●獅子風蓮(2021年1月23日 19:05)
獅子風蓮です。
連投、お許しください。
たらこ唇の天使さん、はじめまして。
問題は日蓮正宗にあっては、そのようなごく普通の男性を日蓮大聖人の御代官さまとして崇め奉らねばならない、ということです。
私は、創価学会にいたときにも、池田大作無謬論はおかしいと思い、発言してきました。
法華講に移籍したあとも、法主に信伏随従するべきだという窮屈な体質にはなじめず、結果、法華講みかつとなりました。
友人の住職が末寺のミニコミ紙に何か書いてみないかと言うので、「宗教と倫理の間」という文章を毎月書いて送りました。
「宗教と倫理の間」は私のホームページのマイアーカイブに載せてあります。
https://www.shishi-fu-ren.com/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96/
法主の「禅寺墓問題」が起きたときは、創価学会と宗門の言い分のどちらが正しいかを判断したいと思い、福島県の白山寺まで足を運び、確認し記事にしました。
その記事には、創価学会の主張の誤りとともに宗門側の主張の若干の矛盾を指摘したのですが、宗門の機関誌「妙教」には、その回は転載されませんでした。
まあ、創価学会も日蓮正宗もどちらかが100%正しくて、どちらかが100%間違っているということはないですよね。
最近では、宗門側の新型コロナ感染症に対する対応というか捉え方で、ひどいなと思うことがありました。
ネットで調べたら、「慧妙」の次の記事が見つかりました。
①2020年 5月1日号 新型コロナウイルスの猛威/激変しつつある世の中の様相/まさに『安国論』の描写のごとし
http://emyo.jp/2020%e5%b9%b4%e3%80%805%e6%9c%881%e6%97%a5%e5%8f%b7-3473.html
②2020年 6月1日号 「日蓮大聖人が控うればこその大現証!」/日本は驚異的に新型コロナの感染者が少ない!
http://emyo.jp/2020%e5%b9%b4%e3%80%806%e6%9c%881%e6%97%a5%e5%8f%b7-3538.html
日本の現状は仏罰なのか、功徳なのか、どっちやねん! とツッコミをいれたくなります。
創価学会は「四箇格言」をひっこめ、「立正安国論」もあまり全面的に出さなくなったようですね。
「立正安国論」は文字通り解釈すると、危険なんです。
牧口先生も原理主義者でしたから、「立正安国論」をそのまま信じて殉教してしまいました。
宗門も、「立正安国論」を現代的に評価しなおした方がいいと思います。
「立正安国論」の現代的な評価については、先ほどの私のホームページの「宗教と倫理の間」の最後の方にちょこっと書いてあります。
レヴィ=ストロースという人類学者が発見した構造主義という考え方があって、日蓮の思想を現代に移し替えるのに役立ちます。
平たく言えば、日蓮の生きた鎌倉時代の時代状況と思想状況を踏まえて、日蓮の思想をそのまま現代に移すのではなく、日蓮の思想の本質部分を切り抜いて、現代に持ってくるという感じです。
「じゃんけん」といえば、「石(グー)・鋏(チョキ)・紙(パー)」というのが一般的ですが、世界にはいろんな種類があって、例えば中国では「ハンマー・鋏・爆弾」だったり、インドネシアには「象・人・蟻」というのもあるとのこと。
日本でも、他に狐拳(きつねけん)というのがあります。
狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる、という三すくみの関係を、腕を用いた動作で合わせて勝負を決する。
通常は二人が向かい合い、正座して行なう。それぞれの手の姿勢は次のとおり。
狐 : 掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する。
猟師 : 両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の前に構える。
庄屋 : 正座した膝の上に手を添える。
ようするに、これらの遊びに共通するのは、「三すくみ」という「構造」だというわけです。
日蓮の思想の重要な「構造」はなんでしょうか?
その時代、何が正しい教えなのかをとことん考え、その教えを広めるためには、どのような弾圧があってもくじけないこと。でも、決して自分の誤りを絶対に認めないというわけでなく、智者に自分の考えの誤りを指摘されたら、あっさり自説を引っ込める謙虚さも持ち合わせる、といったところでしょうか。
私の好きな開目抄の一節「智者に我義やぶられずば用いじとなり」ですね。
獅子風蓮さまはそういう、外部の人からすればおよそあほ臭い教義や、美観ゼロのただの板切れでしかない(失礼…)幸福製造機クンをほんとに心の底から信じていらっしゃるのでしょうか?
