★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

蓬と人生

2021-05-16 12:56:20 | 文学


年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひいづれば、心地も惑ひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、まださだかにも覚えず。人々は皆ほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあかしわびて、久しうおとづれぬ人に、
  茂りゆくよもぎが露にそぼちつつ人にとはれぬ音をのみぞ泣く
尼なる人なり。
  世の常の宿のよもぎを思ひやれそむき果てたる庭の草むら


更級日記の有名な顛末である。「蓬の露の様に涙に濡れながら誰も尋ねてこない寂しさを音をたてて泣いてばかりなのよ」、と尼に送った。すると、その尼は「あんたの蓬は世間一般のそれじゃないですか、世を捨てた私の庭の草むらがどんな風になってるかわからないの?」と返したのである。お嬢さんのいまいちのところが露呈した。そもそも、よりによって世間を捨てた尼に「淋しいんですが」と訴えてどうするのだ、――こういうことが分からないのがこのお嬢さんなのである。もしかしたら、仏教に対する淡い期待が尼へ自分の歎きを訴えることになったのかも知れないが、――結局、彼女は一種の、イメージや観念への依存症であり、仏の道に入っても人によってはもっと孤独にすぎないという自明の理がなかなか思い浮かばないのである。

で、考えてみたら、お嬢さんはつねに物語に囲まれてしあわせだったと思っていたのかしれないが、その実、人間に取り囲まれて寂しくはなかったのであって、――そんな事も気付かなかった事態を最後に放り投げて物語を終える、このセンスはなかなかのものに思われる。かつ、それはまだ思春期の課題なのでは?と思ってしまうのもわたくしにとっては、事実である。

尼の歌の「思ひやれ」は、自分のことをきちんと見よ、同じ事だが、他の人ものをちゃんと見よ、と言っていて、わたくしは好きだ。とはいえ、尼の感性とお嬢さんの感性はどれほど違っているであろうか?

賀茂祭り、斎院の御禊などのあるころは、その用意の品という名義で諸方から源氏へ送って来る物の多いのを、源氏はまたあちらこちらへ分配した。その中でも常陸の宮へ贈るのは、源氏自身が何かと指図をして、宮邸に足らぬ物を何かと多く加えさせた。親しい家司に命じて下男などを宮家へやって邸内の手入れをさせた。庭の蓬を刈らせ、応急に土塀の代わりの板塀を作らせなどした。源氏が妻と認めての待遇をし出したと世間から見られるのは不名誉な気がして、自身で訪ねて行くことはなかった。手紙はこまごまと書いて送ることを怠らない。二条の院にすぐ近い地所へこのごろ建築させている家のことを、源氏は末摘花に告げて、
そこへあなたを迎えようと思う、今から童女として使うのによい子供を選んで馴らしておおきなさい。


――與謝野晶子訳「蓬生」


だいたい蓬を自分で刈らないやつが多すぎる。人生、自分で蓬を刈るところからではないだろうか。それに、蓬もよく見ると可愛らしい植物である。


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