■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。
(私はシニフィエさんの主張に必ずしも賛同するものではありません)
●の文章は、それについたコメントの引用です。
■私はこうやって心を持ち直すことができました。 投稿日: 2016年2月19日
ということで、みなさま、大変お騒がせしました。
これでもう騒ぎは終わりです。いつものように、静かに創価を去っていく人のために、いろんなお話をしましょう。
学会員さんとの対話の試みはもういいかな…ですね。
あのものすごい上から目線に出くわすと、かつての自分もこんなだったのかと愕然となります。あらためて創価の罪深さを感じるこの3日間でした。
たった3日でも創価脳との対話はぐったりと疲れます。コミュニケーションがまるでとれないからでしょうね。前にも言いましたが、決してボールを受けようとしないキャッチボールです。グローブさえ持たずに、片っ端からボールをこれでもかっ!と投げてくる(笑)それもマウンド上とかじゃなくて、2階の窓からたたきつけてきますよね?。で、本人はと言えば創価を愚弄する不届きものめ?成敗してくれる?!って本気で思ってますよ。可愛いといえば可愛いんですが、やっぱり可哀想ですよね。彼が覚醒したら本気なだけに落ち込むでしょうね。
そこで今回のテーマですが、「私はこうやって心を持ち直すことができました。」とさせていただきます。
大なり小なり、創価がおかしいと気づいて、非活になる、脱会するということは、とても勇気のいることだと思います。いつも言うように、それまで「絶対に正しい」と信じてきた創価と、絶対に正しい生き方をしている自分が間違いだったということを受けとめるということですから、そう簡単なことではありません。いまでも立ち直れていない方がこのブログにコメントすることで、少しずつ立ち直っているという報告を聞くのは、とっても嬉しいです。こういう私も、まだ完全には立ち直れていません。ときどきわけもなく自己嫌悪感が襲ってきます。日常のちょっとしたことが、耐えられないほど辛く感じることがあります。でも少しずつ少しずつ、確実によくなっているという実感があります。グラフにするとジグザクながらもじわじわ上昇しているって感じです。
ここはそんなみなさんの休憩所になってくれればいいなと思っています。
そしてみなさんが口々に仰るように、一人でも多く、一日も早く、創価の魔の手から逃れるようになっていただきたいと思います。ジュンペイさんが信じているような「創価から離れると不幸になる」という呪いの宗教から脱出してもらいたいと願っています。ほんとうの自分の人生を取り戻して欲しい。近頃ほんとに心からそう思うようになりました。ちょっとは大人になったかな(笑)
また話が長くなりましたね。みなさん、前スレのことは、きれいさっぱり忘れて、またいつもの「対話を求めて」のいい感じに戻りましょう。
お騒がせしてすみませんでした。
「私はこうやって心を持ち直すことができました」
それぞれに辛い創価体験があると思います。でも今はこうして頑張れてます。
あるいは、まだまだ立ち直れてませんけど、自分の忌まわしい過去はこんなふうに思うようにしています。などなど、またみなさんで頑張れる体験談をお願いします。
どなたかもおっしゃってましたけど、過去に自分が折伏した友人に謝罪行脚にでかけたという方もけっこういらっしゃいましたよね。じつは去年、私も出掛けました。学生時代、さんざん創価の話を夜通ししていた友人の自宅に泊まり込んで、お酒を飲みながら「あのときはほんとにどうかしてた。許してくれ。すまん!」と頭を下げました。友人は笑って「許すも許さないも、そんなことひとつも気にしちゃいないよ。それにしても気がつけてよかったなあ」と心の底から喜んでくれました。謝りにいったつもりが励まされました。不覚にも涙が止まりませんでした。カタルシスってやつでしょうか?私はまだ少なくともあと何人かに謝らなくてはなりません。相手はそれほど気にしていなくても、自分が許せないんです。許してもらおうという虫のよさが、さらにまた自己嫌悪となるのですが、でもやっぱりこれはやらないとと思っています。以上、私からの報告でした。
みなさま、よろしくお願いします。
