獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その29)

2024-05-05 01:39:43 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
■第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第7章 世界平和の実現を目指して――1960年代
□1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」
■2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
□3)第二次中国訪問
□4)ソ連訪問
□5)晩年

 


2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
この間湛山がもっとも注視していたのは、1959年(昭和34)9月25日にキャンプ・デービッドで行なわれた米ソ首脳会談であった。まさに冷戦の雪解けを象徴する画期的会談であった。まったく同時期に、周恩来と密かに「日中米ソ平和同盟」について協議してきた湛山としては、米ソ関係改善の兆しに勢いづかざるをえなかった。10月、ソ連・タス通信記者と会見した際、湛山は「(米ソ首脳会談の結果は、極東情勢、とくに日本にも影響を与えるだろう。日本はソ連および中国との関係を改善することとなろう。フルシチョフ首相の軍備撤廃提案はきわめて関心を引くものであり、首相が平和共存を追及する意思を示したことは歓迎すべきことだ。日ソ両国間の友好関係強化については、できるだけ早く平和条約を締結することに賛成する」と述 べ、フルシチョフに会いたい旨伝えた(『朝日新聞』10月11日)。続いて翌60年(同35)1月には、前述したとおり、渡米する岸に対し、①日米両国は日本と中国との国交正常化のために協力する、②アジア安定のため「日米中ソ印」五ヵ国会談の開催を提案し、アイゼンハワー大統領の同意を求めるよう努力してほしいとの進言書を提出した。これに対して岸は否定的であった(『同』1月13日夕刊)。

