★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Воскресение

2024-09-15 18:22:04 | 文学
Janáček: Taras Bulba ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Andrés Orozco-Estrada


片方には海がひろがり、片方には伊太利が見える。あれ、向ふの方に露西亞の百姓家が見えてゐる。あの青ずんで見えるのはおれの生家ではないか? 窓に坐つてゐるのはお袋ではないか? お母さん、この哀れな伜を助けて下さい! 惱める頭にせめて涙でも一滴くそそいで下さい! これ、このやうに酷い目にあはされてゐるのです! その胸に可哀さうなこの孤兒を抱きしめて下さい! 廣い世の中に身の置きどころもなく、みんなから虐めつけられてゐるのです!……お母さん、この病氣の息子を憐れんで下さい!……ええとアルジェリアの總督の鼻の下に瘤のあるのを御存じかね?

――ゴーゴリ「死せる魂」(平井肇訳)


ゴーゴリの「タラス・ブーリバ」からああいう澄み切った音楽をつくってしまうヤナーチェクはタラス・ブーリバよりすごいとしかいいようがない。「鼻」からああいうオペラを作ってしまう若きショスタコービチはむしろリアリズムみたいなものに過剰にこだわっている。だからこそ、おなじリアリズムを標榜する政府と衝突するのである。反抗するものと反抗されるものの同一性はいつも話題になるのだが、長い時間をかけても目を覚ますとは限らないのが人間で、ロシアにおいてだって、ロシア帝政がむしろ真に始まったのはソ連になってからであった。革命は革命されるものの復活である。

学校の先生が妙に大学をバカにしたがる現象にはいろいろな原因があるのだが、例えば、いまの八〇代ぐらいのひとにとって、例えば教育学部なんかに、むかしの師範学校の先生みたいなのが残っており、戦争責任みたいなものへの複雑感情もあってか馬鹿にするというのがあったと思う。それが複雑感情なのは、実際それは彼らにとってみれば大石先生的なものと表裏一体であることを知っていたからである。その感情は、学園闘争の原因にもなっていたはずだ。右翼教師殲滅みたいなスローガンの対象となっていた大学教師の実態は一応調べてみないと分からないという感じがする。むろん「でもしか先生」みたいなレッテルへの反発もあって、わたくしの親の世代の教師達は思った以上に自意識のありかたが複雑感情的なのだ。確信を持ってかかげるモラルはない、それは戦争で崩れちゃったし、と母も言っていた。彼らは、批評家の英雄=柄谷行人なんかとおなじ世代である。柄谷が、自分たちは全ては迷信だみたいなセンスがトレンドだった世代なんだみたいなことをどこかで言っていたけど、背後にはただただ「迷」っていた人もかなり多かったわけであった。その「迷」いは、戦前にあったものの戦争抜きの復活なのである。