●雪風 (2016年2月21日 19:18 )
シニフィエさん、皆さん、大変お待たせいたしました。
改めまして……
では、本筋に進みます(長文です)
まず私は、随筆や告発文などの文章能力が特に優れた人間ではありません。
なのでこれから書く文章に誤解をされる表現や誤字脱字等も多少ある事を、始めにお断りさせて頂きます。
誤字脱字等あれば、遠慮なく突っ込みを入れてください。
これを読んで、脱会を決意する人もいれば、しない人も居るでしょう。
人によっては、なぁんだ、そういうことかぁ!今更ですよ、と特に驚く内容でもないかも知れません。
別にいいんです。
私がこちらに何を書き込んでみたところで、現在の創価学会にメリットを感じる人向けには書いていませんから。
人の表層だけを見て、あの人は、本当に素晴らしいと感じるならば、創価学会のイメージ戦略は、既に大成功していますから。
ハリボテの外側を、偶然にも見てしまったなら、もう信じるどころの騒ぎではないのです。
まず、
文芸部と言うのは、プロの小説家、詩人とカテゴリーされる作家や出版、記者、時に漫画家などで構成された組織です。
文化本部と言う、特殊なくくりになります。
芸術部と似ています。
私は、出版社の方から、創価学会文芸部の文化人カードと言うのを書き込むように言われて、(統監カードのような書類)著作物を二点以上提出するように言われました。
私は、今の文芸部がどうなっているのかは知りません。
文芸部員自体、全体数が何人居るのかは、はっきりと公表されていません。
まず、知らされる事もありません。
ただ、会合に来る文芸部の人数は少数で、いつも閑散としたものでした。
会場には、詩人、小説家、漫画家、出版業界の人、様々な立場の作家が集い、語らい合っていました。
その会合の状況を、作家カテゴリーのサークルと言えば、そういう雰囲気でした。
売れている先輩作家が、そうでない作家を創価学会の信仰を通して励ます……
もっと信心と折伏頑張って、世の中に認めて貰えるベストセラー作家になろうよ!それが広宣流布の闘いに繋がるんだよ!と、そんな感じの励ましが定番でした。
人によっては、その励ましが有難い?のかもしれませんが、プライドの高い人なんかは、マウンティングされる事を嫌いますし、ある意味、余計なお世話だと無言で眉を引きつらせたりしている様子の人も少なくはありませんでした。
作家の世界もカースト制度です。売れてない人は、当然引け目を感じます。で、もっと頑張って皆のハナをあかしてやる、と奮起して、信心にのめり込むのです。
会館に集う人数は少ないものの、そこの雰囲気は一種独特で、何だかギラギラした、ベタつきがちな空気が漂っていました。
「いゃあ私なんかは大した事ないですから……」
大概の文芸部員は、そういうセリフを口にはするものの、私の方が偉い、私の方が売れている、私の方が優れている、と、
決して口には出しませんが、会場に集う作家は皆、そのような眼差しで自信満々の含み笑い(半笑い)をしているように思いました。
向上心、努力、団結、友情……普通に聞けば確かに良い言葉ではあるんですが、その言葉を創価組織は、最大限に利用します。
必ず、絶対に、勝ち続ける!
常勝!大丈夫!必ず病気は治るよ!
まぁ……麗しの絆と言えば、そう言えなくもないが……それは相手が自分に誠実に接してい・れ・ば、の話です。
大概の場合、会員の自己陶酔を煽り、承認欲求を高め、褒め称え、成功者のビジョンを植え付け、高揚した会員から、功徳を餌に金を出したくて出したくて仕方ない気分にさせるのです。
させている本人も、それが詐欺に直結しているとは、まるで気が付いていない……
創価学会が一点の曇りも無い崇高なる平和の団体だと言うイメージを、会員は骨の随までたたき込まれているのだから、始末に負えないのです。
それは、文芸部であろうと同じでした。
良く考えて見て欲しい。
完全無欠な神様みたいなパーフェクト・ヒューマンが居るだなんて、何だかおかしいと思いませんか?
親が言うから?
皆が言うから?
著作物が売れに売れているから?新聞の指導に感動したから?
スピーチが素晴らしいから?
勲章が沢山あるから?
会館が立派だから?
世界中に広まっている(?)から?
その作られた偶像を崇拝して、酔いしれる事が本来的な人生の目的なのでしょうか?
