goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

社会的距離

2020-05-04 19:13:19 | 文学


この頃は、四月、祭見に出でたれば、かの所にも出でたりけり。さなめりと見て向かひに立ちぬ。待つほどのさうざうしければ、橘の実などあるに、葵をかけて、
  あふひとか聞けどもよそにたちばなの
と言ひやる。


賀茂祭に見物に出かける蜻蛉さん。それにしても、祭といえば何が何でも出かけてしまう。こんな心性の我々が、「新しい生活様式」とやらで、ソシャルディスタンスで横並びで食事で声を立てるなすぐシャワーを浴びろ、みたいな生活に耐えられるとは思えん。だいたい、緊急事態じゃなく「新しい」のは何故であろうか。我が国で「新しい」なんとかというやつが出てきたときには100%何かを誤魔化しているときであり、今回もそうであろう。――というのはどうでもよいとして、お祭りをどうするか、は重大問題である。入学式卒業式もお祭りである。桜でどんちゃん騒ぎをしたいわけであるから、九月入学は反発は大きいだろう。とはいえ、我々のなかには「安心安全」オタクみたいな性質も猖獗を極めつつあり――、政府の言うことをへこへこ聞くやつを半笑いで150年ぐらい愛でているうちにだんだん自分もそうなってきてしまっているのが我が国である。政府の義務をなぜ我々が内面化しなきゃならんのだ。

閑話休題。蜻蛉さんは、時姫さんも来ているなとみつけ、道の向かいに牛車を止める。で、行列が過ぎるまで暇なので、橘のみに葵を添えて「今日は葵祭でござんすね。こうしてお目にかかる日だというのに、てめえはよそよそしく立ってばかりで」と攻撃開始。

やや久しうありて、
  きみがつらさを今日こそは見れ
とぞある。「憎かるべきものにては年経ぬるを、など今日とのみ言ひたらむ」と言ふ人もあり。


やや時間がかかって、「あんたの薄情なのを今日こそはっきり見ましたわ」と返ってきた。「こちらを長年憎いと思っているくせに、なんで「今日」とか言うてるの?」と言う侍女もあり。戦争である。

帰りて、「さありし」など語れば、「『食ひつぶしつべき心地こそすれ』とや言はざりし」とて、いとをかしと思ひけり。

兼家は蜻蛉さんの方にいたらしく、今日のことを話すと「「食い殺すぞという気持ちがする」と言わなかったかい?」と面白がっているのであった。兼家さんとしたら、こういうやりとりがあることは嬉しいのであろう。なんか好対照な二人が自分をめぐって争っていて。

我々の社会生活は、社会的距離などというものを一定に保つようには出来ておらず、――心理的にはもっとそうなのだ。横並びの食事と言えば、「家族ゲーム」という映画で、家族が家庭教師を入れて横並びに食事しているシーンがあったのを思い出す。あそこあたりから、家族の問題が「距離」感の問題であるかのような賢しらな議論が出てきたような気がする。映画はそれをたぶんからかっていた。まだ、この映画の頃は、馬鹿馬鹿しいこともあったもんだという感じがしていたが、社会的距離みたいなものが抽象として意識されるようになってから、我々は心理的自我のあり方を変えてしまった。エドワード・ホールが、竜安寺の庭について次のように言っておる。

日本人が空間の知覚に際してあらゆる感覚を使うこと、何かを見出しうる点まで人を導いて行く傾向とが示唆される。この傾向は日本人の生活の他の部分にも反映している。

――「かくれた次元」(1966)


だが、竜安寺の庭をどこから見たとしても、なにか一つ隠れていると同時に多くものがあらかじめ見えないのはどうしてなのか。そこに本当に自由があるのだろうか、といつもわたくしは思うのであった。何かが見出されるまで、いつまで我々は庭の周りをうろうろしているのだ?ホールからしたら日本の庭は驚きだったのかも知れないが、我々がそんな見方を内面化してありがたがることはないのだ。竜安寺の庭だって過渡的なものに過ぎないではないか。