安保騒動後、7月19日に池田内閣が誕生すると、必然湛山はこの新政権に対して期待を強めた。とりわけ池田新首相とは、石橋内閣期の蔵相として気心の知れた関係もあり、新内閣の外交路線の転換に湛山は多大な関心を寄せたのである。しかし結局池田政権の外交方針も従来の冷戦路線から一歩も出ることはなく、湛山は失望を禁じ得なかった。何といっても、米ソ平和共存を全面的に支持する湛山の国際認識と日本政府のそれとが大きくかけ離れていた。「世界はキャンプ・デービッド以来、大きな変化に直面している。……歴史の流れは疑いもなくただ一つの方向を指して力強く進んでいるのである。今や人類は平和共存というまったく新しい時代の戸口に立つに至った」と国際政局の大転換を予測した湛山は、「池田君は、日本は自由陣営に属するから中立主義はあり得ず、したがってアメリカと運命共同体を形成する以外に手はないから、軍縮の討議は大国にまかせておくというのであろう。……そのような外交政策は実質的に日本は米国の一州の如き役割を演ずることになり、そこには日本独自の立場も見識も存在しない」と厳しく批判した(「池田外交路線へ望む㊤」『同』8月8日『全集⑭』)。
もう一つは、日本政府の社会主義・共産主義への偏見が依然濃厚なことであった。湛山自身は戦前期より社会主義経済、つまり計画経済の人的能率の低劣性や人的指導性の欠陥を指摘して、資本主義経済の利点を説くなど、あくまで社会主義に対する資本主義の優越を信じてはいたが、かといって資本主義の絶対的優位説に立脚するわけではなく、社会主義や資本主義を超越した新しいイデオロギーの創出を不可欠と考えていた(同上および石橋湛山「私の信条――資本主義と共産主義」「湛山回顧⑫」146~8頁参照)。また「レーニンの革命はロマノフ王朝の暴政の所産であって、必ずしも資本主義爛熟の結果からくる必然的崩壊とばかりはいえない」と論じ、共産主義諸国との接触を危険視する思想や、フルシチョフが推進する平和共存路線を「赤色帝国主義独特の謀略」などと警戒する態度を退けた(「池田外交路線へ望む㊦」『朝日新聞』8月9日『全集⑭』)。大正デモクラシー期の1910年代、『新報』の進歩的言論人としてロシア革命を全面的に肯定し、シベリア出兵を否定したリベラリストとしての思想と論理がここでも健在であった(前掲『石橋湛山研究』第三章参照)。
かといって湛山は社会党の標榜する「非武装中立主義」に与したわけではなかった。むしろ同党の反米的外交方針とは一線を画した。そして、日本経済が対米貿易と不可分の関係にあり、日米両国が同一の政治体制にある以上、日米親善が絶対の要件である、と是認した(前掲「池田外交路線へ望む㊦」)。要するに湛山は、平和共存体制下では、冷戦体制下とは異なって、「日米親善」と「日中・日ソ提携」とが二律背反の関係に立つのではなく、十分両立するものであるから、中ソ両国との関係を阻害したり、交流を隔離しなければならない要件とはならない、と認識していたのである。この点にこそ平和共存体制と冷戦体制との根本的差異があると理解していた。それゆえ、日本が日米の緊密な関係を基礎としつつ、さらに日中・日ソの協調関係を重層的に組み入れることによって、アジア・太平洋地域の平和と安定を確立し、その状況の下で日本は国家的繁栄を企図すべきである、と論じたのである。ただし湛山は成立間もない新安保条約を是認するものの、安保条約と憲法との矛盾を認め、本来憲法改正ができない限りはいさぎよく憲法を遵守するのが正当な態度であるとし、冷戦時代には非現実的であった第九条は平和共存時代を迎えた今日では現実性をもつに至ったと論じた(同上)。
ここにおいて湛山は、世界の新しい動きに即応していくにはわが国の政治状況を本質的に是正しなければならないとの決意を固め、1961年(同36)6月15日、第一ホテルの一室に安倍能成(元文相)、加納久朗、西春彦(元外交次官)、松永安左衛門(九州電力会長)ら長年の知己や政界の同志約20人を招待し、年来の構想である「日中米ソ平和同盟」を披露した(前掲「石橋湛山年譜」416頁)。
この構想は、指摘するまでもなく、冷戦否定の思想に立脚していた。すなわち、冷戦は世界を東西に分極化し、政治、経済、軍事、イデオロギーなど多面的に敵対する事態を生み、貿易立国日本にとって死活的な自由貿易システムを阻害したばかりか、もしも冷戦が第三次世界戦争へと発展すれば、核兵器による世界文明の破滅と人類の滅亡をもたらす危険がある。それゆえ湛山は、1950年代末期に生じた米ソ両超大国間の緊張緩和の動きを積極的に肯定した上で、日中・日ソ両関係の改善を模索しつつ、そこにアメリカを加えた四ヵ国の多国間関係を再構築することにより、占領期以来の日本の「対米従属」路線を「自主独立」路線へと修正するよう主張した。と同時に、冷戦後のアジア太平洋地域における日本の安全保障体制の確立をも意図した。つまり、多極化時代の到来にもかかわらず、依然日本政府には独自の立場も見識もなく、その大国任せ、米国依存の体質に変化を見出せない点を憂慮した湛山は、日本は経済力を強め、米国と対等となる一方、国連の世界的役割の強化にも貢献し、中国を含むアジア諸国やソ連などとの多角的外交を展開することにより、対米偏重に依拠した日米安保体制からの脱却を提唱したのである。
このとき湛山は、「日中米ソ平和同盟などという大げさな表現ではなく、もっと慎ましやかな言葉はないものかといろいろ考えたが、よい案が思いつかない。結局、これが私の気持を一番よく表している」と述べた。これに対して安倍や松永は、「石橋君、そんな夢みたいなことを言っても話にはならんよ」と応じた。当時の日本人の国際政治観からすれば、それが至極当然の反応であった。そこで湛山は本論を打切り、雑談に切り替え、時局談を重ねて散会したという(前掲「日中復交にかけた石橋さんの夢」44~5頁)。