自分の本当に譲れない「核」の部分とは、何ですか?
命を定義づけて分かったつもりになったとしても、死後の確証なんて、どこにも無い……生まれ変わる保証だって、どこにも無い。
前世や来世を信じるのは勝手かも知れません。
しかし、信仰が必要無い人だって、大多数居る!
ごり押しで信仰を勧めるのは、本当に余計なお世話なんです。
創価学会員の誰がそこまで羨ましいくらいの地位や名誉や財産を築き、未来永劫まで幸せになっているというのだろう?
池田老人は……本当に生きているのだろうか?
奴らは、えらく綿密で、時間と手間のかかるテクニックで、私を少しずつ、少しずつ、騙しているのだと……そしてこのシステムに気付くのは、並大抵の事ではない……例え私以外の者であっても一度、死にかける位じゃないとこの複雑な洗脳の仕組みに気が付く事が出来るかどうか分かりません。
中央の人間は、会員の事を、単なる家畜を飼うようにしか感じていないでしょう。
金と言うノルマを回収さえすれば、あとは末端の問題……
金をとことんまで絞り取られた末端の会員の心が、スカスカの絞りカスのようになったところで、自殺しようがどうなろうが、とどのつまり、知った事ではないのです。
集団は、時に狂気を内包する……一人一人は個人的に話せば確かによい人だけれど、集まるとあの集団は、何をするか分からない、そう感じる時があります。
何もかもが嘘でインチキの様に感じます。
池田先生のお手伝いをして欲しいと言われた私は、文豪トルストイや、フリードリヒ・ニーチェ、サムエル・ウルマンなどの著作物を渡され、感性を研ぎ澄まして、感動的かつ共感した文章を出来るだけ書き出して欲しいと頼まれました。
私は、その指示に従い、継ぎ接ぎに、でも、一生懸命書き出してゆきました。
そして、その記録媒体を、文芸部の幹部に渡す作業を繰り返しました。
意味が分かりませんでしたが、一応やる事はやりました。
ある日の会合での事……私の打ち出した文章が……そっくりそのまま壇上の池田大作に読まれている……
私は、何と言えない気持ちになりました。
人目も憚らずその場で、ぐぇっ!と吐き気を催しました。
そう……池田大作の指導が全て過去の文豪や偉人、哲学者、大企業の社長や著名な作家や無名の作家を含むコピーの羅列であり、テンプレート(定型文)の使い回しだったとは……
そこで活動のからくりが、見えてしまいました。
創価の活動は、究極の現実逃避でしかないと。
やられた……ここで、私がいくら本当の事を言っても、誰も信じはしないだろうと。
なぜならば、池田先生のイメージは、ここでは絶対なのだから。
池田先生が言った言葉は、例えば仮に、どんなに売れてない無名な作家の定型文でも、感動してしまう人間たちが、沢山居るという狂気……
誰が書いたかは、どうでもよく、あくまでも、「先生」が、声を出してスピーチする事が重要ポイントだったのです。
瞬時に消し飛ぶ、自分自身のアイデンティティー……
それほど有名でない私は、ただ利用されて、使い捨てカメラみたいに毎回リサイクルに出されるだけなんだろうと思いました。
「もう一回いい?」
「頼むね!ありがと!サンキュー、サンキュー!」
そこの部分だけは、確かに池田の台詞でしょう、しかし……
パクりの天才、これこそ、池田先生という方なのでした。
この世の中は、バランスを取りながら成り立っていると思ったし、少なくとも今までは、そう思って来たつもりだった……
だけど、世の中は、始めっからバランスなどとり切れていないのだと言う事に、ある日気が付くのです。
どこまでも平等な世界などあり得ない。
恒久平和など、あり得ない。
絶対的に平和な世界など、机上の空論だと思いました。
株価の乱高下が全くない世界だって、普通考えたってあり得ません。
世の中は、何かに対して、何かが犠牲になる事によって、成り立っていると言う事に、早く気が付くべきだと思いました。
勝つ者がいるから、負ける者が出る。
損害を出す者がいるから、得をする者が出る。
だから、世の中の人間が全員、常に勝ち続けるとか言うのは、利にかなうはずがないのです。
例えば、
どんなに願ってみても、
どんなに祈りを捧げても、
世の中の人間全員が全員、トップアイドルにはなれない。
センターを勝ち取るのは、ただ一人だけ!