弱さのなかの経験

2020-05-03 23:25:28 | 文学


さて夜は明けぬるを、「人などめせ」といへば、「なにか。又いと暗からん。しばし」とてあるほどにあかうなれば、男どもよびて、蔀あげさせて見つ。「見給へ。草どもはいかがうゑたる」とて見出だしたるに、「いとかたはなるほどになりぬ」などいそげば、「なにか。いまは粥などまゐりて」とあるほどに、昼になりぬ。

兼家宅で一晩明かしてしまった蜻蛉さん。明るくなる前に帰ろうと持ったが、「まだ真っ暗だよ」と、だから帰ろうと思ったのに……、そう言われるとなかなか返しが難しいものだ。明るくなってしまい、召使いの男どもに蔀をあげさせ、「見たまえ、庭の草はどんなだろうね」と言って眺めている。「体裁の悪い時間になってしまいました」と急ぐと、「いいではないか、ご飯食べていけば」とか言うてるうちに、昼になってしまった。

お前たちは、大学生かっ、という恥ずかしいやりとりであるが、兼家というのはこういう感じでだらだらと女性と付き合ってきているのであろう。いい男の場合は、こういうだらしない感じが良さに見えてしまうのである。――と思ったが、自分の体調が悪いときでも、なんかセンスのよい思いやりがある言葉を生産出来るから蜻蛉さんと過ごしたのではないかという感じがする。元気なときには、もっと滅茶苦茶な女性でも、違った楽しみ方があるのかしれないが、弱っているときにはそれなりの優秀な相手でないととんだ悲劇になりかねない。――実にひどい考え方である。

柴田翔の『されど われらが日々――』に何か関係ありそうな場面があった気がするが、いまは思い出せない。中学か高校の頃、この作品と三田誠広の『僕って何』を比べて読んでみたわたくしは、恋愛というのはやはり弱さが決め手なんだなと思ったような気がする。非常に悪い読書経験であった。

それはともかく、弱さがあまりよくないと思うのは、物事の経験がなんというか細切れになっていくというのがある。わたくしの小さい頃がそうで、喘息や何やらで経験が細切れになっているような感じであった。西田幾多郎の『善の研究』で、

表象の体系が自ら発展する時は、全体が直ちに純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったといふ如きは、その一例である


という記述がある。健康でないと、こういう経験は信じられない。ゲーテが大きな作品を作れるのは、やはり彼の健康と関係があるような気がする。「表象の体系」は、未来遙か遠くにある。不健康だと、こういう遠くがないので、目の前のちょろちょろしたものが優しくないといけなくなる。西田自身はたぶん丈夫な人で、そういう人の前に、重い悲劇が次々にやってくる。「これは何の経験だ?」と彼は考えたに違いない。そして、真の経験というモノに支えられた目の前の不幸を経験しようと考えたような気がする。

火ともしつけよ。いと暗し。

2020-05-02 20:56:53 | 文学


さしはなれたる廊のかたに、いとようとりなし、しつらひて、端にまちふしたりけり。火ともしたるに、火けさせておりたれば、いと暗うていらんかたもしらねば、「あやし、ここにぞある」とて、手をとりてみちびく。「などかう久しうはありつる」とて、日ごろありつるやうくづしかたらひて、とばかりあるに、「火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ」とて、屏風のうしろにほのかにともしたり。「まだ魚なども食はず。今宵なんおはせばもろともに、とてある。いづら」などいひて、物まゐらせたり。

ちょっとよくなったというので、なんとはしたなくも蜻蛉さんみずから兼家さんちに見舞いに行ってしまうのだった。行くと、渡殿の方にきれいな部屋を用意してあった。

「彼は縁側に横になっていた。ともしてあった火を消させて車から降りたのでとても暗くて入りかたも分からない、だから「どうしたの。こっちですよ」と言って、手をって導いてくれた。「どうしてこんなに長くかかったの」と言って、日頃の様子をぼつぼつと話して、しばらくすると「火をともせ。暗いね。何も心配することないよ」とて、屏風のうしろにほのかに灯をともすのだった。」

屏風の後ろに灯を付けるまできちんと感情的に手順を踏む感じでなかなかにいい場面である。この後、魚云々とあるように、兼家は精進落としの魚を彼女と一緒に祝おうとしていたのだ。なかなかいい男ではないか。

