大奥の御乳持には、どのような女性が採用されたのか。
大奥女中の人事や各種の文書を記録した「女中帳」には、若君や
若姫の誕生に伴い採用された御乳持の名が記されている。
中でも文化2年(1805)から7年までを収録した女中帳の2冊目に
は、将軍家斉がこの期間だけで4男5女をもうけたため、御乳持に
採用された女性が多数記録されていた。その彼女たちの多くが御目
見以下の御家人の妻といわれる。
そんな御乳持の募集と採用を担当したのが幕府の監察官であった
目付で、応募者は御乳持吟味を経て採用された。普通、二次選考ま
で行われ、幕府奥医師数名と大奥の渉外担当女中である“表使”、
それに広敷用人が立合、応募者の乳汁の量と質、乳房の形、授乳の
様子などをチェックしたといわれる。
展示資料は全2冊、江戸城多聞櫓旧蔵。
(NAJ 千代田区北の丸公園3-2)
大奥女中の人事や各種の文書を記録した「女中帳」には、若君や
若姫の誕生に伴い採用された御乳持の名が記されている。
中でも文化2年(1805)から7年までを収録した女中帳の2冊目に
は、将軍家斉がこの期間だけで4男5女をもうけたため、御乳持に
採用された女性が多数記録されていた。その彼女たちの多くが御目
見以下の御家人の妻といわれる。
そんな御乳持の募集と採用を担当したのが幕府の監察官であった
目付で、応募者は御乳持吟味を経て採用された。普通、二次選考ま
で行われ、幕府奥医師数名と大奥の渉外担当女中である“表使”、
それに広敷用人が立合、応募者の乳汁の量と質、乳房の形、授乳の
様子などをチェックしたといわれる。
展示資料は全2冊、江戸城多聞櫓旧蔵。
(NAJ 千代田区北の丸公園3-2)