負けた人間は、勝ち続ける人間の犠牲でしかない。
こんなにシンプルな構造……
世の中の夢は、9割は叶わないように出来ている。
けれど人間は、みんなが幸せになりたい!
負けた人間はどうなるの?
いつでも勝ちたいし、利益を得たい。
一人残らず、幸せになりたい!
けれど、完全に不幸をなくすことなど現実的には無理なのです。
大いなる矛盾。
当時は、こんなにちっぽけな自分でも信仰を持ち、修行をする事で、そうした不平等が作り出す犠牲を限りなくゼロに近づける事が出来ると信じていました。
いや、あまり信じていないまでも、信じる努力はするべきなんじゃないか、と考えていたし、または活動家になり、人から言われるままに行動する事で、世界中が平和でいられたりしたらいいと思っていました。
正義の名のもとに、何回同じ事を、馬鹿のように繰り返して来た事でしょうか?
それは、全くの無駄、徒労に終わってしまったと思い知りました。
積み上げて来たと思っていた宝の山は、実は山ではなく、底の見えない落とし穴であり、又は蟻地獄のようなものでした。
私は、知らず知らずに、人を罠にかけるための落とし穴を、真剣に掘ってしまっていたのです。そしてそれはまるで地獄の深い深い釜の様相を呈していました。
尋常ではない勘違い……
その後、何を見ても聞いても嘘くさく感じるジレンマに陥り、何か現実と虚構の世界の境界線が非常に曖昧になってしまいました。
「池田先生」と言う人物は、自分の為なら何でも利用する人……
余りの騙しの手口の鮮やかさに、茫然自失となってしまいました。
「全部私がやりました!」
「頼むね!」
「文化に国境はない!」
「何事も、一番になりなさい!」
「自分自身に勝て!全て自身の弱い心との闘いだ!」
池田大作名誉会長の虚構と狂気の台詞が、私の今にも崩れそうな脆弱な心に、骨の随まで虚しく響き渡りました。
後にも先にも、もう戻れない……
詐欺に遭った……騙された……
もう、二度と立ち直れないかも知れない……
私の目は、節穴だった……何かを極めたつもりで生きてはいたが、実は何も本当の事が見えてはいませんでした。
●pi (2016年2月21日 21:42 )
こんばんは?piです。
雪風さん、ありがとうございます。
それを読んで、思いだしました。
以前、先生に仲間で研究論文を提出したことが、ありました。私の友人、数人が書いたものです。それが、あろうことか池田先生のスピーチに大々的に使われてしまいました。後で、こっそり、友人が教えてくれました。その内容に決定的な間違いがあったにもかかわらず、そのまま引用されていたと。先生は、なんでもわかっているはずなのに、変だな。と思いました。
もちさん、私もSの名前を一生背負っていかなければなりません。辛いけど、大丈夫ですよ。外部の方が、優しいからね。
学会の中にいると、『世界は、厳しくて辛いことばかり』と認識してしまいます。色メガネで世界を見てしまいます。思い込ませるんです。怖いですよ、学会は。
あと、もう一つ、学会の『幸せ感』は、辛い階段を一つ一つ登るイメージですね。いつか、安穏の日々がやってくる。と
私がいつも、イメージしていたのは、金持ちか有名になるか、あと、立派な人、世間から誉めたたえられる人、そういう人にならないとダメって考えてました。目標は四条きんごでした。今は、普通でいいと思えます。本当、ラクです。
●ナオ (2016年2月21日 22:23 )
こんばんは。
昨年末に脱会済の、元二世、ナオです。
雪風さんの勇気に感動しました。
身体中に鳥肌が立ちました。
私が脱会する前に、哲学書を沢山読んだ時期がありましたが、本幹で聞くメッセージは、ほぼ何処かで見かけた内容だと不審に思ってましたが、今、はっきりとわかりました。ありがとうございます。
おかげさまで、脱会の罪悪感が薄れていきます。
雪風さんの苦悩は、私などとは比べ物にならないほど深く大きいと思いますが、必ず癒える時が来ると思います。
ご自愛くださいね。
