★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

二項対立の生滅

2022-09-16 22:37:34 | 文学


ゐんきよくはどうの。氣色に極まり。さりとは頼すくなき身上なり。日比はたしなみ深く。見へたまふが。扨はかくし女のあるかと。尋ねければ。さやうさやうさやうの事はなきと申されける。我にしらせ給はぬは不覚也。命の程もせまるなり。

陰虚火動というのは、房事過度のおかげで精力が減退する病気だが、なんだろう、落ち込んでるが元気みたいな語感である。――というのは冗談であるが、我が国の文化はなにか、バイナリーというか、二面性を失いつつあるんではないかとおもうのだ。ポストモダンの人たちが、やたら「AとしてのB」を使いすぎたせいかもしれない。そりゃ、結局、Bではないか。

水島新司大先生の作品でも、「野球狂の歌」、これは辛うじて狂と歌が同居している。確かに、怨念とめちゃくちゃにあかるい歌が同居している作品である。しかし「ドカベン」は、「畳屋の歌」ではなかった。ドカベンは肥満体型の大打者だがこれはリアルにそれっぽい選手がいたからバイナリーにならない。岩鬼のあかるさは山田の明るさとよく混ざり合う。むかしの「ダイナマイトどんどん」は、ヤクザが野球で抗争する話で、ヤクザと市民、戦争と戦後、日本と米軍などのバイナリーが重ね合わさっているので和音が出る。ダイナマイトとどんどんも、その実バイナリーである。野球の場に移された爆弾が「どんどん」なのである。これが、野球選手がヤクザになっている設定の「ダイヤモンド」となるとなにかバイナリーがあるようでない。題名がなんとなく宙にういているばかりか、高橋慶彦をはじめとする選手たちが、もともとヤクザっぽい雰囲気をなくしていった世代に当たっていて、優しい大男たちが必死に(でもないか)ヤクザを演じようとしているが、演じ切れておらず、――その不完全燃焼の中で、最後の足立梨花氏のホームランシーンだけがすばらしく、結局、バイナリーの時代は終わり、「かわいい」崇拝の時代になってしまったことを思わせる。

そういう意味で、これから復興してくるのは、「男どアホウ甲子園」みたいな作品ではあるまいか。主人公は、甲子園優勝したあと、仲間のブロックサインかなんかをつかって、東大に受かった。その場面はたしか省略されていて、――「源氏物語」の雲隠れ並にすごい省略だった。野球以外は何でも省略なのである。

「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡って区分の原理を索める場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。さて、「渋味」という言葉はおそらく柿の味から来ているのであろう。しかるに柿は「渋味」のほかになお「甘味」をももっている。渋柿に対しては甘柿がある。それ故、「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。渋茶、甘茶、渋糟、甘糟、渋皮、甘皮などの反対語の存在も、この対立関係を裏書する。


――「いきの構造」


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