★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自意識過剰と特攻

2022-04-06 23:38:34 | 思想


有假名乞兒。不詳何人。生蓬茨衡。長繩樞戸。高屛囂塵。仰道勤苦。漆髮剃隕。頭以銅瓫。粉𧰟都失。面疑瓦堝。容色顦顇。體形蕞尓。長脚骨竪。若池邊鷺。縮頸筋連。似泥中龜。


なぜか道教先生に説得されてしまった皆様であった。道教先生が一番まずいのは、とりあえず世は「盛者必衰」で仙人に「なれる」と言っているだけで、これだけでは、何か成し遂げた人間に嫉妬している現代人の体たらくと一緒ではないか。いまなってみせろよ。昨今の「ガンバロウとおもいます」と盛んに言うだけの人間は、たいがい出来ない。なぜかといえば、いつも出来ないので目標の言葉上だけでそれを実現して興奮しているからである。で、我に返ると、出来ていそうな人間の足を引っ張ってその現実を否認しようとする。

上の仮名乞児は、まるで仙人で、しかも天上ではなく、地に落ちた鍋や泥の中の亀のような体たらくで現れる。とても丁寧な描写で、もうこいつが勝つんだなと分かる。存在だけで仙人に勝っている。実際に仙人的であるのはどういうことが実証しているからである。こういう人間が、上のような自意識過剰な人間をなだめるのである。僧達がきたないカッコをしてそこらを歩いていたのは意味があったのである。それがなくなったら、この世の中である。

或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。
「一体接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。


――芥川龍之介「侏儒の言葉」より「礼法」


恋愛も仙人になる方法と似たところがある。スタンダールの小説や恋愛論が、恋愛作法と機能していた説は信じられないが、日本にも恋愛の礼法みたいな作品は案外少ないかもしれない。やっぱフンボルト夫婦みたいなのが必要なのであろうか。源氏物語的な夜這いもお見合いも暴力的というと語弊があるかもしれないが、ほんとは「もはや勢いだ」じゃなかったのに「もはや勢いだ」みたいな書き方や認識になっている。自意識過剰の裏返しとして、こういう特攻みたいなやり方が方法としてでてくる。まだ、道教先生の様に、具体的な食べ物や薬を提案していたほうがましなのであろうか。そうではないだろう。体験的な学びが共同性に埋め込まれていた時代はよかったが、いまや観察力の差異によって、仙人になれたり恋愛が出来たりと、冗談みたいな世の中になっている。むろん、芥川龍之介は、この「礼法」を冗談で言っているのである。


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