2006-2015 ひねくれた日常

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日本のとても平等な教育 2

2008年06月18日 | 身近なこと
今回私が読んだ本は、中公新書、刈谷剛彦・著「 大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史」という本です。


戦後新たに始まった教育制度の歴史から始まり、今のところの日本の教育の全体がわかります。

今回は、細かい内容は省略して、私がもやもやとして変だと思っていた、均質な教育にあたっての”平等”の考え方にポイントを絞っていこうと思っています。

戦前までは日本にもあった、階級のようなものは、戦後廃止されて国民は等しく平等となりました。

平等な国民に平等な教育をすることになったのです。

1950年代60年代あたりの不平等は、貧困による教育機会の不公平でした。

家庭の経済状態が高等教育を受けられる条件だったのです。

当時は高等教育を受けていない人の中にも能力の高い人がたくさんいました。

1970年だ80年代になると日本の経済成長に伴い貧困問題が姿を消します。

それに伴い、高等学校はほとんどの子どもが進学するようになり、大学も4割近くの子供が進むようになりました。

受験戦争が問題になりました。

そのころから今日まで教育の平等の問題というのは、能力の差によって、子どもが劣等感を持ってはいけない、という子供の気持ちに配慮したものへと変わっていきます。



これです! 分かっていて言葉にならなかった日本の教育が大事にしている”平等”です。

能力別学級編成がいけないのも、進学する生徒に対して補習をしてはいけないのも
劣等感を持つ生徒がいてはいけないからなのです。

杉並の和田中の夜スぺの問題も根はここですね。

結局全員を補習の対象とすることで、めでたしめでたしとなったようです。


これは、生まれつきの能力の問題を個人の責任として良いのか、という非常に難しい問題が含まれていて、日本では独自に情緒的に折り合いをつけた結果ではないかと思っています。

外国では、そもそも階級や人種差別などがあり平等ではないので、能力どおりに合理的に評価されているようです。

それを思うと、日本の平等の内容というのは、今までは、嘘があるような建前くさい、何となくインチキな平等ではないかと思っていたのですが、よく分かった今は、日本の実情に合ったアイデアものだと思いました。

ただ、真面目腐って、もってまわったややこしさと、腹芸のような、阿吽の合意みたいな、粘っこさがいやです。

この粘っこさの内容も今は分かります。

「人間には生まれつき能力の差がある。」という、道徳的に決して言ってはいけないのではないかというタブーを隠し持っているからです。

日本の”平等”奥が深いです。

ところが、ひとつケチをつけさせてもらえば、この”平等”子どもだけに適用されています。

大人になって社会にでたら、いきなり能力主義だし、仕事ができなくて劣等感を持っても自己責任だ、自己啓発だ、と言われるのです。

学校はどうやって責任とってくれるんですか。話がちがうじゃないですか。

大人にとっては”平等”は何を守ってくれるのでしょう。




やっぱり平等はよくわからないや。ということでした。



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