獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その17)

2024-06-18 01:39:55 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

「しかし、中村君。僕はあの坪内先生のシェークスピアは、好きじゃあないな」
「どうして? 高田早苗、天野為之、坪内雄蔵の3人は、早稲田の3博士と呼ばれて、この学校の名物じゃあないですか」
「高田先生には予科の時に、憲法の講義を受けたことがある。天野先生のことはよく知らない。坪内先生に至っては、あの芝居がかった講義をわざわざ聞くのは嫌なんだよ」
「芝居がかった、と言われればそれまでだけど、結構面白いですよ」
星湖の口調は、同級生になってもまだ甲府中学の頃の「将為」のままで、湛山を先輩として扱っていた。湛山は、
「もう同級生なんだから、普通に話せばいいじゃあないか」
と言ってみるのだが、星湖は湛山への口調を改めようとしなかった。
坪内雄蔵とは坪内逍遥のことで、明治の文学者、劇作家、評論家、翻訳家の先駆け的な存在であった。
湛山は逍遥が担当する英語の訳読の講義には出席したが、すでに有名になっていた「シェークスピア」の講義には出なかった。文学科は哲学科と英文科に分かれていたが、両科の合併授業も多く、湛山は英文科の授業にも時々顔を出したのだった。
人が生きていく時に、奇遇ともいえる出会いがいくつもある。早稲田での湛山にとって、当時「校長」という肩書きがあった鳩山和夫は、湛山が政界に入る戦後の大切な同志鳩山一郎の父親であった。また天野為之は、大学卒業後に湛山が入社する東洋経済新報社の主宰であった。
もし、湛山が坪内逍遥の「シェークスピア」を熱心に聞いていたなら、湛山がシェークスピアにのめり込んでしまった可能性も否定できない。文化や芝居とは縁がないように思われている湛山だが、同じ早稲田の教授・島村抱月の影響は受けているからである。
湛山の初期の論文の中には、イプセンの「人形の家」や当時の文芸協会、人気女優の松井須磨子について論じたものもある。
だが、運命は湛山のためにもっと別な大きな出会いを用意していてくれたのであった。それも、湛山が甲府中学で2度の落第がなかったなら人生の指針を決定したとも言うべき校長の大島正健との出会いはなかったように、今度の出会いも、一高受験に2度失敗していなければなかったことになる。
「人間万事塞翁が馬」
湛山は、その出会いを振り返って、後にそう呟くのであった。
その人物は、田中喜一という。喜一という本名よりは号の「王堂」で広く知られる。
哲学科に入学したものの、教壇で語られる哲学は湛山がこれまで学んできたドイツの観念論的な哲学であった。新しいものはほとんどなくて、授業に出ても形だけのノート取りに終わっていた。湛山は、大学での哲学に物足りなさを覚えるようになっていた。
ところが湛山が2年生になった明治38年(1905)、倫理学を担当していた藤井健治郎が外国に留学することになった。

(つづく)


解説

運命は湛山のためにもっと別な大きな出会いを用意していてくれたのであった。それも、湛山が甲府中学で2度の落第がなかったなら人生の指針を決定したとも言うべき校長の大島正健との出会いはなかったように、今度の出会いも、一高受験に2度失敗していなければなかったことになる。
「人間万事塞翁が馬」
湛山は、その出会いを振り返って、後にそう呟くのであった。
その人物は、田中喜一という。喜一という本名よりは号の「王堂」で広く知られる。

こうして、湛山は王堂に出会うのです。

 

 

獅子風蓮



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