たらこ唇の天使さんに御願いですが、相手が信じている対象について、もう少し敬意を払った表現をしていただけないでしょうか。
私は、自宅に安置してある御本尊を「美観ゼロのただの板切れ」とは思っていません。
むしろ、書体も美して、すがすがしいとさえ思っています。
信仰は個人の自由ですし、その対象については、お互い敬意を払いたいものです。
さて、「ご本尊を心の底から信じているか」ということですが、私の場合は、ホームページにも書いたのですが、創価学会に疑問を持った最初のころ、遠藤周作の『沈黙』を読んで、考え込んだことがあります。
農民の拷問の場面を見せられ、棄教すれば農民を助けてやると言われた、キリスト教の司祭ロドリゴは、神の「沈黙」に耐え切れず、踏み絵に足をかけた、というお話です。
私は、自分や身近な人の命より御本尊を守ることができるだろうか?
その時は、なんだか考えるのが怖くて、結論を先延ばしにしましたが、今では、迷わず、自分や身近の人の命を優先します。そういう意味では、私の信仰は、相対化されています。
以前、このブログで、大洪水の被害のあった時だったかな、御本尊を取りに家に戻って災難に会う学会員がいませんようにというコメントを読んだことがありますが、私も同感です。
命あってのものだねですから、ただの「もの」に命を懸けることはありません。
私の本尊観は、正宗の人から見たら、まさに破門ものですね。
かといって、日蓮正宗の信仰を必要とする人には、御本尊はやはり帰依の対象たりうると思うのです。
明治の文豪、森鴎外の書いた短編に、『かのように』という作品があります。
子爵家の息子である主人公は、国史を一生の仕事として研究するつもりでいましたが、どうも、神話というものを歴史とは別にしておかなければならない必要に迫られて、すぐには研究に手をつけられないでいます。
何故神話を別にしなければならないかというと、長い歴史の積み重ねの結果、神話に書かれていることは現実には起こってはいないということがよく分かるからであり、そういうものを、国の歴史とごちゃまぜにして記述する訳にはいかないからです。
しかし、精神的倫理的役割を果たしてきた神話を、一概に「嘘だ」と言って切り捨ててしまうというのは、危険思想であるという非難を免れないだろうと考えた彼は、国史と神話の折り合いをどうつけるかということに悩んでいます。
そこで、さらに考えを進めた彼は、しかし世の中で一番正確とされている数学においても、点だの線だのというものは厳密には存在せず、ただ、点と線が存在しないままでは幾何学が成り立たないから、あたかも点と線がある「かのように」扱っていることに気づきます。
こうして見ていくと、宗教でもなんでも、あらゆるものの根本に、土台として「かのように」が横たわっているのだ、ということに気づいた彼は、「かのように」の前に頭をかがめるという姿勢をもって、国史と神話の折り合いもつけられるし、危険思想としてのそしりを受けることもなくなるはずだと考えた、というようなお話です。
何を言いたいのかというと、私は、日蓮大聖人も日寛教学も大御本尊も日蓮正宗も、あたかも帰依の対象として正しい「かのように」信じているのです。
壮大なフィクションを信じることで、信者が心の安心を得られるのなら、それでいいではないですか。
その宗教が社会的に害毒を流す場合は別です。
創価学会は、社会に害毒を流し、会員を不幸にしているからアウトです。
日蓮正宗も、あまり社会的に非常識な行動に出るようなら、内部で批判していきたいと思います。
そうでなければ、いまの法華講みかつの状態をしばらく続けたいと思っています。
これでも納得していただけないかもしれませんね。
ヴィトゲンシュタインという哲学者が、言語ゲームという面白い考え方を教えてくれました。
それは、「ある言語ゲームの中では、その前提が実在し始める」というものです。
たとえば、サッカーの試合中は、選手はサッカーのルールに従って試合を進めているということ。
サッカーのルールに従わない人が、手を使ってボールを投げたりすれば、ハンドの反則になります。
もう少し別の例では、日本という社会の中で、模様を描いた紙きれを1万円札だと政府が決めて、国民がそのルールにしたがうと、その1万円札は1万円という価値を持つということです。
私の場合で言えば、日蓮正宗・法華講という集団の中で、「日蓮大聖人も日寛教学も大御本尊も日蓮正宗も正しい」というルールに従って、信仰をする限り、心の安心が得られるということです。
もし、そのルールが社会的にまずいと思ったら、ルールの変更を提案します。それが受け入れられなければ、レッドカードをもらうだけです。
難しかったですか。
説明がへたですみません。
ながながと失礼しました。
獅子風蓮でした。