獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その23)

2024-06-24 01:00:18 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

明治40年(1907)7月、湛山は卒業した。
「君が文学科哲学科の首席だ。よく頑張ったな」
英語訳読担当の内ヶ崎作三郎教授から、そう告げられた時の湛山の驚きは一様ではなかった。「英文科の首席は君の親友の中村君だ。だが、文学科を包括しての首席は君だから、特待研究生には君が選ばれた」
特待研究生という制度は、早稲田大学の優れた学生を学費付きの研究生にしてさらに研鑽を積ませ、将来早稲田の教授にしようという目論見であった。今日の大学院のようなものである。
湛山は毎月20円を大学から支給されて、あと1年大学に残ることになった。宗教研究科が湛山の専攻した学科である。その年の12月には修身科と教育科の無試験検定に合格して、中等学校教員免許状を与えられた。
しかし、そのまま大学に残ってゆくゆくは教授に、という湛山の理想は破られることになった。特待研究生は、1年間の勉強の成果を論文にまとめて提出することになっていたが、湛山はその論文を出さずに終わるのである。
一説によると、大学の実力者であった坪内逍遥が湛山を評価しなかったために推薦も貰えず、嫌気がさして湛山は論文を書かなかったとも言われるが、それは違う。湛山が、そのような理由だけで学問の成果を放擲するはずはない。また、もし逍遥との確執があったなら、湛山が後年、「維新以後の日本の思想界の四大恩人」とまで言わないであろう。確かに湛山が本科に在学中は「あの芝居がかった講義ぶり」に興味がなかったが、回想では「思えば惜しいことをしたものである」と反省している。
湛山が逍遥には生意気な学生だと映っていたかもしれないが、それが原因で湛山が教授候補として大学に残れなかったわけではない。
実は大学の方針が変わったのが最大の原因であった。将来の教授候補を特待研究生制度によって養成しようという考えを、学校が捨てたのであった。
学校側が論文提出の義務を解除したことが、結果として湛山を大学にとどまらせずに、社会に出すことになった。
「さて、どういう仕事を探したらいいものか」
明治41年(1908)7月、早稲田大学宗教研究科を修了した湛山は、どうやって食っていくかを含めて、これからの人生を否応なく考えなければならなくなった。
その時、社会に出るのに手を差し伸べてくれたのが、島村抱月であった。
「石橋君、いくら中等学校の教員免状があるといっても、東京では中学校の教員にはなれないよ。窓口が狭すぎるんだ。ただ、英語の免状なら効き目があってね、地方に行けば40円くらいの月給で雇ってもらえるだろう。だがね、ここにも問題があるんだよ」
抱月は、自分の教え子たちが地方の教員になって苦労しているのを知っていた。
「地方の学校だってほとんどが公立だろう? すると、帝大と高等師範の出身者が多くて学閥を作ってしまうんだな。私学出の者は何かあると馘の対象にされてしまうのが実情なんだよ」
湛山は甲府に戻って中学校の教員をやろうとは考えていなかったから、抱月がどうしてこんなことを言い出したのか分からなかった。が、抱月の意図を理解し得ないまま、湛山は抱月の話に聞き入った。
「要するに、官界も教育界も、さらには実業界すらも帝大、東京高等師範、東京高等商業などの学閥が牛耳っているのが現状なんだ。……しかし、こうした学閥が牛耳れない場所もある」
「どこですか?」
抱月の話に義憤を感じ始めていた湛山は、思わず聞き返した。
「言論と筆の世界さ。つまり新聞界と文芸界だよ。こればかりは帝大出身であろうが、高等師範であろうが、実力の世界。腕次第というものだ」
「なるほど」
「もっとも官学の出身でこの方面に志す者はいたって少ないというのも確かではあるがね」
湛山にも思いあたるフシはあった。
「君にはその腕がある。新聞界でも文芸界でも君の評論ならきっと通るよ。どうだい? そっちの世界に進んでみては?」
確かに今、何か職業を求めようと思っても、東京で早稲田出身者が容易に求めることの出来る仕事はない。ただ、原稿を書くことにおいては抱月の指摘したとおり、帝大だろうと高等師範だろうと、負ける気はしなかった。
自分のように大学卒業したての駆け出しでも、四百字詰め原稿用紙一枚で2、30銭にはなるだろう。
そんな計算は湛山にも出来た。
「ましてや、この時代だ。辞書を片手でもいいから少し纏まった翻訳でも引き受ければ相当の収入になると思うよ。いや、君に代筆をやれと言うわけではないが、僕の知っているある早稲田の卒業生は、尾崎紅葉や長田秋濤の代筆をしていたよ。有名な『椿姫』や『鐘楼守』なんぞはみんなその男の翻訳なんだよ」
抱月の言葉は、講師室を出た後まで湛山の耳に残った。
その当時の日雇い労働者の1日当たりの日当は50銭前後であった。大学を卒業して銀行に入れば月給35円が貰えた。そこの35円も官学出身者である。
「原稿を書く……」
湛山には文章への自信があった。
「抱月先生の言われるとおりかもしれないな」
湛山はこのまま東京で暮らすつもりであった。それには、自分の一番自信のある世界で生きていくよりほかはなかった。
「よし、文筆で勝負だ」
その決心はすぐに行動になって現われた。親しい向きに声をかけるのと同時に、自分でも先輩や知人に人を紹介してもらうため、あちこちに出かけた。そのうちに、
「石橋君、翻訳の仕事をしてみないかね」
渡りに舟と言えるような仕事の話が舞い込んだ。
「大隈重信先生が総裁をしている大日本文明協会というのがあるんだ。ここで海外の名著を翻訳し国内に紹介しようという企画を立てたんだ。やってみないか?」
「喜んで」
これが石橋湛山にとってジャーナリズム界への第一歩になった。

 


解説

「よし、文筆で勝負だ」
その決心はすぐに行動になって現われた。親しい向きに声をかけるのと同時に、自分でも先輩や知人に人を紹介してもらうため、あちこちに出かけた。そのうちに、
「石橋君、翻訳の仕事をしてみないかね」
渡りに舟と言えるような仕事の話が舞い込んだ。
「大隈重信先生が総裁をしている大日本文明協会というのがあるんだ。ここで海外の名著を翻訳し国内に紹介しようという企画を立てたんだ。やってみないか?」
「喜んで」
これが石橋湛山にとってジャーナリズム界への第一歩になった。

こうして、湛山はジャーナリズムの世界に飛び込むことになります。

 

獅子風蓮



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