あまりにも、凄いコメントにいてもたってもいられず、書き込みいたしました。
乱文をご容赦下さい。
●スマイル (2016年2月22日 05:11 )
本部幹部会での演出、うまくやってましたよね。
会長といえど、前座でした。
ときには、会長の話し中に割って入場してきて、「お前の話は面白く無いよ」とか言ってました。
秋谷会長の時でした。
スピーチや著作など他人に書かせておいて「私が書きました。書いて書いて書きまくりました!」と自分の功績にしてたんですね。
雪風さんの告白、創価脳なら「私の文章が池田先生のスピーチに使われていた。嬉しい。」となるのでしょうね。
雪風の告白、単なる言葉の流用では済まされない話だと思います。
ある刀匠が、精魂込めて作製した刀剣を本部幹部会で池田が「私がつくりました!」と言ったら刀匠はどう感じるでしょうか?もうビックリですよね。
私の場合に当てはめたら、年単位の研究をして精魂尽くして書き上げた学術論文を提出したら、執筆者(実際の執筆者)の名前がスマイルから池田にそっくりそのまま変わっていた。驚きとともに悲しさ、怒り、やるせなさ、無力感、様々な感情が沸き起こるでしょう。それを「信心でうけとめろ」と言われて無理矢理感情を押し殺すのでしょうか?
創価では感情を押し殺す場面が多々ありました。
疑問を感じても「凡夫の頭ではわからないから、信心で受け止めなさい」と。
今思えば、「創価は正しい」ということを、自分自身で必死に正当化しようとして、自己洗脳をしていたように思います。「この信心は正しい」「池田先生は正しい」「南無妙法蓮華経は宇宙の法則」「創価学会は正しい」と。そして都合の悪いことは「見ざる。聞かざる。言わざる」「この創価に対するネガティヴ情報は、信心を破る魔だ!」と。不祥事起こした幹部や公明党の議員、創価学会員がいたら「不祥事を起こす本人が悪い。信心は何もおかしく無い!」と必死に自分自身のアイデンティティを正当化しようとしてきました。
「創価がおかしい」と気付き始めた時、爆泣きした時が有りました。「俺は創価学会員だ!人類始まって以来の最高の宗教を信奉しているんだ!」とのアイデンティティが壊れていく、自分自身が壊れていく、脳が壊れていく、怖くて、悲しくて、生きていけるのか不安で、また今までの人生に対する後悔「俺なにやっててん?」、信じていたものに裏切られた悲しさ、それでいて「ウソであってくれ」と淡い期待をする感情、様々な感情が渦巻きました。
生まれてこの方ずっと創価で、名前も池田につけられた(そのような作業部署の職員がつけた)と信じていた。大好きな両親も創価。我が家は創価とともにあった。新年は必ず会館での新年勤行会。毎日の父の勤行の声、頻繁に訪れる創価の幹部。創価があるのが日常でした。
創価が心身の一部になってしまってます。
なかなかしぶとい心のシミです。
●あいす (2016年2月23日 09:28 )
雪風さんのお話は貴重なお話だと思います。
私はゴーストライターの話についてはどういう実態なのかよくわからなくて判断ができなかったんです。
池田センセをサポートする『チームイケダ』的な部署はあるとは思ってました。あれだけ忙しい人が全ての著作作業を自分でやるのは無理がありますので。ただ、色んな古今東西の感動的なエピソードや偉人の言葉などの引用はあくまでも先生が自分で読んだものからピックアップして、ご指導の中で引用するには正確に記述する必要があるからその部分を口頭で指示してチームイケダに原典を当たらせて抜き書きさせてそれを引用しているのだと思ってました。そういうサポートならアリだと思ってました。
ところが雪風さんのお話によると全く違いますよね。
チームイケダに本を読ませてそれぞれに感動した部分を書き出させて論文みたいに完成されたものにちょっと自分の言葉をくっつけたり言い回しをちょこっと変えたりしてそのまま使う・・。
自分で読んだわけじゃないじゃん!他人の感性を利用してただけじゃん!
っていうか、そもそも引用が多すぎじゃん!
