Progress

日々一歩ずつ前に進むために書き綴ろう…。自分の中のちょっとした変化を大切に…。

笑い

2007-04-19 05:34:27 | 随想
昨日の『笑っていいとも!』の”テレフォンショッキング”のコーナーに茂木健
一郎さんが出演していましたが、どこか緊張して様子でしたね…。


『笑っていいとも!』は、いわずと知れた、タモリさんが司会者を務める、ギネ
スブックにも認定されている生放送の長寿番組です。

その長寿の秘訣は、お昼どきのほっと一息つく時間帯ににちょうど合った”笑い”
をお茶の間に提供してくれているからでしょう。


ところで最近のお笑いを見ていると、「欧米か!」など、オリジナルのフレーズ
で周囲を笑わせるネタが多いですよね。

また桜塚やっくんや陣内智則みたいに小道具を使ったお笑いも増えてきました。


そんな最近のお笑いに共通するのが、“分かりやすい”笑い。

簡潔なストーリーで、ツッコミを入れてすぐに聴衆の笑いを誘う・・・そんな作りを
している感じがします。


ところが昔はそうではありませんでした。

私は以前のブログ記事にも書いたとおり古典落語が好きで、そのネタ本を読んだ
りすることもありましたが、以前から今の笑いとは本質的に違うように感じてい
ました。

そのことは狂言なんかと比べてみるとさらにはっきりとします。

その違いはいろいろありますが、最も違う点は“表現のこだわりの差”というこ
とかもしれません。


今の笑いはコントなんかが特にそうだと思いますが、装置や小道具の実物を使い、
あとは芸人の会話のやりとりで笑いを生み出します。

つまり場面設定などに想像力を働かす必要もなく、芸人のやりとりに集中してい
ればよいという構造なんですね。

また笑いの話の展開が通常の感覚とはかけ離れたものを大げさに取り上げるとこ
ろにあります。


ところが古典落語では、扇子1つで小道具を作り上げます。

狂言でも例えば酒を飲むシーンでも全く徳利や杯が出るわけではありません。

自分の動作1つで表現するんです。まるでそこになにかがあるように・・・。

つまり昔の伝統芸能は自分の動作から周囲のもの全てを表現し、架空の世界を作
り上げるんです。


またその笑いの中心は人間の本質の表現にあります。

つまり役柄のおもしろさ、哀れさ、滑稽さがその鏡に写し出された人間自身の面
白さであり、あわれさであり、滑稽さなんです・・・。

それは風刺を超えた、人間劇とも言えるでしょう。


そんな笑いの変化が、昨今の人間の本質、人情の機微を見抜く慧眼を失ってきて
いることにつながっているのかもしれませんね。