人志向」の表現だと言えるだろう。その「他力」ぶりは西洋語や中国語、朝鮮語などと比べるとさらに際立って顕著だ。「再び会いましょう」と再会を祈念するのが「再見(北京語)、Au revoir(仏語)、Auf Wiedersehen(独語)、Arrivederci(イタリア語)」など。「神様のご加護がありますように」と相手の無事を祈るのが「Good by(英語)、Adios(スペイン語)、Adieu(仏語)」など。神に言及はせずともやはり別れる相手の安寧・健康を祈る「Salut(仏語)、アンニョンヒー・カセヨ(ケセヨ)(朝鮮語)」などで、これらに見られる、話し手の積極的な意志性が「さようなら」には奇妙に欠如しているのだ。強いて探せば英語の「Well, then」、仏語の「Alors」などに近い。
「さよなら」は日常的でも、その源流の「左様ならば」まで遡れば俄然厳(いか)めしくなる。実は、日本人は歴史上一貫して他力の発想で別れの言葉を使ってきたのだ。「左様ならば」の別の言い方が「さあらば・さあらばよ」で、前者は「さらば」、後者は「あばよ」になった。つまり、武士の「さらばじゃ」から町人・侠客の「あばよ」まで、その底は「他人志向」という大きな流れで繋がっている。
思えば、子供の頃、北海道で育った私は「したらね」と言ってよく友達と別れたものだった。時間空間ともに故郷から遠く離れて今ではもはや使うことはないが、明らかに「そうしたらね」の「そ」が落ちた、これまた他力志向の表現である。高校で同期だった友人、新谷恭明君が最近出版した歌集「林檎の感触」にあった歌をご紹介しよう。昔日の言語空間が懐かしく胸に蘇ってくる。
したらねとあなたは小さく手を振つて二人の暮らしに終止符を打つ 新谷休呆
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日本の別れの挨拶が、みんな、「そのようなら」の意味を持つ言葉が起源になっていて、他の国々のが「再会の祈念」や「相手の無事の祈念」、「相手の安寧や健康の祈念」を表す意志性をもつのと対照的であることも興味深く読ませていただきました。
それは「他人志向」や「他力の発想」ということですが、よく言われる「する言語」と「なる言語」の違いがそこにも出ているように感じられ、「自然の成り行き志向」という言葉のほうがふさわしいように自分には思えました。
最後にウナギの話ついでという訳ではないのですが、「第20回「は」と「が」はどう違う」に投稿しておりますコメントにも目を向けていただきまして、ご意見・ご批判を賜りたく、何卒よろしくお願い申しあげます。
これらの「そのようなら」という意味の挨拶は、「あなたがそうおっしゃるなら」という意味でしょうか?
あなたの発言や行動だけではなく、今あなたと私の間にある状況すべてを指すのだと思っていました。
そうであるからこそ、一方的にこちらの言葉のみを綴る手紙の末尾にも「それではまた便りします」「それではよろしくお願いします」などの書き方ができるのではないでしょうか。
私が問題にしたのは、別れの表現の元々の意味、つまり語源ということです。
「それでは」も「それじゃ・じゃ」と全く同じで、もともとは聞き手を立てる表現だったことには変わりません。
今の意味を考えては、第49回で取り上げた、もう帰って来ている人に対して言う「お帰りなさい」も分からなくなります。
でも、私が言いたかったのも元々の意味のことだったのです。
元々、「あなたがそうおっしゃるなら」と言う意味ではなく、「こういう状況ですので」というような意味合いだったのではないか、と感じていました。
私の書き方が今の用法限定の話になってしまっていました。申し訳ありません。
第49回のただいまとお帰りなさいについては、大変興味深く、また納得したお話でした。