そしてせっかくの感動的なエピソードも結局は『だから正義は勝たねばならない!』『悪は徹底的に攻め抜け!』的な話に結論付けするために利用してるんですよね。
本当に素晴らしい師匠なら、弟子に書かせたレポートをその弟子本人に発表させてくれると思いますよ。そして『私もその部分に感銘を受けたんだよ。そして私はこう感じたんだ。』と一段深い話をされる・・・。そんな場面を見た事ありますか?ないですよねー?
本部幹部会の同中なんか見てると、古今東西のいいお話を引用しまくってるのは先生だけで、あとの人はそういう哲学的な話は一切ありません。多分そういうのは許されてなかったのでしょう。『師匠より良い話をしたらダメ!』みたいな感じでしょうか。他の人に許されてるのは先生のスピーチか、大聖人の言葉からの引用くらいだと思います。だから話に深みがない。
それも今思えば先生神格化の手段だったんだろうなぁ。少なくとも先生一人でやったわけではなく、誰かブレーンがいてそういう演出を考えてるんでしょうけど。先生は自己顕示欲が強いから気持ちよく乗せられてたんでしょうね・・・。
何か改めて書いてみると最低な人だなぁと思います。
大体、他人に書かせた文章を自分の名前で発表してそれが後で書籍化されたら印税は全部自分の懐に入ってきますよね。がめつい!
●スマイル (2016年2月24日 06:33 )
このブログで雪風さんの告白ほど反響のあったコメントは未だかつてありませんね。雪風さん、本当にありがとうございます。ゆっくりと心を落ち着かせてください。
雪風さんの告発をお聞きしてから、創価ネットの池田氏の「ゲーテを語る(創価大学にて)」を見ました。
池田氏が、自分の言葉でない原稿を読んでいるだけの事がよくわかりました。他人が書いた原稿を読みながら、自分の言葉を挟んでいるのがミエミエです。
洗脳されていた時は全く気付きませんでしたが(;^_^A
池田氏が称賛を浴びている陰で、雪風さんの様に堪え難い苦しみを味わっている人々がいると思いを馳せると怒りさえ覚えます。
「パクリの王様」は、人を利用しまくった分、どこまでも利用し尽くされて死んでいくのですね。哀れな人生ですね。
【解説】
文芸部員だった雪風さんによる、痛烈な告発がなされています。
これまで池田氏にゴーストライターがいたということは広く知られていましが、そのゴーストライターを知らず知らずのうちにやらされていた本人の告発ですから、各方面に衝撃を与えました。
私も、雑誌「妙教」に池田氏のゴーストライター疑惑については書いたことがあります。
池田氏の代表的著作である『人間革命』はそのほとんどが、篠原善太郎氏の代作である疑いが強いことは、これまで指摘してきたとおりです。
しかし匿名の批判者もしくは怨念を持つ「反逆者」の著した本以外に、確実な文献的証拠としては『社長会全記録』がある程度でした。
今回私は、もうひとつの証拠を指摘したいと思います。
獅子風蓮のホームページ「宗教と倫理の間(10)」(小説『人間革命』の問題)
ここで提出した証拠は、私自身が見つけ出したもので、時期的にかなり早い時期の指摘と言えるでしょう。
また、絶対に池田氏には書けない論文を池田氏が自分の名前で発表していることも指摘しました。
獅子風蓮のホームページ「宗教と倫理の間(7)番外5」(『脳死問題に関する一考察』に対する疑問)
本論文は内容的に高度ですばらしい論文だと思います。
それでは何が問題なのかと言いますと、じつはすばらしすぎるところが問題なのです。 たいへん生意気な言い方になりますが、池田氏がこんな論文を書けるはずがないと、私は一読して思いました。
(中略)
「医学論としての脳死」に関する部分は、ほぼ百パーセント、代作でしょう。それ以外の部分については、池田氏の主張らしいものも認められますが、おそらくかなりの部分は代作と推定されます。ゴーストライターは、創価学会ドクター部あるいは学術部のメンバーといったところでしょうか。
本論文の真の作者は、池田氏の名において発表されたこの論文を見て、何を思ったでしょう。
私は、こうした作業を続けていくうちに、いつしか醒めた目で池田氏のことを見るようになりました。
獅子風蓮