来むとしも頼めぬ上の空にだに秋風吹けば雁は来にけり
大空に頼んでもいないのに秋風がふくと雁はやってくるのに、あなたは何故来ないの?みたいな意味であろうが、知るかという感じである。
上の空は、上空に「上の空」が掛かっているので、ほんとに空を眺めている訳ではなかろうが、――空を眺めるときにはどんな気分であろうとかぼんやりしているうちに時間が過ぎてゆくのが普通の人であって、たいがい雁も来ない。上の歌は、全体が空想ではなかろうか。
2ちゃんねるが俳諧的であるとは90年代から言われていたが、いまのツイッターの世界でも大して本質はかわっていない。字数制限があるから余計そうなった可能性すらある。それは簡潔に本質をつけるとか、そういう訓練になるとか思っているのは、半可通である。普通は、歴史に埋もれた星の数ほどある和歌の駄作のように、他人や過去を単純にとらえすぎる性向をドライブしている。この性向は現在に適用される。自分や現在に対する見方を他人や過去に適用するのが一見正しいように思えるが、逆で、他人や過去から複雑さの道を探った方がよいのである。「自分を向いて歩こう」https://tenshoku.mynavi.jp/content/newcms/ad/pr045/ みたいなのは、教育的にとてもよくない。
私も小さい頃、
上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて
というのを、星が瞬いているからそう見えていたんだと思い込んでいたが、こんなのが、自分を向いて歩こう、というやつである。歌詞をよく見ろよ、という。この話者は泣いているから上を向かざるを得ないのであり、星が滲んでいるのである。本当は滲んで見えているかも怪しい。それを数えているというのは強がりであるかもしれない。なにしろ「上を向いて歩こう」なのであるから、ほんとは下を向いている可能性が高い。
星はめぐり、金星の終りの歌で、そらはすっかり銀色になり、夜があけました。日光は今朝はかゞやく琥珀の波です。
「まあ、あなたの美しいこと。後光は昨日の五倍も大きくなってるわ。」
「ほんたうに眼もさめるやうなのよ。あの梨の木まであなたの光が行ってますわ。」
「えゝ、それはさうよ。だってつまらないわ。誰もまだあたしを女王さまだとは云はないんだから。」
そこで黄色なダァリヤは、さびしく顔を見合せて、それから西の群青の山脈にその大きな瞳を投げました。
かんばしくきらびやかな、秋の一日は暮れ、露は落ち星はめぐり、そしてあのまなづるが、三つの花の上の空をだまって飛んで過ぎました。
「まなづるさん。あたし今夜どう見えて?」
「さあ、大したもんですね。けれどももう大分くらいからな。」
まなづるはそして向ふの沼の岸を通ってあの白いダァリヤに云ひました。
「今晩は、いゝお晩ですね。」
――宮澤賢治「まなづるとダァリヤ」
宮澤賢治はとてつもなく強がりだったのかも知れない。普通は星が滲んだと言っているだけだが、まなづるとかダァリヤとかがしゃべり始めるからである。実朝はまだ永六輔に近かったかも知れないのだ。