昔、金井恵美子の『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界にへようこそ』のなかに、アンチ・ロマンなどは物語性よりも描写性というものに重きを置いているんだと書いてあるのを読んだ。同じ文章で、高崎経済大学の学園闘争を描いた「圧殺の森」についてのコメントがあって、最初、学生の顔が馬鹿すぎて見てられないが、次第に映画的によくなる、みたいなことが書いてあった。私はここまでして顔に注目している感性とはどういうものかと思ったのを覚えている。

思うに、上の兼家邸の場面がいいのは、ほぼ暗闇の出来事だということだ。金井氏は、高崎経済大学の学生の顔を明るい光の下に見ている。確かに、この映画の光の使い方はなにか中途半端に見え、ずっと4時頃が続いている感じだった。わたくしは、学生運動の時代はもう少し闇があったし、だから運動自体が「火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ」というかけ声に聞こえたのではないかと思う。

 その夜私は提灯も持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈がちょうど戸の節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇のなかであった。街道へその家の燈が光を投げている。そのなかへ突然姿をあらわした人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであろう。私は別にその人影を怪しいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝っと、その人影が闇のなかへ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇のなかの想像になり――ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処』というもののない闇に微かな戦慄を感じた。その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。――

――梶井基次郎「蒼穹」


この小説は、大学一年生の時に演習で扱って以来、お気に入りなんだが、――まだ私がそのころ住んでいた都留市にはそんな闇があったような気がする。闇を知っているからこそ、梶井は白昼を闇と感じることも出来る。我々だってそうなのだ。そのとき、我々の心の中に描かれるものは、物語と無縁ではない。

心地いと重くなりまさりて

2020-05-01 23:37:20 | 文学


かかるほどに、心地いと重くなりまさりて、車さし寄せて乗らんとて、かきおこされて、人にかかりてものす。うちみおこせて、つくづくとうちまもりて、いといみじと思ひたり。とまるはさらにも言はず。この兄人なる人なん、「なにか、かくまがまがしう。さらになでふことかおはしまさん。はや奉りなん」とて、やがて乗りて、かかへてものしぬ。思ひやる心地、言ふかたなし。


兼家も人間であった。突如、病に倒れる。もう余命幾ばくもないどうしょう悲しいと泣く兼家さん、につられて蜻蛉さんも泣く(ほんと、泣いてばっかりだな……)で、もう重篤になったので本宅に連行である。人に助けられて車にやっと乗る。蜻蛉さんをふりかえって辛そうである。残される蜻蛉さんはいうまでもなく辛い。がっ、兄貴はてきぱきと、「何だ、そんなに泣いてばかり。まったくそんな大したことですかいな。早くのりなさい」と一緒に車に乗って行ってしまった。蜻蛉さんはぼうぜんと見送るばかりで、つらい。

確かに病気になると、ある種、病気がメディウムとなって愛の空間が生まれるのか、何か知らないが――ボンクラは蜻蛉さんと一緒に泣きまくる。よく分からんが、歎きとか泣きという行為において、彼らは波長が合う人々であったのではなかろうか。我々は愛情とかいう観念が、人間の行動を決めていると考えがちだが、行為が媒質となって観念が生じるのである。この場合、あまり歌のやりとりは必要ではない。歌は一種のバブルなので、崩壊の因子を含んでいる。いま蜻蛉さんたちは「心地いと重くなりまさりて」で十分なのだ。

文藝年鑑に依つて、君が明治四十二年の六月十九日に誕生した事を知つた。實に奇怪な感じを受けた。實は僕も明治四十二年の六月十九日に誕生したのである。この不思議な合致をいままで知らずにゐたのは殘念である。飮まう。君の都合のよい日時を知らせてくれ。僕は詩人である。
 そのやうな内容のお手紙を受取り、私はへんな、夢見心地に似たものを感じた。
 斷言してもよからうと思はれるが、明治四十二年に生れた人で、幸福な人はひとりも無いのである。やりきれない星なのである。しかも、六月。しかも、十九日。
 罪、誕生の時刻に在り。


――太宰治「同じ星」


ここで「夢見心地」という言葉を使う太宰治はさすが格が違う文人である。何もないところから星や罪を生み出してしまう。