「日本人が泣いてるのを見ると頭にくるわ」知人の在日朝鮮人女性が言った。映画「シンドラーのリスト」を見終って、場内が明るくなった時、客席ではハンカチで涙をぬぐう人びとがかなりいた。
ナチスによる「ホロコースト」について日本人は責任を問われることはない。ユダヤ人の悲しい運命に同情の涙を流してカタルシスにひたることは許されるはずだ。にもかかわらず、なぜ彼女は「頭にきた」のだろう。
たぶん彼女は、日本人の想像力の欠如を言いたかったのだろう。ホロコーストは遠いヨーロッパの出来事だった。しかし同じ時期にアジア全域で日本人が行った暴力・拉致・殺戮に想像はいかないのか?ドイツ人がユダヤ人にしたことに涙を流す人は、日本人が朝鮮人に何をしてきたかを知らないのか?その「記憶」を日本人はどのような「ことば」にしてきたのか?
私の目の前に一冊の本が置かれている。七○○頁、厚さ五センチの本書の重量感は圧倒的である。ホロコーストについて書かれたドキュメント、日記、エッセイ、小説、戯曲、詩が集められ、巻末には十六ページにわたってイラストや絵も紹介されている。
驚くべきは本の重量感ではない。ホロコーストという一つのテーマについて、ユーラシア大陸各国語に加えてヘブライ語でも書かれた膨大な文献資料を渉猟、読解、選別、編集し切った人間の情熱である。
ヤンキェル・フィルニクという、聞いたことのない名前もある。「トレブリンカの一年」という記録を残している。ポーランド生まれの大工と紹介されている。七十五万人から百万人が殺されたというこの収容所で彼が生きのびることができたのは、ひとえに大工という技術のゆえである。彼は脱走に成功し、1944年5月、自分が体験し目撃した記録をワルシャワで秘密出版する。それがロンドンに運ばれ、連合国側が強制収容所と大量殺戮の実態を知ることになる。
毎日何人がガス室で殺されたか、ガス室はどのような構造か、拷問と労働の実態はどうであったかの克明な記録である。「ナチ『ガス室』はなかった」という『マルコポーロ』誌の筆者及び編集者は、まずこの記録に反証を試みるべきだったろう。
神戸大震災の現場中継でキャスター達はしばしば不用意にくりかえした。「このような惨事を前に私はことばを失います」
語れ、ことばを捜せ、表現を試みよ、どうか、ことばをなくすなどと簡単に言うな!
本書の冒頭で、編者のローレンス・ランガーは「ホロコースト文学を書くことと読むこと」という題で小論を掲げている。「ことばには限界がある。圧倒的な現実を前に、ことばを紙に記す行為の無力感に襲われることがある」と認めつつ、しかし、彼が本書でやろうとしたこと、やりとげたことはそれへの挑戦だった。語り尽くせぬことを語ること、それ以外に体験の意味を探り、記憶にいのちを吹き込む方法はない、と言わんばかりに。
私はイアン・ブルマ著『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(TBSブリタニカ刊)という本を翻訳した。翻訳家でもなく、ヨーロッパ現代史の専門家でもなく、映像と出版の企画をする個人事務所を経営する私が、敢えて八百枚の翻訳を試みたのは何故だったのだろう。
私事を語れば、敗戦時三歳だった私に戦争の記憶があろうはずもないが、ソ満国境に勤労動員で送られ、ソ連軍侵攻に遭遇、死亡した当時十四歳の実兄の理不尽な運命に対し、心の中に埋めようのない空洞があった。翻訳はそれを埋めるせめてもの作業であった。ことばが欲しかった。信ずべきことばに出会いたかった。
厚さ五センチのこのアンソロジーには、ドイツの教科書にものっている詩編「死のフーガ」を書いたパウル・ツェランの十五篇の詩も収録されている。ドイツ語を彼に教えた母は、ドイツ語で死の宣告を受け強制収容所で死んだ。1970年、49歳、パリでの自殺は、彼がドイツ語に絶望し、ドイツ語から逃れる唯一の方法だった。にもかかわらず、本書が我々に語りかける通奏低音は、よるべなき状況にあって、よるべとなることばをさがせ、そして語れという激励である。