★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大方には

2019-02-28 23:38:53 | 文学


もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うち振りし心知りきや

から人の袖振ることは遠けれど立ち居につけてあはれとは見き

大方には


舞(青海波)を披露した源氏が、はじめの歌を送ると、たまらず藤壺も送ってしまった場面である。恋しくて踊りを舞っている場合じゃありませんでしたみたいな言いぐさはたぶん嘘であろう。源氏はそのようなタマではない。何を考えていてもきちんと踊ってしまうやつである。源氏が袖がなんやらと遠回しにラブコールを送っているところにに、そんな中国の踊りの袖ふりのことは知らないあなた本体の立ち振る舞いはたまらないわ、と服よりも体みたいな恐ろしいことを詠んでしまったので、「大方には」と付け加えているところがさすがである。

わたくしも、少々どぎついことを言うときには、最後に「大方には」と言えばいいのかもしれない。

わたくしは、このような源氏と藤壺の宮のある種の公務員のような遠回しなコミュニケーションをあまり馬鹿にすべきではないと思う。革命などは、外部としての思想からの一撃でやっちまえばいいのかもしれないが、文化というものは、このようにぐずぐずやるものなのである。源氏も藤壺も一種の労働者なのである。彼らの自意識は全く逆だとはいえ――外部に立っていると思っている漱石や吉本みたいなやからこそが労働者の世界から疎外されている。一つ一つ錯誤をしながら進むことをやめて、いきなり外部に立とうとする奴が増えたのが問題だ。だから、改革が革命じみ、被害者が多く出るようになったのである。

藤壺の返事をみた源氏の反応が、文化的だが意味が分からんところがある。

「かやうの方さへ、たどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の、かねても」と、ほほ笑まれて、持経のやうにひき広げて見ゐたまへり。


ここでは、青海波やお后言葉、お経のような文化的な事象(の存在)が保存されている。ここでもし源氏が激情に駆られ藤壺に突撃なんかしてみなさい。


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