★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いまぞ胸はあきたる

2020-04-26 22:11:54 | 文学


かうやうなるほどに、かのめでたき所には、子うみてしよりすさまじげに成りにたべかめれば、人にくかりし心思ひしやうは、命はあらせてわが思ふやうにおしかへしものを思はせばや、と思ひしを、さやうになりもていく。はてはうみののしりし子さへ死ぬるものか。孫王の、ひがみたりし親王のおとし胤なり。いふかひなくわろきことかぎりなし。ただこの心しらぬ人の、もてさわぎつるにかかりてありつるを、にはかにかくなりぬれば、いかなる心地かはしけむ。わが思ふにはいますこしうちまさりて嘆くらんと思ふに、いまぞ胸はあきたる。いまぞ例のところにうちはらひてなど聞く。されどここには例のほどにぞ通ふめれば、ともすれば心づきなうのみ思ふほどに、ここなる人、片言などするほどになりてぞある。出づとてはかならず
「いま来んよ」
といふも聞きもたりて、まねびありく。


町の小路の女へのボンクラの愛は子どもが出来てからすっかり冷めてしまったようである。根性がすっかりおかしくなってしまっていたわたし(蜻蛉さん)は、あの女に長生きをさせわたしのような思いを一〇〇倍返しだと思っていたのであるが、――ほんとにそんな感じになってしまい、あげく果てにゃ、「うみののしりし」(大騒ぎして生んだ)子どもさえ死んでしまったトハナ。あの女、天皇の孫であり、世を拗ねた皇子の隠し子であった。言う価値もなくつまらない者であることよ。ただ、最近の実情を知らぬ人達が騒ぎ立ていい気になっていたところ、にわかにこんなことになり、どんな気持ちになったんだろうね。わたしが苦しんでいるよりもう少し余計に歎いているんだろうと思うと、いまこそわたしの気分はスカッと最高。ボンクラは、今は元通りに時姫様の所にしきりに通っていると聞く。でも私の所には時たまなので、ともすれば満たされぬ思いでいると、息子の道綱が、片言を言うのだった。ボンクラが家を出るときに必ず
「またすぐにクルよ」
という言うのを聞き覚えて、口まねをしてることだ。

第1楽章のクライマックスとも言うべき、すごい場面である。ボンクラの小悪が、蜻蛉さんを祟神に昇格させた。浮気相手の子どもを殺し、出自を暴露し息子にボンクラの口まねをさせる。道綱はインコかっ

かつて私は
悪事をやった立場に立たされた時
こう憎々しげに吐きつけられたものだ、
「胸に手を当てて、よっく考えて見ろ!」

私は今、胸に手を当てて
静かに激しく想っている。
私は悪事をやった為だろうか。

いや、私は悪事をやったのではない
悪事は彼等がやったのだ。
彼等は悪事を犯していながら
私をつかまえて手足を縛しておいて
「お前は悪人だ、
 お前等は悪事の張本人だ」
そう頭から、権威をもってどやしたのだ
その時何故、私は言わなかったのだ、
「いや断じてちがう、悪人は手前達だ、その背骨をいまに叩き折ってやる!」と

私は今胸を病んでいる
胸を病んでいる私は胸に手をおいて
胸の中に、鼓動しているかすかな響きをかぞえる
この響きは次第に私の内臓が細菌にむしばまれてゆく、そのかなしい音楽なのだ、
こんな音楽を誰が私の胸にかなでるのか、
かなでるのは私の弱った肉体なのだが、
こんな弱いからだにさせて
あけても、くれても天井ばかりを見つめさせ
私の老母を もう米が一粒もなくなったと言って泣かせたり
私の弟に魂のない人間となって働いてもらわねばならないのは、
「胸に手を当てて考えて見ろ」と言った
あいつらのためなのだ、私はあいつ等を憎悪する
「あいつこそ悪人ではないか! 仮面のあいつこそが」


――今野大力「胸に手を当てて」


「胸あく」(気分がすっきり)というのは、いまはなかなか言えぬ御時世だ。近代文学も屡々胸の病気が死の病で、罪悪感さえも胸の中にあるとされた。今野が示唆するように、我々の胸の中に嵐はあるが、罪はどこにあるのか。蜻蛉さんはもう自分の根性の悪さを楽しんでいるところがあるが、一応被害者だからまあいいだろう。世の中、罪を他人に見出して楽しんでいる連中ばかりである。


最新の画像もっと見る