獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その19)

2024-06-20 01:56:22 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

王堂が「チカゴ大学」で学んだ哲学は、プラグマティズムであった。これは、イギリスの近代的経験論の伝統を継承し、進化論の影響も加えて19世紀末のアメリカという自由な世界で発達した哲学であった。「実用主義」、「功利主義」とも訳される。思想や知識を生活や実践と切り離しては考えない、という哲学である。
「何か、陽明学に似ているような」
誰かが机の後ろで呟いた。陽明学は儒学のひとつだが、「理一元論」を基礎としている。
「こうして私はチカゴ大学で5年間を学びました。このプラグマティズム哲学を知ったことは、学んだことは、私にとって最大の収穫でした。いや人生の収穫と言っても過言ではありません。私のアメリカ留学は8年間に及びました。当初、私が驚いたのは、一般のアメリカ人は日本をイギリスか中国の属領だと思い込んでいたことです。もっとも私のように無一文で渡米する人間を見たら、少なくともイギリスの属領と思われても仕方ありませんな……」
王堂の苦笑に、学生たちも和した。王堂の話には微笑ましい雰囲気がいつも漂っていたのである。そこまで語って王堂の回想は終わった。
それから後のことは、湛山たち学生にはこんなふうに伝えられた。
帰国した王堂先生は、ドイツ観念論哲学に支配された日本の哲学・学問界によって冷遇された。王堂に日本国内での学歴も実績もなかったことも災いした。王堂は、一時は英語しか教えることの出来ない教壇に立たされた。それが東京高等工業学校であった。そして、 藤井教授の代わりに非常勤講師として早稲田大学にやって来たのだった。
分かりにくかった王堂の授業が、次第に分かりやすいものになったのは、湛山が「プラグマティズム」の本質を理解した時からであった。本質を理解してみると、この哲学は湛山が幼い頃から「経験こそ一番大切ではないか」としてきた体験・経験主義という自分の体質に最も適している哲学のように思えた。
「これだ、これだ。すっきり胸落ちのする哲学だ。合理的で、本当はとても分かりやすい」
そう感じたのは湛山ばかりではなかった。授業に出席していた学生の半数以上が、湛山と同じ気持ちであった。
「そうだよ。ドイツの観念論哲学に疑問を持てば、王堂哲学がよく分かるんだ」
湛山は、もうひとつ首を傾げる同級生に、プラグマティズムを「王堂哲学」と呼んで説明した。
「いいかい? ドイツ観念論は、人間が持っている思想だとか知識を、そのものだけで考察する。つまり哲学を考えるだけのこととして、実践だとか技術の上に置く考え方なんだよ。でも、実はそれは変なことなんだ。哲学といえども人間の生活に即して考えたり、生活に密接なものとして実践していかなければ、それは虚学になる。そこへいくと王堂先生の哲学は、言い換えればプラグマティズムは、作用主義、実用主義。哲学というものの基準を人間の生活そのものに置く。もっと柔らかく言えば、実際の人間生活にどう役立てるか。それがなければ哲学は学問ではない。王堂先生の言わんとすることは、そういうことなんだよ」
湛山は、この「王堂哲学」こそ自分が大学で出会うべき哲学、求めていた哲学であると悟った。湛山にとって望月日謙、大島正健との出会いに続く第三の「人生の師」との邂逅であった。悟ってしまうと「王堂哲学」は、面白くて仕方ないものに変わった。
王堂の哲学とその人間性が、1年間でいかに学生たちの心を掴んでしまったかを示すエピソードがある。英会話の担当講師であった高杉滝蔵が、授業の最中に質問した。
「今の日本で一番の哲学者は一体誰だと思うかな?」
もちろん、英語での質問である。高杉は、学生たちが答えやすいように当時有名だった哲学者の名前を挙げた。
「元良勇次郎先生かね、桑木厳翼先生かね?」
するとその名前には、学生たちは一斉に「ノー」の返事で対応した。一斉に「ノー」であったことに、高杉は怪訝な表情をした。
「じゃあ、一体誰なんだ? 君たちが認める日本一の哲学者は?」
「アイ・シンク・プロフェッサー・キイチ・タナカ(私は田中喜一先生だと思います)」
指名された学生は中村星湖であった。星湖は立ち上がってはっきりと王堂の本名を口にした。湛山は、星湖を見て微笑んだ。
「キイチ・タナカ?」
高杉は再び怪訝な顔をして、首を傾げた。
「知らない名前だなあ」
日本語で言ってから、ほい、しまった、日本語を使ってしまった、という顔をして、別の学生に答えさせた。するとまた、「プロフェッサー・キイチ・タナカ・イズ・ベスト・フィロソフィスト・イン・ジャパン(田中喜一先生が日本一の哲学者です)」
次の学生も立ち上がって、
「アイ・シンク・ソウ(私もそう思います)」
高杉は、怪訝な表情のまま尋ねた。
「フウ・イズ・ヒー(そりゃあ、誰かね)?」
そこからが大変だった。王堂を説明するのに、学生たちはあれこれその特徴や、自分たちの西洋倫理学史の講師であることを、貧困なボキャブラリーの中から探し出して答えた。 高杉にもやっと「キイチ・タナカ」が誰か理解できた。
「オオ! ザッツ・プロフェッサー・レッド・オブ・ネックタイ(赤いネクタイの先生のことだね)」
その後、教室中が大爆笑になった。

(つづく)


解説

湛山は、この「王堂哲学」こそ自分が大学で出会うべき哲学、求めていた哲学であると悟った。湛山にとって望月日謙、大島正健との出会いに続く第三の「人生の師」との邂逅であった。悟ってしまうと「王堂哲学」は、面白くて仕方ないものに変わった。

湛山には、3人の得難い師匠がいたのですね。

 


獅子風蓮



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