以上のように湛山の脱冷戦の主張や行動は、当時、はなはだ現実性を欠いた夢想家による提言であり、奇異な政治行動としての印象を与えたにすぎなかった。日本政府および自民党の首脳はもとより、湛山の同志ですら、この見解に留意せず、また大手新聞などマスコミもこれに注目した形跡はない。
それでも湛山はこの「日中米ソ平和同盟」に執着した。論文「『日中米ソ平和同盟』の提唱――はたして出来ない相談か」(8月『湛山叢書』第三号『全集⑭』)は、湛山の考え方をより具体的に伝えている。その論点とは以下のとおりである。

そもそも冷戦体制は世界にとって不合理かつ不利益であり、平和共存こそ本来望ましい。とくにアジアで日本と中国が対立し、日本とソ連がいぜん平和条約を締結できないなど、事態は混迷している。一体なぜか。
(1)まず日ソ関係改善の障害は北方領土問題である。元来北方領土の経済的価値は日ソ双方にとって小さいのに比して、その軍事的価値が大きい。これが問題の解決を困難にしている。すなわち、ソ連が国後、択捉等の諸島を日本に返還しないのは、アメリカが琉球、小笠原、そのほか日本各地に多数の軍事基地をもち、ソ連に対して脅威を与えているからである。もし南千島を日本に返還し、そこに米軍が移駐する事態ともなれば、ソ連はますます軍事上不利となる。したがって米ソ間の対立を無くし、軍事上の争点を除去してもらわねば、日本がどれほど日ソ平和条約の締結を急いでも無駄である。換言すれば、日ソ関係の良化のためにはまず米ソ関係を改善しなければならない。
(2)日中関係が不正常な状態にあるのは、アメリカが中国の分裂を助長する行為を取っており、日本もアメリカに同調しているからである。それゆえ日米ともに同罪だとする中国の言い分ももっともである。つまり日ソ関係と同様、日中関係でもアメリカが介在して両国の関係改善の妨げとなっている。とすれば、日本と中ソとの平和条約締結のためには、ぜひともアメリカを加える必要がある。換言すれば、今日の日米安保条約は日米間だけのものだが、これを中ソにまで拡大し、相互安全保障条約へと発展できれば、ここに初めて日本も安全を確保できるし、アメリカ、中国、ソ連とも友好関係を樹立できる。同時に世界全体にも平和をもたらすことができる。
(3)ただし問題は台湾の蒋介石政権の扱い方である。結局、この問題の真の解決方法とは、中国と台湾の双方がともに武力の不行使を取り決め、互いに軍備を撤廃し、その後に台湾問題を中国の国内問題として中国人自身に解決を任せる以外にはない。蒋介石の中国本土奪回など、世界人類の大多数の念願に反する非人道きわまりない企てである。
(4)いずれにしても、米ソ両超大国がその敵対関係を清算することを必須条件とする。しかしもし両国が世界平和について重大な責任を負わない場合、日本はかねて自由主義国としてアメリカ陣営の指揮下にあるが、今後は日本小なりといえども、理に従い義に従って人類のため自ら是を是、非を非として、行動することを声明すべきである。

すでに見たとおり、湛山はこのような構想を暖めながら訪中して周恩来首相との会見に臨んだわけであり、続いてフルシチョフ首相との会談を目的として訪ソを、そしてさらには仕上げのために訪米する意図をも抱いていた。

 


解説
湛山はこのような構想を暖めながら訪中して周恩来首相との会見に臨んだわけであり、続いてフルシチョフ首相との会談を目的として訪ソを、そしてさらには仕上げのために訪米する意図をも抱いていた。

池田大作氏も、訪中し、訪ソし、戦争阻止のために尽力しました。
池田氏の行動は、湛山の行動をモデルとしたものとして、私には映ります。

そのへんの舞台裏の話を、誰かご存知ではないでしょうか。

 

獅子風蓮



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。